偽物の聖女と追放された侯爵令嬢は、滅びの予言を置いて王都を去る
中編です
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アルディール侯爵邸へ戻った頃には、すでに夜が訪れていた。
王都の大通りには無数のランプが灯され、商店の軒先には金色の布が飾られている。
三日後に現れるという黄金の星。
その予言を祝うため、王都では早くも祭りの準備が始まっていた。
酒場からは陽気な歌声が聞こえ、広場では職人たちが巨大な星形の飾りを組み立てている。菓子店の窓には金粉を振りかけた焼き菓子が並び、宿屋には祝祭を見物しようと地方から訪れた客が押し寄せていた。
馬車の窓越しにその光景を眺めながら、セレナは膝の上で両手を組んだ。
違う。
誰もが、エミリアの予言を都合よく受け取っている。
黄金色の光が見えた。
大勢の人々が声を上げていた。
エミリアが語ったのは、それだけだった。
空に星が現れたとは言っていない。
人々が喜んでいたとも言っていない。
それにもかかわらず、神官たちは繁栄の神託だと断定した。ユリウスも疑わなかった。
人は自分が望む言葉だけを拾い上げ、そこに意味を与えてしまう。
セレナが恐れていたのは、まさにそれだった。
「お嬢様」
向かいに座る侍女のマリーが、不安そうに呼びかけた。
十三歳の頃からセレナに仕えている侍女である。栗色の髪をきっちりとまとめた、働き者の女性だった。
「本当に、三日後なのでしょうか」
「ええ」
セレナは短く答えた。
「遅くとも、三日後の正午までには始まります」
「遅くとも……」
マリーの顔色が悪くなる。
「早まる可能性もあるのですか」
「あります」
馬車の車輪が石畳の継ぎ目を踏み、車内が小さく揺れた。
その振動に混じって、低く鈍い音が聞こえた。
大地の奥から響く、重苦しいうなり。
普通の人間には聞こえない。
音というより、石を通して伝わる感覚に近かった。
セレナは靴底から忍び込んでくる震えに意識を集中した。
地下水路を流れる水。
地中に閉じ込められた熱。
水によって少しずつ削られる岩盤。
崩れかけた空洞。
異なる場所から届く無数の感覚が、頭の中で重なり合う。
王都西部の地盤は、セレナの予測よりも速い速度で弱くなっていた。
今すぐ崩壊するほどではない。
だが、もはや安全と言える場所はどこにもなかった。
「明日の朝までは持つと思います」
セレナは自分に言い聞かせるように答えた。
「少なくとも、東門を出るまでは」
マリーは青ざめたまま、小さくうなずいた。
彼女は逃げ出さなかった。
侯爵家に仕える使用人たちには、セレナの警告を信じず王都へ残る自由が与えられている。
それでもマリーをはじめ、多くの使用人が侯爵家と行動をともにすることを選んだ。
聖女だからではない。
未来を見通せるからでもない。
長い年月をかけて築かれた信頼があったからだ。
それが今のセレナにとって、何よりもありがたかった。
馬車が侯爵邸の門をくぐる。
普段なら静かな前庭には、何台もの荷馬車が並んでいた。
使用人たちが木箱や革袋を運び、騎士たちが慌ただしく馬具を確認している。明朝の出発に向けた準備は、すでに最終段階に入っていた。
「お嬢様!」
馬車を降りたセレナのもとへ、一人の青年が駆け寄ってきた。
短く刈り込んだ黒髪に、日に焼けた肌。
侯爵家騎士団の副団長、カイルだった。
「神殿でのことは聞きました。お怪我はありませんか」
「ええ。誰かに乱暴を受けたわけではありません」
「しかし、あまりにも一方的な処分です」
カイルは歯を食いしばった。
「爵位を止められ、領地まで返せなどと。あの土地を守ってきたのは我々です。王家の兵士が魔物の群れから領民を守ったことなど、一度もないではありませんか」
「カイル」
セレナが名を呼ぶと、彼は悔しそうに口を閉じた。
「今は怒りを抑えてください。王都を出るまで、わたくしたちは王家の監視下にあります」
「申し訳ありません」
「あなたの気持ちは分かります。ですが、領民の安全が最優先です」
「はい」
カイルは背筋を伸ばした。
「お嬢様と領民の命に代えても、必ずお守りします」
「命に代えては困ります」
セレナは即座に答えた。
「あなたも生きて国境を越えてください。そのための避難です」
カイルが目を見開く。
それから困ったように笑い、胸に手を当てた。
