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表面的な手紙と、遺書

 宮野ナノハは、男勝りな性格の持ち主だった。もちろん、彼女は女子としてかわいい部類だったし、努力家にちがいなかった。朝のホームルーム前には何人かの男子と楽しそうに話している。何かいたずらっぽく茶化されると、男子のすねを蹴って反撃に出る。

「みんな、あのー、早く手紙を書いてください」

 リーダーシップのある彼女は、このクラスの記念としてタイムカプセルを作ろうと提案した。今は二月で、もうこのクラスも二か月ないのだ。タイムカプセルには、十年後の自分と(もし書きたければ)十年後のクラスメイト宛ての手紙を入れる。

 僕はもうすでに十年後の自分に宛てた手紙を書き終わっていた。しかし、あまり筆の早くないクラスメイトはまだ手紙を書けていなかった。宮野ナノハは、困った局面で女子らしさを発揮するところがあった。

「あのぉ……、すごく困ってるので、早く、書いてね」両手を合わせて、かわいらしいようにその合わせた手を頬に付けながら言った。男子のすねを遠慮なく蹴る割には、女子の面も活かすとは世渡り上手この上ない。

 僕は、手紙がなかなか提出されない状況をひそかに喜んでいたことに気づいた。


《松野スグルから松野スグルへの手紙》 

 拝啓

 いかがお過ごしでしょうか。僕は今、いろいろなこと、あなたなら察しのつくようなことについて、思い悩んでいます。

 十年も経ってしまえば、きっとどうでもいいことで思い悩んでいたなと笑っているでしょう。けれども、忘れないでほしいのです。あなたは、十年前、相当に思い悩んでいたことを。

 あなたは今、どうしていますか。現実に打ちのめされていますか、好きなことをやれていますか、人生を楽しんでいますか。あなたにとって、生きやすい社会ですか。それとも、やはり生きづらい社会のままでしょうか。

 僕は不安です。けれども、あなたがこれを読んでいるということは、きっとその不安を乗り越えたということだと思います。紙面上でまるでタイムスリップでもしているようですね。きっと、生物学の分野ではiPS細胞やSTAP細胞などの研究が進んで、素晴らしい技術が作られていることだろうと思いますが、量子力学などは発展していなければいいなと思います。たぶん、量子力学が発展してしまえば、タイムマシンも作れるようになってしまいますから。そして、紙面上でのタイムスリップだなんて、バカらしい話になってしまいますから。

 そういうわけで、十年後まで、たぶん、さようなら。

敬具


 荷物をまとめて、美術室を掃除し、僕は学校をあとにした。日の入りの時間は、確実に後退していた。それでも、六時半を回った時間になると、さすがに暗かった。夜空は鬱屈として、透きとおった、不思議な魔力のある群青だった。

 僕はれんがの階段を下りながらダッフルコートのジッパーを上まであげた。ウォークマンを取り出して、イヤホンを耳に入れた。曲を流した。ポケットに手を入れ、首をなるべくコートの襟の中に入れて寒さから逃れた。寒気の層がコートの上に感じられた。寒さの重みを肩に感じながら、校門を出た。しばらく歩いた。

 京成線の踏切の遮断機が軽やかな警告音を鳴らしながら下ろされた。幕張駅までもうすぐそこだった。踏切で悠長な京成電鉄の車両が去っていくのを待っていると、たばこの臭いがした。

 見回すと、たばこを吸っている人がいた。僕の高校ではないようだったが、吸っているのは髪を茶色に染めた高校生だった。俄然、たばこは気にならなかった。僕はたばこの臭いを好きだと思ったことはない。これからもないとは思う。しかし、茶髪の高校生のたばこの臭いは例外だった。反発と憧れの匂いだった。

京成電鉄の車両が去ったところで、遮断機があがった。

 踏切から五分程度歩くと幕張駅前に着いた。幕張駅の階段をのぼり、改札口を通ってホームに降りた。ホームのベンチに腰かけた。そうしたとたん、体中の力が抜けてしまいそうになった。はあ、と大きく息を吐いた。白かった。イヤホンからは、何かが聞こえた。しかし、いったい何の曲なのか、いったい誰の曲なのか、考えることができなかった。

