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浮遊2

 翌日の火曜日も学校。

 《彼》とは、こころなしかいつもより目が合ったり、話したりすることができた。それは少しだけとはいえ、感情の混濁を清めてくれるような気がした。しかし、そんな気分の紛らわせは本質的な事態を何も変えてくれない。

 僕は昨日、ナノハからバレンタインチョコレートらしきものを渡された。それだからには、何かしらの返答をしなければならなかった。何かしらの返答をしなければ、という意識はあったのだが、昨日の今日でナノハは僕のことを避けていたし、僕は僕で懸案を抱えていたのだった。

「親と ……相談、ですか」

「そうだなあ。さすがにこれはまずいと思うんだ、先生は」

 僕と担任はかびくさい暖房の面談室で、長テーブルをはさんで対面していた。

「これは、ホントのことなんだよな」と担任は、机の上の作品カードをバツが悪そうに指す。

「はい」はっきり返事をする。

「あのな、このコンクールに応募したからって入賞するかはわからないが、もし入賞すればこの作品カードも公に出るんだ。それはわかるよな?」

「はい」

「それなら、親と相談した方がいいんじゃないか? それとも作品カードを書きなおすか?」

 先生と話しながら、ひとつの場面が脳裏にこびりついているのを僕は発見した。

 確か、あの日は、五か月前のこと。9月くらいのこと。

 ダイニングテーブルで僕はヨーグルトを食べていた。そして、母親はソファでテレビを見ていた。

「お母さん?」

「何?」

 どうして、あの日に母親にカミングアウトしようと思ったのか覚えていない。ただあの日の印象、感情の流れ、そういうことしか覚えていない。

「あのさ、大事な話があるんだけれど」

「何? そんな真剣な顔して。何?」

「うーん ……」ほんとうに、わかっていないのか。

「もしかして、妊娠させちゃった?」

「は?」何をとぼけているのか、この母親は。そう思った。

「じゃあ何? 何かいじめ?」

「違う。違う違う」僕が自分の口で言わねばならないのか。改めて自分と母親が疎ましく感じられた。

「じゃあ、何よ」

「あのね」

「うん」

もうなるように、なってしまえばいい。

「僕さ、ずっと言いたかったんだけれど」、と一呼吸をおき、「僕 ……同性愛者なんだ。ゲイなんだ」

「ふうん」

 そうあっさり言われた。

「あ、そう」と母は言われたことを咀嚼するように言った。

 僕は、ものすごい拍子抜けをした。なんだ、カミングアウトは簡単なことじゃないか、と。

「スグルは、スグルでしょ」そう母は言った。

 その言葉を思い出した。

 僕は作品カードを書きなおすつもりがないこと、応募をしたいこと、たとえ作品カードの内容が公の場で公表されたところで、僕には問題がないことを話した。

 そうか、そう諦めたように言って、担任は話を切り上げた。僕は一階の面談室からじぶんの居場所である美術室へ向かった。


 一階の面談室から五階の美術室まではかなりの距離で、無駄な時間をとられたな、と思った。

とはいえ、無駄な時間をとられたと言っても僕は美術室には用がなかった。ほんとうに。コンクールに応募するための作品は描き終えたし、今の美術の授業で提出課題は出されていなかった。傀儡師が僕を美術室へ誘導していても、なんら不思議はなかった。僕は美術室の扉を開けて入った。

 見回すと、部員数名のなかにヒロトがいた。

「よお、松野」、こちらに気づいたヒロトは僕に手招きした。彼の手は、墨で汚れていた。

「それがコンクールの作品?」机の上に置いてある、墨の塗られた木版を指す。

「まあね」

 木版には、天使のような姿の二人の人物が彫ってあった。勢いのある彫刻刀運びで浮き彫りになった翼。繊細に彫られた口や鼻や目などの顔のパーツ。僕の『羽ばたかせてほしい』と似ているかもしれないとは思ったが、片方の天使は女性だった。木版画なのに、女性の天使の艶かしい体の線はわかった。そして、もう片方の若い男の天使は空から落ちるような恰好だった。

「松野、イカロスの話は知ってる?」

「イカロス?」

 イカロスという名前を聞いて、僕は漠然と思い出した。たしか、イカロスの絵は国語の教科書にも掲載されていた。塔から脱出しようと、イカロスとその父が蝋で作った羽で空を飛ぶ。高く飛び過ぎると太陽によって羽が溶けてしまう、という父親の忠告があった。しかし、それを忘れて、イカロスが意気揚々と飛んでいたところ、案の定、羽が溶けてしまってイカロスはそのまま海の藻屑となった、という話だ。