「承知しました。全員で生きて、国境を越えます」
屋敷へ入ると、広間の家具はほとんど片づけられていた。
壁を飾っていた絵画も、代々受け継がれてきた花瓶もない。
運び出すつもりはなかった。
芸術品を載せる場所があるのなら、食料や薬を多く運ぶ。それが父の決定だった。
侯爵家が王都に持つ財産の多くは、この屋敷とともに置いていくことになる。
セレナは空になった壁を眺めた。
幼い頃、家族で描いてもらった肖像画が飾られていた場所だ。
当時のセレナは白いドレスを着せられ、緊張した顔で椅子に座っていた。父は肖像画に必要な時間を無駄だとぼやき、母は笑ってそれをたしなめていた。
あの絵も、すでに屋敷にはない。
一月前、領地へ向かう荷馬車の底に隠して運び出した。王家に悟られぬよう、避難準備は少しずつ進めてきたのだ。
「お嬢様、旦那様がお待ちです」
老執事ロバートに案内され、セレナは執務室へ向かった。
扉の向こうから、複数の人間が話し合う声が聞こえる。
セレナが入室すると、集まっていた者たちが一斉に立ち上がった。
父であるアルディール侯爵。
母のメリッサ。
家令のバーナード。
騎士団長、侯爵家付きの医師、商隊を任されている責任者。
部屋の中央に置かれた大きな机には、王都から国境までの地図が広げられていた。赤や青の駒が置かれ、街道沿いの井戸や野営地が細かく記されている。
「戻ったか」
父が口を開いた。
「はい、お父様」
「処分は?」
「予定していた中で、最も都合のよいものとなりました」
セレナが答えると、家令のバーナードは安堵の息を漏らした。
だが母は、つらそうに眉を下げた。
「都合がよいなどと言うものではありません。あなたは大勢の前で辱められたのでしょう」
「お母様」
「泣いてもいいのですよ」
優しい言葉だった。
けれどセレナは、すぐには答えられなかった。
十年以上も婚約者として支えてきたユリウスから、偽物と罵られた。
王国のために学んできた時間を、一言で無価値にされた。
実家まで聖女を偽った罪に問われた。
悔しくないはずがない。
悲しくないはずもない。
それでもセレナの中では、王都に残された時間への焦りが、ほかの感情を押し流していた。
「すべてが終わったら、泣くかもしれません」
彼女は正直に答えた。
「ですが、今はその時間がありません」
母はセレナを抱き締めた。
きつくもなく、逃げられないほど弱くもない抱擁だった。
幼い頃から聖女としての振る舞いを求められてきたセレナが、唯一、ただの娘に戻れる場所。
それが母の腕の中だった。
「無事に国境を越えたら、好きなだけ泣きなさい」
「はい」
「泣きたくなければ、それでもいいのです」
「……はい、お母様」
短い抱擁を終え、セレナは地図の前に立った。
「状況を教えてください」
家令のバーナードが書類を開く。
「領都では、住民の八割が移動準備を完了しております。第一陣として老人、子ども、病人、および彼らの家族、合計千二百七十六名が、すでに国境近くの野営地へ向かいました」
「護衛は?」
「騎士二十名と自警団五十名です。医師一名、治療師二名、薬師三名が同行しております」
「食料は何日分ありますか」
「通常の配給で十二日分です。切り詰めれば十八日ほど持ちます」
「国境を越えるまでには十分ですね」
「問題は第二陣です」
バーナードは地図上の赤い駒を指した。
「家畜と農具を運ぶため、移動速度が上がりません。また、南部の三つの村では住民の多くが避難を拒否しております」
「理由は?」
「王都から派遣された役人が、災害の噂を否定したためです」
セレナの表情が強張った。
「役人が領地に?」
「はい。二日前に到着しました。偽物の聖女による扇動に従う者は、王家への反逆者として扱われる可能性があると」
王家がセレナの動きを警戒していることは予想していた。
しかし、すでに領民へ圧力をかけているとは思っていなかった。
「危険を承知で残りたいという方を、無理に連れ出すことはできません」
侯爵が重々しく言った。
「選ぶのは彼ら自身だ」
「分かっております」
セレナは地図上の村を見つめた。
残る者たちを責めることはできない。
先祖から受け継いだ土地。
家族と暮らした家。
年月をかけて耕した畑。
正体の分からない災害を恐れて、それらすべてを捨てる決断は簡単ではない。
まして王家は、災害など起こらないと断言している。
