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浮遊していく

 行きの電車の座席で、僕はうとうとしながら幕張駅に着くのを待っていた。イヤホンから聞こえるのは美空ひばりの「川の流れのように」だった、その曲は名曲に違いなかったが、僕を更に眠くした。座席の暖房熱が尻から伝わってくるのも眠気を誘っていた。

 車内は会社員でいっぱいだった。いつもどおり、みんな競うようにつまらなそうな顔をしていた。僕は文庫本から顔を上げて正面に立っている男を見た。

 男は平凡なグレーのスーツを身につけていた。左手には革製のブリーフバッグが握られていた。ブリーフバッグの革はまだはつらつとしていて、僕が普段から見ている中年のサラリーマンのそれと比べてまだまだきれいだった。たぶん、入社してまだ間もない人だと思った。ムースか何かの整髪料で、男性のファッションモデルらしく整えられた黒髪。彼が右の手のひらの中でずっと操作しているスマートフォン。スマートフォンも、真新しく見えた。

 車内の人はとりあえず、みな携帯電話をいじっていた。左の座席に座る、クリーム色のダウンを着ている若い女性は、たぶん彼氏とメールでもしていた。

「まもなく、幕張駅です。左側の扉が開きます」美空ひばりの声を貫いて、女性のアナウンスの声が聞こえた。

 文庫本をバックパックにしまって、僕は立ち上がって、電車を降りた。

 鼻で冷たい外気を吸った。冷気が僕の鼻腔をつついて、すっかり眠気は去って行った。そして息をはいた。

 電車は駅から出て行った。今日もまた、学校での一日が始まってしまうのだった。改札口へと向かった。

 改札口を右に出て階段を下ったところに、タクシーが溜まる広場のような場所がある。一人のタクシードライバーは、これから始まる長い勤務に備えてか、タクシーに寄りかかってたばこを一服していた。彼は五十代くらいで、細身で中背だった。顔の半分くらいありそうな大きな眼鏡をかけて、その奥にある目尻にはしわが刻まれていた。ふう、と彼は口から一息、煙を出した。煙は空をみだらに愛撫するように上がっていった。その広場を通ったせいで、煙の臭いが鼻の中に残っていた。僕は眉をしかめて、咳き込むフリをした。壮年のタクシードライバーはまた一服した。

 一日が疲れるとはいえ、学校に行く楽しみはあったから嬉しかった。僕は《彼》のことを思い浮かべた。彼の笑顔がまた見られるのかと思うと、頑張ろうかという気になれた。彼の笑顔にはそういう力があった。駅から学校まで、徒歩十五分。その間、ウォークマンでスピッツのベストアルバムを聴くことにした。「君が思い出になる前に」が流れ始めた。


 教室に着くと僕はウォークマンを止めた。中に入って、一度教室を見渡す。机で鉛筆を走らせている人もいれば、数人で集まって談笑しているクラスメイトもいた。僕は《彼》の座席を見た。まだ来ていないらしかった。

 彼の左隣は僕の席だ。一月の席替えのときに、彼が隣にくるとは思ってもみなかった。棚からぼたもちだった。あの時はひとり、嬉しさにひたっていた。

 彼は始業時刻ぎりぎりにクラスにやって来る。だから、僕はそれまで文庫本を読む。

 教室の掛け時計は始業時刻の八時二十五分を示していた。担任の先生が教室に入ってきた。後退した前髪を機嫌よさそうに撫でていた。彼の癖なのだ。その癖が災いして髪の毛が薄まっているのではないかと僕は疑っていたが、口に出したことはなかった。

「さあて、今日はいいお知らせがあるぞー!」教卓の端に両手をおいて前のめりになりながら。

 相当いいお知らせがあるらしい。

「それじゃあ日直号令よろし――」教室の引き戸の開く音が、先生をさえぎった。

「あー、すいませんすいません!」引き戸を背後で閉めながら。

 入ってきたのは、《彼》だった。僕は思わず笑顔になってしまった。この教室の中の空間の明度が、一段だけ上がった気がした。ラケットバッグを背負った彼は、教室のせまい机の間を器用に通り抜けて、僕の右に座った。

