第三章:綻びゆく仮面
洗面所の狭い空間で、俺たちは互いの熱を貪り合った。
すぐ近くの寝室では、兄が、そして隣の部屋では寝たきりの親父が眠っている。
その静寂が、かえって俺たちの鼓動を騒がしくさせた。
知美の肌は、月の光を吸い込んだように白く発光していた。
彼女が押し殺した声で俺の名を呼ぶたび、俺の中の倫理観は砂の城のように崩れ去る。
「雄一くん……もっと、強く……」
彼女の指が俺の背中に食い込む。
それは、かつてのマネージャーと部員という関係では決して見ることのなかった、女としての剥き出しの執念だった。
高校時代、俺は彼女の好意に気づいていながら、サッカーに夢中で、あるいは「いつでも手に入る」という傲慢さから、彼女を放置していた。
今、その報いを受けているのだろうか。
兄の所有物となった彼女を、盗むように抱くことでしか、俺は己の存在を証明できない。
翌朝。
食卓には、何事もなかったかのように朝食が並んでいた。
焼き魚の香ばしい匂い。味噌汁の湯気。
「おはよう、雄一。昨夜はよく眠れたか?」
兄さんが新聞を広げながら、コーヒーを啜る。
「……ああ。まあな」
俺は兄さんの目を見ることができず、手元の納豆を執拗にかき混ぜた。
「最近、知美の顔色が良くなった気がするんだ。お前が実家に戻ってきて、話し相手が増えたからかな。感謝してるよ」
兄の言葉は、毒のように俺の胃を焼いた。
知美は、トースターからパンを取り出しながら、わずかに口角を上げる。
その微笑みが、俺に対しての共犯の合図なのか、それとも兄への冷笑なのか、俺には判別できなかった。