自分に予知能力がないことも事実だった。
「明朝、王都を出たあと、わたくしが直接説得に向かいます」
「時間がないぞ」
「承知しております。それでも、一度は話さなければなりません」
「説得に失敗した場合は?」
セレナは唇を噛んだ。
「警告書と食料を残し、先へ進みます」
すべての人を救えるとは限らない。
その現実を認めることは、見捨てることとは違う。
頭では分かっていた。
だが、心は簡単に納得してくれなかった。
「神殿の予言はどうだった」
侯爵が尋ねた。
「エミリア嬢は、何を見た」
「黄金色に染まる空と、大勢の人々です。人々は声を上げていたそうですが、それが歓声なのか悲鳴なのかは分からないようでした」
「王家は繁栄の予言と判断したのですね」
母が言った。
「はい」
「根拠もなく?」
「黄金色は神聖さを表し、大勢の声は祝福を意味するそうです」
室内の誰もが沈黙した。
商隊の責任者が、戸惑いながら口を開く。
「黄金色なら、砂や煙という可能性もあるのではありませんか」
「わたくしも、そう考えています」
「なぜ神官たちは気づかないのでしょう」
「気づきたくないからだ」
答えたのは侯爵だった。
「繁栄すると信じた者に、滅亡の可能性を認めさせるのは困難だ。地位が高く、失うものが多い者ほどな」
重苦しい静寂が執務室を満たした。
セレナは、机の上に置かれた王都の地図へ目を向ける。
王城。
神殿。
貴族街。
中央市場。
職人街。
西地区の集合住宅。
東門へと続く大通り。
紙の上では、どれも静かだった。
しかし、その下には巨大な空洞が広がっている。
「もう一度、確認させてください」
母が静寂を破った。
「本当に、王都を救う方法はないのですか」
誰もがセレナを見た。
「崩壊を止めることはできません」
半年前ならば、水路の流れを変え、空洞を補強することで被害を抑えられたかもしれない。
三カ月前であれば、西地区の住民を段階的に移転させ、重要な物資を運び出すことができた。
一月前ならば、少なくとも王都全域へ避難命令を出す時間があった。
しかし今、残された時間は三日もない。
十万人を超える人間を移動させるには短すぎる。
そして王家は、災害の存在を認めていない。
「ですが、人を救うことはできます」
「何人ほどだ」
父の問いに、セレナは首を横へ振った。
「分かりません。王家が避難命令を出せば、数万人は救えるかもしれません。出さなければ、わたくしたちの警告を信じてくださった方だけです」
「王家を説得する方法は?」
「ございません」
即答すると、母が悲しそうに目を伏せた。
「今日、最後の警告をいたしました。ユリウス殿下は調査も避難も拒否され、これ以上災害を触れ回れば反逆と見なすとおっしゃいました」
「では、警告をやめるのか」
父の問いには、試すような響きがあった。
セレナはまっすぐに父を見る。
「いいえ」
侯爵の口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。
「そう言うと思った」
「王命に逆らうことになります」
「我々は国外追放になった身だ。今さら反逆罪が一つ増えたところで、大きな違いはあるまい」
「あなた」
母が呆れたように父を見る。
「冗談を言っている場合ではありません」
「冗談ではない」
侯爵は真顔で答えた。
それがかえっておかしく、張り詰めていた室内に小さな笑いが起きた。
セレナも、ほんの少しだけ頬を緩めた。
家族と家臣たちがいる。
信じてついてきてくれる領民がいる。
聖女の力はなくても、彼女は一人ではなかった。
「予定を繰り上げます」
セレナは地図の端に積まれていた駒を取った。
「第一隊は夜明けとともに東門へ。病人と高齢者、子どもを乗せた馬車を中央に配置してください。前方は騎士団長、後方はカイルに任せます」
騎士団長がうなずく。
「侯爵夫妻は第一隊と合流してください」
「お前はどうする」
父が尋ねた。
「わたくしは王都に残り、夜明け前まで警告書を配ります」
「認められん」
即座に返された。
「王家はお前を監視している。夜間の王都で捕らえられれば、救出は困難だ」
「だからこそ、わたくしが行く必要があります。ほかの方へ任せれば、その方々が処罰されます」
「お前が処罰されるのは構わないと?」
「そういう意味ではございません」
父娘の視線がぶつかる。
