兄が少しおかしくなっていたのはわかりました。
神様は僕を監禁したのだろうか。
天井からぶら下がるひとつの心細い豆電球は、もったいぶるようにあたりを照らしていた。僕がいたのは、四メートル四方のトイレだった。何者かがはさみをもって記憶の糸を切断してしまったように、僕は最初からこのトイレにいたことしか覚えていなかった。男子用の小便器だけが四メートル四方の空間に並べられているのだ。ひとつひとつ白い墓石のようにグレータイルの上に立っていた。僕しかいない。アンモニアの臭いがする。
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「ええ。兄が少しおかしくなっていたのはわかりました」
少女の前に座っているのは、世界のあらゆる不安をかかえてしまっているような目をした刑事だった。くたびれた白いワイシャツと薄いピンクのネクタイを身に着けていた。手をダイニングテーブルの上で組んでいた。ためていた空気を鼻から吐き出した、なるべく少女にさとられないように。元来下がっている眉毛を更に下げて、両目の下のくまを更に濃くした。
少女はときどき刑事の顔を見ては、何か気の毒なものを拝察したとでもいうふうに視線を右下にずらした。刑事と少女の視線が交わったのは今のところ、玄関で会った時だけだった。
「それは――お兄さんがおかしくなったというのは、いつ頃のことでしょう……?」ダイニングテーブルの上のティッシュボックスが世界の真理を握っているかのように、刑事はそれを見つめながら質問した。まばたきも何度かした。
「あまり正確には覚えていませんが……。あの日かなあ」少女は顔を右に向け、手のひらを顔にあててひとりごとのように言った。
「あの日、ですか」上目がちに刑事は聞き返す。
「あの日、ですね」少女はあごをこくりと引く。
刑事には「あの日」が何の日かわからなかった。
少女はひじをテーブルに乗せ、右手の手のひらの中でしばらく考えていた。少女はダイニングテーブルのしみを見つめ続けていた。