「おはよう」「ああ、おはよう」僕と彼は目を合わせて挨拶を交わした。

まったく、と鼻で笑ってから担任は、「もっと早く学校に着けと言っているだろうが……。まあとにかく、日直号令よろしく!」処置なしというふうに髪をかいて。

「起立。気を付け。礼」「おはようございます」

「今日は連絡がひとつある! なんと、宮野がフルートの全国大会で最優秀賞をとったらしい。いやー、すごい! みんな拍手!」

 教室は拍手と、「すごい!」「さすが」と喝采にあふれた。《彼》は「宮野すげえなー」と言って拍手をして。前のほうに座るナノハは真後ろの男子からちょっかいをされて、照れくさくあしらって。

 僕も拍手をしていた。いたつもりだった。

 僕の中には黒い何かが醸成されていた。またお前か、そう思った。あまりにも厄介なこの黒い物体。自分が情けなかった。僕は空中の一点を曖昧に見つめた。自分には何があるのだ、何かあるか、僕には。僕も、ナノハみたいに、何か賞をとらなければ意味がない、何らかを達成しなければ僕には価値がない。焦りにも似ていた。まわりは囲碁やサッカーや作文で実績をあげているというのに、どうして僕は腐ったままなのだ。

「宮野、何か、コメントでもあったら」と遠くで聞こえて

「あ、はい、わかりましたじゃあ……」僕は、無視をした。

 静かな契約を自分と結んでいた。いつもいつも、僕は腐ってばかりいる。どうしてなのだ? それは僕が怖いからではないか? 何が怖いのか? わからない。とにかく、僕は美術部長だ、美術部で、部全体をあげて素晴らしい作品を作って美術コンクールに応募しよう、そして賞をもらおう、そうすればいい。そうすれば、僕は僕の黒い物体と決別できるはずだ。

「いつも、放課後とか、うるさいとは思っていた人もいると思うんですけど」

 僕は今、終業式にいた。

 終業式での表彰。名前を読み上げられて、表彰状を受け取る。生徒全員から送られる拍手と、手の中の表彰状の感触。いつも僕が席から見ていた光景を自分で体験できる。

「それでも、文句を言わないでいてくれたり、あと、悩みとかを相談させてくれて」

 想像はこぼれた牛乳のように広がって行った。

「お前らも、宮野みたいに頑張れよ!」――情けないと思いながらも、僕はその言葉にいらつきを覚えた――「そういうことで、朝のホームルームは終わりだー」

「気を付け。礼」「ありがとうございました」

 一日は、ほんとうにいつもの繰り返しに過ぎなかった。もし昨日と今日と明日の順番を何者かが入れ替えたとしても、何の問題もなかった。なぜならば、僕はどの日でも彼を見ることができるはずだったのだから。

 放課後、僕は美術室へと向かっていた。長い授業から解放された僕は自由の身だった。すでに消耗した自分をひきずりながら、階段をのぼり、廊下を歩き、美術室を目指した。

 一応、僕は美術部の部長だった。とはいっても、どうして自分が高校一年生で部長になってしまったのか、ほんとうにわからなかった。高二の先輩がいなかったから、といっても、僕が部長である必要はなかったのだ。しかし、誰が何を言おうと僕が部長であることには変わりなかった。

 美術室に入ったところで、「こんにちはー」後輩のあいさつ。僕はうなずいて返事を。

 各自、絵の具や墨がこびりついてしまった机に向かっていた。美術部には特に決まった活動はなかった。

 僕は自分の作成途中の作品を棚から出して、折りたたみ式の鏡も見つけた。美術の時間では、自画像が課題になっていた。美術部長として、僕は自分が先生から高い評価をもらわねばと自負していた。妙な、人工的な感情をもって、作品に取り掛かることに僕はうしろめたさを感じることが多々あった。しかし、作品自体が今週の土曜日までに提出であったから、文句も言っていられないのだ。