互いに譲らないことは、どちらも分かっていた。
やがて母が小さくため息をついた。
「二人とも、よく似ていますね」
「似ておりません」
父とセレナの声が重なった。
再び、室内にわずかな笑いが生まれた。
「セレナ」
母は娘の前に立った。
「警告書は、すでに何枚用意していますか」
「五千枚ほどです」
「王都全体に配るには足りませんね」
「はい」
「商店街と職人街を優先しましょう。商人や職人は地方とのつながりがあります。一人が信じれば、家族や使用人にも伝わります」
「お母様」
「私も参ります」
「危険です」
「あなた一人を行かせるほうが危険です。それに私は、王都の夫人方と長年付き合ってきました。娘の言葉を信じようとしない方でも、私からの手紙なら読むかもしれません」
セレナは反対しようとした。
しかし母の目には迷いがなかった。
「では、護衛を四人」
「八人だ」
父が訂正した。
「それ以下は認めん」
「目立ちすぎます」
「捕らえられるよりはましだ」
結局、警告書を配る者たちは三つの組に分けられた。
セレナは騎士たちと職人街へ。
母は侍女と貴族街へ。
家令は商人たちの集まる中央市場へ向かう。
父は屋敷に残り、出発の指揮を執ることになった。
*
夜半。
王都の職人街は、普段とは違う活気に満ちていた。
昼間の仕事を終えた職人たちが、三日後の祝祭で使う飾りを作っている。
金属を打つ音。
木材を削る音。
金色の塗料をかき混ぜる音。
街全体が、訪れる繁栄を待ち望んでいるかのようだった。
セレナは旅用の外套で儀礼服を隠し、騎士たちと暗い路地を歩いた。
一軒一軒の扉に警告書を差し込み、市場や井戸の掲示板へ貼っていく。
警告書には、ただ逃げろと書いたわけではない。
予想される災害。
危険な地域。
避難すべき方角。
持ち出すべき物。
家族とはぐれた場合の集合場所。
高齢者や子どもを守る方法。
限られた紙面へ、必要な情報を可能な限り細かく記載していた。
「こんなものを貼ったのは、お前たちか」
背後から声が聞こえた。
振り向くと、腕の太い鍛冶職人が立っていた。
五十代ほどの男で、手には剥がしたばかりの警告書を持っている。
「アルディール侯爵家からのお知らせです」
セレナは外套の頭巾を取った。
男の目が大きく見開かれる。
「偽物の聖女様……」
隣にいた騎士が険しい顔をしたが、セレナは手で制した。
「そう呼ばれていることは存じております」
「これは何の冗談です。王都の地面が崩れるだなんて」
「冗談ではありません」
「本物の聖女様は、黄金の星が現れると言っている」
「エミリア様がご覧になったのは、黄金色に染まる空と、人々が声を上げる光景です」
「それが何だ」
「喜んでいるとは限りません」
男は黙った。
セレナは警告書を指した。
「信じられないのであれば、今すぐ逃げなくても構いません。ですが明日、家族と避難経路について話し合ってください。水と食料を一つの袋へまとめ、いつでも持ち出せる場所に置いてください」
「災害など来なかったら?」
「何も起きなければ、わたくしを笑ってくださって結構です」
「侯爵令嬢ともあろう方が、笑われてもよいのですか」
「笑われるだけで済むのなら、そのほうがよいのです」
セレナは静かに答えた。
「わたくしも、何も起きないことを願っております」
職人は警告書へ視線を落とした。
先ほどまでの嘲りは、その顔から消えていた。
「東の高台へ行けばいいんですか」
「はい。大通りは混雑する可能性があります。北側の細い道も確認しておいてください」
「分かりました。女房には話してみます」
「お願いいたします」
男は警告書を折りたたみ、作業着の内側へしまった。
信じてくれたのかは分からない。
それでも家族と話し合うと言ってくれた。
セレナには、それで十分だった。
しかし、その後の住民すべてが同じ反応をしたわけではない。
酒場の前では、酔った男たちに笑われた。
「婚約を捨てられた腹いせだろう」
「新しい聖女様に嫉妬して、祭りを邪魔したいんだ」
「侯爵家も終わりだな」
小石を投げられ、護衛の騎士たちが剣へ手をかけた。
セレナは彼らを止めた。
「行きましょう」
「しかし、お嬢様」
「争えば、警告書まで悪意のあるものだと思われます」
騎士は悔しそうに唇を噛み、剣から手を離した。
歩き出したセレナの背中へ、男たちの笑い声が追いかけてくる。