「俺、あの話好きでさ」ヒロトは木版を持って、製版機に向かった。僕はついていった。「でも、男二人だと面白くないじゃん? だから悲劇のカップルみたいな感じにした」

「ふうん」と少々ぶっきらぼうに返した。僕はヒロトの言葉に戸惑っていたのだった。

「あー、松野の作品は男二人だったわ、ごめん」

 この会話になって、僕は自分の中である欲望が芽生えているのに気づいた。それは、ヒロトにカミングアウトしたいというものだった。なぜか、今が好機のように感じられたのだ。今ならば、ヒロトにカミングアウトしても、うまくいきそうだ、と。今ならば、自分が何者であるのかを知ってもらえるのではないか、と。

 しかし、僕は一旦、押しとどまることにした。

 ヒロトはそのまま木版を製版機に通した。色付けは明日やるよ、そうヒロトは言っていた。


 ヒロトは京成線、僕は総武線で通学していた。ただ、京成幕張駅の前を一旦通って総武線の幕張駅に行けたから、たいていの場合はそこで別れた。いつものように、それじゃあ、と手を振ろうとしたところで、僕は疑問がふと浮かんだ。

「美術の意味は何なんだろう」と僕は聞いた。「どうして僕たちは絵を描いたりしているんだろう」

 僕はすでにその問いに対する自分の回答を知っていた。それは不純なものなのだった。

「意味なんてないんじゃないの」とヒロトは言った。「結局、自分が描きたいから描いているだけで。少なくとも、俺はそうだけど」

 僕は心の中でヒロトのことを称賛した。彼の一種の無気力さは、同時に無欲さも彼に与えてくれていた。そして、称賛と同時に僕は後ろめたさを感じた。

「そうしたら、どうして高校美術コンクールに応募しようと思ったの?」

「松野に言われたから、かな。いや、厳密に言えば、松野に言われなければそんなコンクールの存在も知らなかったし、応募しようとも思わなかった」

「そっか……」

 ヒロトの目に、僕はどう映っているだろう。名誉がほしい愚人、哀れな劣等感の奴隷? 僕の視線は自然と地面に向けられてしまう。

「だから、俺は松野に感謝している。コンクールの話とかを出して、美術部を盛り上げようとするのはすごくいいと、俺は思う」

 僕は思わぬ言葉に、最初は何の感情も浮かばなかった。ふうん、と流す程度に。

「僕は何もしていないよ」

 そうやって、僕は謙虚さを装う。実際は、人に感謝されることほど嬉しいことはないのに。本当は、自分の功績をたたえられたいと思っているのに。

「そもそも、意味のないものの方が、この世は多い。少なくとも、俺はそう思う」ヒロトはきっぱりと言った。

「たとえば?」

「たとえば、ホモの人とか」

 そう言った瞬間、遠くで総武線快速の電車が走り過ぎていった。その電車はうるさかった。僕とヒロトの会話は途切れた。そのおかげで、僕は思考する時間を与えられた。

「どうして、ホモの人は意味がない?」僕は少し気になっっていたのだった。いや、かなり気になっていた。ヒロトは、僕のような同性愛者について、どう思っているのかということに。

「だってさ、考えてみ? 人間、いや、生物全般は、子孫を残すことをプログラムされている。そのおかげで、何百万年も人間は生きてきた。つまり、人間は子孫を残すことに意味があるんだよ。それなのに、ホモって子どもを産めないじゃん? ほんとうに、不思議だよな」

 僕は、少し考えてみた。もしここで、僕がカミングアウトしたとしたら? ヒロトはどういう反応を見せるだろう。これまで、僕とヒロトは色々なことについて話してきた。信頼関係は築かれていると思った。ヒロトなら、僕のことを受け入れてくれるのではないか、と。話題も、ちょうど切り出しやすい。今こそ、ヒロトときちんと、友人として向き合えるかもしれない。

 しかし、僕の中の一部分は、即座に却下した。

「そうだね、不思議だね」僕は同意した。その同意は空っぽだった。ある日に扉すべてが開放されて、囚人が嬉々として逃げ出してしまった収容所よりも、よほど空っぽだった。

 突然、ダッフルコートの上から寒さがのしかかってきた気がした。

「寒くない?」僕は聞いた。

「そう?」ヒロトは首をかしげた。

「僕、帰るね」

「了解、それじゃ」

 僕は足早にそこを去った。急いでウォークマンを取り出して、再生ボタンを押した。世界の終りの、生物学的幻想曲が流れた。

 幕張駅のホームに着いて、僕はベンチにどんと座った。深くため息をついた。

 いつになったら、本当の僕をわかってもらえるだろう。

 頭をかかえた。

 駅のホームを冬の風が突き抜けていった。

 電車がまもなく到着することを知らせる放送が流れた。


 電車の席は、端がすべて埋まってしまっていた。端の席はいつでも居心地がよかった。首をもたげる仕切り板もついているので、寝るにも快適だった。

 あいにくだったが、僕は真ん中の席に腰をかけた。

 正面の車窓に映じた自分の姿があった。

 車窓の僕は、ずいぶんと思い詰めた顔をしていた。


「水道橋、水道橋。お出口は、左側です」

 僕は降りた。

 そこから都営三田線に乗り換えて、家に着いた。 

 