 今日は月曜日で、土曜日提出なので、六日間の猶予はあったけれども、ここは気を緩めずにとりかかろうと思った。

 とにかく、僕は鉛筆をもって、鏡と作品を交互に睨んだ。鏡に映る自分の顔はやはり好きではなかった。男性は女性よりもナルシシズムは強いらしいが、どうやら僕は弱い。鏡を見るのをできるだけ最小限におさえて、記憶から自画像を描くようにした。 

 自画像が完成してからも、自分との契約を実現させるために僕は毎日のように美術室にこもっていた。

 今月二月末は高校生の美術コンクールの応募締切だった。僕は応募するための作品を作っていた。一応、部全体にもコンクールに応募するように呼びかけた。どれくらいの部員が反応してくれるかはわからなかったが、同学年の坂上ヒロトは応募する意思を伝えてくれた。

「面白そうじゃん」と猫背ぎみのヒロトは言っていた、「それで入賞でもできればもっと部の予算ももらえるだろうし」

 ヒロトとは部活帰りによく話す仲だった。ヒロトは僕のことを信頼してくれていたと思うし、僕もヒロトのことを信頼していた。僕はヒロトならば自分のすべてを打ち明けても大丈夫な気がしていた。そういった信頼からか、ヒロトは僕の考えに賛同してくれることが多く、今回のコンクールの参加もきっと同じことだと思う。

 もしコンクールで最優秀賞・優秀賞をとれば……。

 僕は表彰状を受け取るために、再び舞台の上に立っていた。高校一年生の終業式、講堂の舞台で校長先生から表彰状を渡される。僕はその表彰状を、礼をして受け取って。座席の生徒から拍手をもらって――

「宮野先輩の、すごく上手だねー!」

 美術室の前の廊下から、ナノハの後輩らしき声が聞こえた。僕は耳をそばだてることは忘れなかった。

「宮野先輩だってすぐわかるね!」たぶん、別の後輩の声だ。「やっぱり、フルートが上手なだけあって、芸術センスあるんだねえ」

「この人も上手じゃない?」僕は僕が会話に集中しはじめたのがわかった。

「松野スグル……。宮野先輩と同じくらい上手だねー」

 会話は途切れた。宮野先輩と同じくらい。その言葉がいやしくも僕の耳の中でこだました。宮野先輩と同じくらい。

 僕は机の上の自分の絵を見た。アクリル絵の具で完成させる予定の、未完の絵を。


**    **    **


「私は傍観者でした」

 刑事は、自分も傍観者なのだろうなと思いながら少女の話の続きに耳を傾けた。刑事の目線は少女の首あたりにあった。

「あの日が……兄を変えた気がします。私も、母親も変わったと思います。でも、兄が一番変わったと思います」

 少女は姿勢を直して、両手を膝の上に乗せていた。少女の目は、まるでダイニングテーブルに過去の残像が映っていて、それをつぶさに観察するようにして。

「兄は美術部の部長でした。ときおり開催されるコンクールのようなものにも応募していたらしいです。兄の作品を見たことがあまりないのですが、最後に見たのはあの日です。

「作品の名前は、『羽ばたかせてほしい』でした。はっきり言うと、兄の絵を描く技術は未熟だったと思います。それでも、どうしたことか、『羽ばたかせてほしい』には心惹かれるものがありました。理屈では言い当てられない何かを絵から感じました。

「青空を、二人の男子が抱き合いながら飛んでいるんです。それでも、二人の男子の片方は泣いているんです。もう片方は泣いている男子の顔を全く見ないで、空のかなたを望んでいました。何かを待っているような目をしていました。

「とにかく、兄の書いた、その作品の紹介文が問題になりました」

 刑事はメモをとっていた。顔を一度も上げず、何度か話の途中でうなずく程度の反応だった。

「その絵を、高校絵画コンクールか何かに応募しようとしていたらしいのです。しかし、その絵の内容と紹介文とが問題になったか何か……」

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