胸が痛まないわけではない。
それでも足を止めなかった。
しばらく進むと、幼い少女が路地から顔を出した。
「お姉ちゃん」
セレナが振り返る。
少女の手には、地面へ落ちた警告書があった。
「本当に、地面が壊れちゃうの?」
「その可能性があります」
「うちのお母さん、足が悪いの」
セレナは少女の前にしゃがんだ。
「お名前を教えてくださいますか」
「リナ」
「リナのお家はどこですか」
少女が指したのは、王都西部へ続く道だった。
最も危険な地域の一つである。
「明日の朝、お母様と一緒に東門の近くへ来られますか」
「でも、お馬車のお金がないよ」
「お金は必要ありません」
セレナは胸元から小さな札を取り出し、少女へ渡した。
アルディール侯爵家の紋章と、番号が記されている。
「東門にいる青い外套の騎士へ、これを見せてください。お母様を馬車に乗せてもらえます」
「お姉ちゃんは?」
「わたくしは、まだすることがあります」
少女は札を両手で握り締めた。
「お姉ちゃんも来る?」
「必ず参ります」
「約束?」
セレナは少しだけ迷った。
未来を見ることはできない。
王家に捕らえられるかもしれない。
災害が早まる可能性もある。
それでも、少女を不安にさせたままにはできなかった。
「約束です」
差し出された小さな指へ、自分の指を絡める。
少女はようやく笑い、路地の奥へ駆けていった。
その背を見送り、セレナは立ち上がった。
「必ず来なければなりませんね」
護衛の騎士が言った。
「ええ」
「我々が必ず、お嬢様を東門までお連れします」
「お願いいたします」
その後もセレナたちは警告書を配り続けた。
何人が信じてくれたのかは分からない。
破り捨てられた紙もあった。
笑われたことも、一度や二度ではない。
けれど助けを求める者もいた。
家族に病人がいる者。
馬車を持たない者。
王都へ来たばかりで、道が分からない者。
セレナは一人ずつ事情を聞き、避難用の札を渡した。
用意していた百枚の札は、夜明け前には一枚も残っていなかった。
*
東の空が薄く明るくなり始めた頃、セレナは侯爵邸へ戻った。
門前では、最後の荷馬車が出発の準備を整えている。
使用人たちは旅装へ着替え、騎士たちは胸当ての上から青い外套をまとっていた。
屋敷の窓には、もう明かりがない。
十数年間暮らした邸宅が、まるで最初から無人だったかのように静まり返っている。
前庭には、父が待っていた。
「遅い」
「申し訳ありません」
「何人に札を渡した」
「百人です。ただし、家族を含めれば三百人ほどになる可能性があります」
「馬車が足りんな」
「荷物を下ろします」
「これ以上、何を下ろす」
セレナは荷馬車を見た。
積まれているのは、食料、薬、毛布、天幕、水を入れる樽。
どれも必要なものばかりだった。
「わたくしたちが歩きます」
セレナが答えると、父は眉間にしわを寄せた。
「お前は昨夜から一睡もしていないだろう」
「馬車の中で眠るよう言われましたが、その馬車が必要になりました」
「口答えだけは上手くなったな」
「お父様に似たのでしょう」
父は不満そうに口を閉じた。
しかし反論はしなかった。
「貴族街へ向かったお母様は?」
「少し前に戻った。三十七家へ手紙を届けたそうだ」
「読む者が何人いるかは分かりませんね」
「それでも、何もしないよりはよい」
屋敷の時計が鐘を鳴らした。
朝の五時。
出発の時刻だった。
門が開かれる。
最初の騎士が街道へ進み、続いて荷馬車が動き出した。
車輪が石畳を踏む音が、静かな朝の王都へ響く。
セレナは屋敷を振り返った。
門柱には侯爵家の紋章が掲げられている。
翼を広げた鷹と、その下を流れる三本の川。
アルディール家がこの国の東部を守り、水を治めてきた証だった。
今日を最後に、その紋章が王国内で掲げられることはないかもしれない。
「名残惜しいですか」
母が隣へ立った。
華美なドレスではなく、動きやすい旅装を身につけている。
「少しだけ」
セレナは正直に答えた。
「未練があってもいいのですよ。捨てるのではなく、守るために離れるのですから」
「はい」
二人は歩き始める。
東門へ向かう侯爵家の一行を、早起きの住民たちが不思議そうに見ていた。
追放された貴族が、夜逃げするように王都を去る。
そう見えただろう。
けれど行列は、みじめな逃亡者のものではなかった。
恐怖に叫ぶ者はいない。