 幕張駅から、水道橋駅まで、総武線でだいたい四十分。水道橋駅で階段を下り、乗り換えをして、千石駅、僕の家の最寄駅に着いた。ホームからエスカレーターに乗って改札口に。

そこには、しきりにICカードをタッチさせては、自動改札機に止められている会社員がいた。会社員は二十から三十代くらいの、若手に見えた。

 僕は彼を横目に改札を出て行った。


《松野スグルの遺書》

 未成年だから、遺書を書いたところでひとつの法的効力ももっていないことはわかっています。わかったうえで、ただ純粋な気持ちの発露として読んでくだされば幸いです。

 たぶん、思春期の最中にある中高生はみんな自殺願望をもったことがあるかとは思いますが、実行に移すのはまれだと思います。それは、いいことだと思います。それなのに、僕がこのたび実行に移すことにした経緯を、ここに記していく次第になります。

 僕は劣等感の塊です。そして劣等感は、嫉妬です。僕は嫉妬心でいっぱいです。

 いつも、僕の嫉妬の矛先には、誰かしら優れた人がいます。僕には歪んだところがあって、自分がたぶん、「優れた人」の一人に分類されると思っています。そして、僕より優れた人は、僕の中で存在が許されませんでした。何かしらの弁明をしては、自分を慰めていました。

 嫉妬といっても、僕のような臆病者には、直接手を下すなどといったことはできません。代わりに、僕の関知できる範囲でのその優れた人の不幸は、僕にとっての幸福でした。人の不幸は蜜の味とはよく言ったことだと思います。

 嫉妬のほかに、僕には変身願望がありました。これは、僕にはとても書きづらいことですし、読んでいるあなたにも読みたくない事柄だと思います。なので、もし読む自信がありませんでしたらこのままやめてください。そしてこの遺書は見なかったことにして、元の場所に置いておくか破棄するかして下さい。

 あなたは、男の人が男の人を好きになることと、女の人が女の人を好きになることをどう思いますか? きっと、気持ち悪いというか、不自然というか、そういう感情があると思います。

僕もそう思います。だから、僕は気持ち悪いし、不自然だなと思います。僕は同性愛者なのです。ごめんなさい。

 いつも、人と接していて苦痛でした。僕には妙な義務感をいつももっていました。それは、誰にでも偽りなくありたいという義務感です(願望は、義務感と表裏一体なのでした)。しかし、僕はその義務感に常に苛まれていました。

 人は誰しも、何も言わなければ異性愛者扱いです。僕もそうでした。男子同士で恋愛について話したり、女子の魅力的なところについて話したりします。これは当然のことなのです。けれども、僕にとっては嘘なのです。全部、僕の口から出る言葉は、一言一句、そのテーマに対して嘘だったのです。それは、せっかく恋愛について楽しそうに、真剣そうに話している友達に対して、大きな不誠実な行為をしているように思えてなりませんでした。というよりも、実際に不誠実な行為だと思います。

 しかし、その不誠実を取り除く勇気が僕にはありませんでした。僕には何のとりえもありません。僕には何の特技もありません。僕には、誠実であるという矜持を守ることで生まれる自己満足しか救済がありませんでした。

 普通に生きていて、僕は自分が不誠実をはたらいているという意識をもつことは少なかったのです。けれども、日常での些細な出来事や会話で、僕は自分の不誠実を自覚していきました。

 不誠実だと勝手に思い込んでいるだけで、そんな妙なプライドを捨ててしまえばよいと思われるかもしれません。しかし、それは無理な話でした。僕の不誠実から生まれた不幸が、自分にだけふりかかればよい話でした。しかし、不誠実から生まれた不幸は僕以上に他人にふりかかってしまいました。それはとりかえしのつかないことです。

 自分が異性愛者であれば、こんな不誠実な生き方をしなくてもいいのに、と思っていました。

 死のうと思ったきっかけがあなたにとって最も気がかりだと思います。遺書だから臆面なく書けるかと思いました。しかし、そういうものでもないようです。ですから、僕はいくつかのことだけ記しておきます。