**    **    **


「兄とは、あまり話さなくなりました」

 刑事は、少し疲れたふうに目を少女に向けた。もちろん、目は合わせないように。

「母親からは話を聞きました、兄が、男子が好きな男子だと。そして、たぶん、偶然ではなく、その日以降、兄は家でもイヤホンをつけるようになりました。何を聞いていたのかわかりません。とりあえず、いつもイヤホンをつけて部屋にこもっていました。だから、話す機会も少なくなってしまって ……」

 夕飯には会うのではないのか、と刑事は思ったが疑問は慎んでおくことにした。現実で人と会っていても、心の中で会っていなければ、なにもかもが違うのを、刑事は一番わかっていたつもりだった。

「母親とお兄さんは一言も口をきかなくなったのですか?」

「いや、そういうわけではありませんでした。ごはんのおかわりがほしいとか、どいてとか、そういう会話はありました。ただ、最低限の会話でしかなくて、家での兄の口数はガクンと減りました」

 はあ、と刑事は合点の言ったように息を吐いた。

「刑事さんは、兄弟はいますか?」唐突な質問。

「えっ」、刑事は自分が質問される側になるとは思いもしなかった、「います。いや、いました」

「いました ……?」

「もう亡くなっています」

「あ ――そうなんですか」松野スグルの妹は、後ろめたそうにダイニングテーブルを眺めた。

「別に気にしなくても大丈夫ですよ」

「いや、すいません」そう言って少女は刑事の目を見た。幾世紀かぶりに見た気がした。そして、驚いた。少女は、刑事が少し微笑んていることに気づいた。刑事の微笑み方は、密かな殺人者のようなものではなく、すべての悪事、後ろ暗いことをも受け入れてくれる慈父のようだった。

 こういう表情も作れるんだ、少女はそう思った。

 


**    **    **


 ヒロトにカミングアウトすべきだったのかどうか、僕は自分の部屋でぼんやりと考えていた。回転式のいすの背もたれに体重を預けたりして、いすを前後に揺らしていた。帰宅してからもイヤホンは付けっぱなしだった。

 もうごはんだよ、妹の声が聞こえた気がした。

 僕は特に答えずに、イヤホンを外して食卓に向かった。


「先生から、電話をいただいたんだけど」

 夕食後のことだった。僕は夕食から席に座ったままで、母親はダイニングテーブルをはさんで僕の正面に立っていた。妹は自分の部屋で勉強しているらしく、居間にはいなかった。妹も僕が同性愛者であることは知っていたが、だいたいの場合、母親は彼女がいない時を選んでこの手の話題を出してきた。

「ふーん」

「美術コンクールに作品を出すそうね」

「うん」

「もう少し考えないの?」

「何を?」

「作品カードの内容」

「そこまで大げさになることでもないと思うけど」僕は目をそらした。

「でも、もし入賞したりすれば公になるのよ」どうしてくれるの、とでも言うような口調だった。

「それが問題なの?」僕は母親の口から、僕を傷つけうる言葉を引き出そうとした。もう、いっそのこと、すべてから突き放されてしまいたかった。

「まだ早い気がするの。スグルは別に、自分がゲイだって知られてもいいのかもしれないけど、それで迷惑がかかるって考えないの? クラスの男の子も、着替える時に気にするかもしれないし、それで先生も気を遣わなくちゃいけないでしょ?」

 僕の存在が、迷惑。

「それに、誰もいないでしょ? 私は女の人が好きです、とか、男の人が好きです、とか、わざわざ表明する人は。だから、スグルもする必要性はないの」

 僕は何も指摘するつもりはなかった。

 僕の中で再び蘇ってきた記憶は、五月前の九月、母親にカミングアウトした時。

「スグルは、スグルでしょ」

 あっけらかんとした母親の答え。

 あの時、僕は安心感、安堵感、解放感を感じていた、と思う。

 しかし、あのあっけない応答は単純に無知に由来するのだと僕は確信した。何もわかっていなかったのだ、母親は。なにひとつ。

 僕は、落胆した。

「そうだね」

 僕は、反論するのも億劫だった。そのまま、美術コンクールには作品を応募しないことにした。

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