老人を乗せた荷馬車の傍らを、若者たちが歩いている。騎士たちは周囲を守り、医師は病人の様子を確認している。
使用人たちは互いに荷物を分け合っていた。
誰もが自分の役割を理解していた。
侯爵家が半年をかけて作り上げた避難計画が、目に見える形で動き始めている。
東門へ近づくにつれ、道端に立つ人が増えていった。
セレナが昨夜、札を渡した者たちである。
足の悪い母親を連れた少女リナもいた。
「お姉ちゃん!」
リナがセレナを見つけ、手を振った。
「来てくれたのですね」
「約束したから!」
セレナは母親を馬車へ乗せるよう、騎士へ頼んだ。
リナは母親の手を握ったまま、その隣へ乗り込む。
ほかにも、幼い子どもを連れた夫婦や、荷物を背負った老人たちが集まっていた。
全員合わせると、四百人近い。
予想より多かった。
札を持つ者が、近所の人々にも呼びかけたのだろう。
「街道を歩ける方は、二列になってください!」
騎士団長の声が響く。
「子どもと高齢者を先に馬車へ! 持ち込める荷物は一人一つまでです!」
「馬車が足りません」
カイルが報告する。
「我が家の馬車をすべて避難者へ」
セレナが指示すると、彼はためらった。
「お嬢様方はどうなさいますか」
「歩きます」
「しかし、国境までは長い距離です」
「領民も歩いています」
そこへアルディール侯爵が近づいてきた。
「カイル、私の馬車も使え」
「旦那様まで!」
「娘が歩くというのに、父親だけが馬車に乗っていられるか」
「張り合うところではございません」
セレナが言うと、父は聞こえないふりをした。
母が小さく笑う。
「では、私の馬車も使ってください」
「奥様」
カイルは頭を抱えた。
「せめて奥様だけでもお乗りください」
「主人と娘が歩くのです。私も歩きます」
「我が家には、私の命令を聞く方がおられないようですね」
「それはお嬢様も同じです」
マリーが小声で答えた。
セレナが振り返ると、彼女は何でもない顔で荷物を確認し始めた。
そんなやり取りをするうちに、東門の検問所が見えてきた。
門の前には十数人の王都衛兵が並んでいる。
その中央には、王宮警備隊長の補佐官グレゴールが立っていた。
ユリウスに忠実な人物である。
「止まれ!」
彼が手を上げる。
侯爵家の一行がゆっくりと停止した。
「アルディール侯爵家の者だな」
「ご覧のとおりだ」
侯爵が前へ進み出る。
「どこへ向かう」
「王命に従い、国外へ退去する」
「期限は一月後のはずだ。なぜ今すぐ出ていく」
「退去まで一月待てとは命じられていない」
「後ろの者たちは何だ」
グレゴールは、侯爵家の行列に加わった王都の住民へ視線を向けた。
「我が家との同行を希望する者たちだ」
「王都の民を連れ出す許可は出ていない」
セレナが父の隣に立つ。
「ユリウス殿下から、領民および同行を希望する者を連れていく許可をいただいております」
「書面は?」
「ございません。ですが神殿にいた方々が証人です」
「書面がなければ、ここを通すことはできない」
予想していた反応だった。
グレゴールはユリウスの命令を受けているのだろう。
侯爵家だけなら追放する。
だが国民が大人数でついていくことは認めない。
王家の威信に関わるからだ。
「確認の使者を神殿へ送ってください」
セレナは落ち着いて申し出た。
「殿下ご自身に確認いただければ、すぐに分かります」
「祝祭の準備でお忙しい殿下を、この程度のことで煩わせるわけにはいかない」
「では、枢機卿か宰相閣下でも構いません」
「必要ない」
グレゴールは門の前から動かなかった。
「侯爵家の人間だけならば通す。それ以外の者は、身元を確認するまで王都へ戻れ」
避難者たちが不安そうにざわめく。
昨夜の警告を信じ、住み慣れた家を離れてきた者たちだ。
ここで追い返すわけにはいかない。
カイルたち騎士団も緊張し、武器へ手を伸ばしかけている。衛兵たちも槍を構えた。
一触即発の空気が門前を支配した。
「セレナ」
父が低く呼ぶ。
命令を待っている。
強行突破すれば、門を抜けられる可能性はある。侯爵家騎士団の実力は、王都衛兵より上だ。
しかし怪我人が出る。
王家へ反撃の口実を与えることにもなる。
セレナは東門の壁へ視線を向けた。
その基礎には、王都の地下水路と同じ時代に切り出された石が使われている。
彼女は手袋を外し、石畳へ手を触れた。
「何をしている」
