第五章:疑念の種
「兄さん……。早かったな」
俺の声は、自分でも驚くほど上擦っていた。
和雄兄貴は、ネクタイを緩めながらリビングを見回した。
知美は素早くキッチンへ移動し、洗い物を始めている。
「ああ、商談がスムーズに終わってな。一刻も早く帰りたかったんだ。……なんだか、部屋の空気が妙に熱いな。エアコン、壊れてるのか?」
兄の鋭い視線が、俺と知美の間を往復する。
「いや……掃除してたからかな。動くと暑いだろう?」
知美が努めて明るい声で答える。
だが、兄の視線はある一点で止まった。
ソファーの端。
そこに、知美がさっきまで着ていたカーディガンが脱ぎ捨てられていた。
そして、そのすぐ横に、俺の書きかけの仕事の資料が重なっている。
兄は何も言わず、そのカーディガンを手に取り、知美に差し出した。
「風邪引くぞ、ちゃんと着ておけ」
「……ありがとう、和雄さん」
その夜、兄は親父の部屋でずっと付き添っていた。
俺は自分の部屋に籠り、仕事のコードを書いていたが、一行も進まない。
壁一枚隔てた向こう側で、兄は何を思っているのか。
知美は今、兄と同じベッドで何を考えているのか。
夜中、トイレに立った俺は、廊下で兄さんと鉢合わせした。
兄は暗闇の中で、静かに立っていた。
「雄一」
「……うわっ、びっくりした。兄さん、どうしたんだよ」
「お前に、ずっと聞きたかったことがある」
兄の声は、これまで聞いたことがないほど冷たく、沈んでいた。
「知美との間に、何か隠してないか?」
心臓の鼓動が、鼓膜を突き破らんばかりに響く。
「何を……言ってるんだよ。隠し事なんて」
「高校の頃からだ。お前が部活で怪我をした時、知美が影で泣いてるのを見た。あいつがお前を好きだったのは、俺だって知ってたんだ」
俺は言葉を失った。
兄は全てを知っていたのか。
知っていて、知美を妻にしたのか。
「でも、あいつを選んだのは俺だ。俺が幸せにすると決めた。……雄一、お前は弟だ。信じたい。だが、最近のあいつの目は、俺を見ていない。鏡を見てるような、虚ろな目をしてるんだ」
兄の大きな手が、俺の肩を強く掴んだ。
「お前がこの家にいて、俺は心強い。だが、もしお前があいつに……いや、なんでもない。忘れてくれ」
兄はそれだけ言うと、背を向けて寝室へ消えた。
俺は冷や汗でシャツを濡らしながら、その場に立ち尽くした。
これは、警告だ。
だが、一度火がついた情欲は、警告程度で消えるものではなかった。
むしろ、兄にバレるかもしれないという恐怖が、俺と知美の関係をより過激に、より狂おしいものへと変えていく。