 ひとつは、恋愛です。きっと異性愛者の恋愛とは大差ありません。普通の男子でも、好きな女子とは決して結ばれず、かなわない恋愛はあるでしょう。その点はフェアです。僕も、クラスのある男子が好きでした。しかし、もちろんそんな結果の分かり切った片思いは、一人将棋のようなものです。僕には、母親がこう生んでしまったからいけないんだという感情はありません。僕はこう生まれるべくして生まれたわけですから。それでも、異性愛者として生まれたかった。

 結果の分かり切った恋愛では、むしろ苦しかったのは、いつもいつもいつもいつも、自分の中で勝手な期待を膨らませていたことです。好きな人と目が合う時間が何度かありました。それは僕にとっては特別な意味の時間でした。もしかすれば、彼も同性愛者なんじゃないか……。そんな妙な期待をしました。僕の中でその期待が何度醸成されて、何度裏切られたか(彼は何も悪くなく、僕が悪いですが、「裏切る」以外の適切な言葉が見つかりません、すいません)。期待がふくらんでは潰されることは、思いのほか苦痛でした。結果がわかっているのに、それを忘れてみせて、期待を膨らましたりしているのは愚行の極みでしょう。最初は、達観したふうに、彼と一緒のクラスにいるだけで幸せじゃないかと楽観していました。けれども、だんだんと僕は悲観に傾いてしまいました。

 もうひとつの原因は、おかしな話ですが、また恋愛です。僕は馬鹿でした。それはもうこの冗長な遺書を読んでいるあなたには容易に想像できることだろうと思います。僕は嫉妬深いと言いました。と同時に、僕は変身願望も強いと言いました。僕は、不誠実な生き方をしたくないなどと言っているそばから、不誠実な生き方をしていました。しかも、今度は相手にも不幸をもたらす不誠実でした。

 僕は、今現在も、あるクラスの女子と交際関係にあります。ほんとうに、僕は何がしたいのか、おわかりにならないと思います。

 ……

 僕は、ただ女性関係が少ないだけで、彼女と付き合えば一種の転機として、僕は異性愛者ないし両性愛者になれるだろうと期待していました。また勝手に期待してしまっていたわけです。彼女は、たぶん、僕のことを好きです。最悪です。高校生の恋愛なんて、たかが表面上のものだろうと僕は思っていました。しかし、彼女は……どうなのかわかりません。真剣じゃない恋愛だから、彼女をどう扱おうと関係ない、という結論にも至れるわけがありません。すでに僕は不誠実をはたらいているわけです。今までの不誠実と比べて、はるかに罪深いものだと思います。

 なんだか、書けば書くほど、遺書に書かねばならないことがたくさん出てきてしまいました。

 死にたい理由……、美術部の部長としての力量のなさもあります。劣等感もあります。

 最も大きい理由を最後に書いてしまって、さっさとこの、あなたにとってどうでもよかろう遺書を終わらせようと思います。もう少しだけのご辛抱ですが、もう疲れてしまいましたならば読むのをやめていただいて全く結構です。

 ……

 僕には親友がいません。

 もしかすれば、僕のことを親友と思ってくれている人はいるかもしれません。しかし、少なくとも、僕から親友だと思う人は誰ひとりとしていません。

 親友がいなければならないというわけではないと思います。そうではなくて、わかりあえる人が欲しいのです。

 どうしてかはわかりませんが、僕はひたすらに人に対して疑り深い性質をもっています。いつも人の行為には、自己満足や企図が潜んでいると断じて生きています。意識しなければよい話なのですが、いざとなってみると、僕は寂しさを感じます。孤独、なのでしょうか。僕は信頼できる人がいません。まるで、夏目漱石の「こころ」の先生です。ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに信頼できる人がいないし、僕のことを信頼してくれる人もいないし、僕のことをほんとうに理解してくれる人もいないし、僕がほんとうに理解できる人はいない気がします。

 この疑り深い性格は、きっと僕のどんな恋愛でも適用されます。悲しいです。僕は、ひとつの疑いもなく、全幅の信頼を寄せられる人に将来出会える自信がありません。全く自信がありません。虚しくなります。ものすごく、虚しいです。

 僕は、永遠とひとりのままで生きて、死ぬのかなと思うと、今死んでも変わらないのではないかと思います。

 遺書は、やっぱり、明るいものにはできませんね。すみませんでした。これは僕の最後の自己満足であり、僕の懺悔と受け取って頂ければ幸いです。


二月二十一日 松野スグル


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