グレゴールが不審そうに尋ねる。
セレナは答えず、目を閉じた。
大地の記憶が、指先から流れ込んでくる。
頑丈な城壁を支える礎石。
長い年月の中で繰り返された補修。
雨水による浸食。
地中の水圧。
そして、門の北側に生じた小さな亀裂。
まだ目に見えない。
だが内部では、確実に広がっている。
「門を閉じてください」
セレナは立ち上がった。
「何?」
「今すぐ落とし格子を下ろし、門の北側から離れてください」
「何を言っている」
「城壁の一部が崩れます」
衛兵たちの間から笑い声が漏れた。
グレゴールは苛立たしげに眉をつり上げる。
「偽物の聖女の戯言に付き合うつもりはない」
「聖女として申し上げているのではありません」
セレナは門を指した。
「壁の内側に亀裂があります。あと数分も持ちません」
「そのような亀裂はない」
「外からは見えません」
「いい加減にしろ!」
グレゴールがセレナへ歩み寄ろうとした。
その瞬間、小石が一つ、門の上から落ちた。
グレゴールの足元へ転がる。
誰も声を出さなかった。
次の瞬間、低い音が響いた。
石と石がこすれ合う、重苦しい音。
衛兵たちが頭上を見上げる。
東門の北側。
高い壁の表面へ、細い亀裂が走った。
「離れてください!」
セレナの声で、騎士たちが動いた。
衛兵と避難者を門から引き離す。
数秒後、城壁の一部が大きな音を立てて崩れ落ちた。
石と土煙が道を覆う。
馬たちが驚いていななき、人々から悲鳴が上がった。
幸い、セレナの警告で全員が離れていたため、下敷きになった者はいなかった。
土煙が薄れる。
半壊した門の前で、グレゴールは呆然と立っていた。
「なぜ……」
「王都全体で、同じことが起きます」
セレナは彼を見据えた。
「これは始まりにすぎません」
「偶然だ」
「そう思うのであれば、王都へ残っても構いません」
セレナは崩れた壁を指した。
「ですが、この光景を見てもなお、避難を望む方々を止められますか」
グレゴールは答えられない。
衛兵たちも顔を見合わせていた。
彼らの中には、王都に家族を残している者もいるのだろう。動揺を隠せない者もいた。
「門を通してください」
セレナは静かに告げた。
「それから、ご家族を東の高台へ避難させてください。王都西部へは近づかないように」
「なぜ我々に教える」
グレゴールがかすれた声で尋ねる。
「我々は、お前たちを止めようとしたのだぞ」
「だからといって、あなた方が死んでもよい理由にはなりません」
グレゴールは目を見開いた。
やがて、握り締めていた拳をゆっくりと開いた。
「……通れ」
「隊長補佐!」
一人の衛兵が驚いて声を上げた。
「この規模の崩落だ。安全が確認できるまで、門を閉鎖する」
それは建前だった。
城壁は崩れたが、人が通れる幅は残っている。
彼は侯爵家の一行を逃がそうとしているのだ。
「感謝いたします」
セレナが頭を下げると、グレゴールは苦い顔をした。
「感謝されるようなことではない。私は自分が生きるために、門を閉じるだけだ」
「それで十分です」
アルディール侯爵家の行列が動き出す。
崩れた石を避け、一台ずつ門をくぐっていく。
王都の外へ出る直前、セレナは振り返った。
グレゴールが、部下たちへ何かを命じている。
数人の衛兵が王都の内側へ向かって走り出した。家族を迎えに行かせたのだろう。
警告を信じる者が、また少しだけ増えた。
セレナは前を向いた。
東の空には朝日が昇っている。
その光が、長く連なる避難者たちを照らしていた。
王都を出たところで、さらに多くの人々が待っていた。
アルディール領から迎えに来た騎士と領民たちだった。
合流した一行は、三千人を超えた。
爵位を奪われた家。
偽物の聖女。
国外へ追放される者たち。
それでも誰一人、うつむいてはいなかった。
「出発します!」
セレナの声が朝の街道へ響く。
「歩けない方を馬車へ。食料と水は必ず分け合ってください。街道沿いの村で警告を行いますが、正午までには第一野営地へ到着します!」
人々が応える。
馬車の車輪が回り、長い行列が東へ向かって動き始めた。
王都が少しずつ遠ざかっていく。
朝日に照らされた城壁は美しかった。
崩れた東門さえ、離れれば小さな傷にしか見えない。
これほど美しい都が、三日後には失われる。
その事実を理解している者は、まだあまりにも少なかった。
「お嬢様」
隣を歩くマリーが王都を振り返った。
「本当によろしいのでしょうか」
何について尋ねているのか、セレナには分かった。
このまま去ってよいのか。
王都に残る者たちを、見捨てることにならないのか。
セレナも同じ問いを、何度も自分へ投げかけていた。
「よいとは思っていません」
彼女は答えた。
「ですが、わたくし一人に救える命には限りがあります」
目の前には、自分を信じてついてきた人々がいる。
彼らを危険へ戻すことはできない。
自分の罪悪感を軽くするために、領民の命を差し出すことだけは許されない。
「まず、この方々を安全な場所へお連れします」
「はい」
「そのうえで、できることを考えます」
セレナは王都へ背を向けた。
未来は見えない。
何が正しいのかも、誰にも分からない。
それでも歩みを止めるわけにはいかなかった。
一歩。
また一歩。
彼女が歩くたび、足元の大地から音が伝わってくる。
王都の方向から響く、深く暗い悲鳴。
そして東の大地から届く、穏やかな鼓動。
その先には、まだ崩れていない道が続いていた。
セレナは領民たちを率い、朝日の中を東へ進んだ。
*
一方、王都では東門の崩落が、祝祭を盛り上げるための工事事故として処理されようとしていた。
「古くなった壁の一部が崩れただけだ」
王宮へ届けられた報告書を読み、ユリウスはそう結論づけた。
机の向かいでは、エミリアが青ざめている。
昨夜から、彼女は同じ夢を繰り返し見ていた。
黄金色の空。
足元へ走る亀裂。
大勢の叫び声。
そして、倒れた星形の飾りの下から伸びる誰かの手。
「ユリウス様」
エミリアは震える声で呼びかけた。
「やはり、祝祭を中止したほうがよろしいのではないでしょうか」
「なぜだ」
「わたくしの見た光景は、もしかすると……」
「不安になる必要はない」
ユリウスはエミリアの言葉を遮った。
「お前の予言は、これまですべて当たってきた。セレナの戯言に惑わされているだけだ」
「ですが、東門が崩れたと……」
「それこそ、セレナの仕業かもしれない」
「仕業?」
「あの女は石の声が聞こえるなどと言っていただろう。事前に壁の亀裂を知り、崩れる時刻を予想していたのだ」
それは半分だけ正しかった。
セレナは壁が崩れる時を予測していた。
だがユリウスは、彼女が壁を壊したかのように話をすり替えた。
「民を不安にさせ、自分の力を証明しようとしているのだ。まったく、どこまで見苦しい女なのか」
「そう、なのでしょうか」
「ああ」
ユリウスは迷いなくうなずいた。
「三日後の祝祭は予定どおり行う。いや、当初より盛大にしよう」
「盛大に?」
「王国の繁栄を疑う者たちへ、本物の聖女の力を示すのだ。王都中の民を神殿前の広場へ集めよう」
エミリアの指先が震えた。
夢の中で見た、大勢の人々。
もし彼らが、祝福のために集まったのではないとしたら。
もし、あの声が歓喜ではなく悲鳴だったとしたら。
エミリアは恐怖を覚えた。
けれど真実を口にすれば、本物の聖女として得た地位を失うかもしれない。
豪華な部屋。
美しいドレス。
神官たちの尊敬。
そして、ユリウスからの愛情。
辺境の修道院で誰からも必要とされなかった頃には、手に入らなかったものばかりだった。
「エミリア」
ユリウスが優しく微笑む。
「私を信じてくれるな」
エミリアは答えられなかった。
窓の外を見る。
王都の至るところで、黄金の星を模した旗が風に揺れていた。
足元で、小さな振動が起きた。
卓上の茶が、わずかに波打つ。
ユリウスは気づかなかった。
エミリアは気づいた。
それでも彼女は、何も言わなかった。
星が語らなかったのではない。
見た者が、自分に都合のよい意味を選んだだけだった。
そして滅びの時は、今も静かに近づいていた。
三千人を超える領民と避難者を率い、セレナは東の国境へ向かう。
その頃、ユリウスは東門の崩落を単なる事故と決めつけ、予言の日の祝祭をさらに盛大にすると宣言する。
一方のエミリアは、黄金色の空、ひび割れる大地、人々の叫び声という夢を再び見ていた。
自分が繁栄の象徴だと解釈した光景は、本当は滅びを示していたのではないか。
疑念を抱きながらも、手に入れた地位を失うことを恐れ、エミリアは真実を口にできない。
こうしてセレナが人々を王都から遠ざけている間、ユリウスは自らの手で、災害の中心へ国民を集め始めるのだった。




