最終章:遺された希望、あるいは罰
俺たちは弾かれたように階段を駆け上がった。
知美の部屋の扉は、中から鍵がかかっていた。
「知美! 開けろ! 知美!」
兄さんが体当たりでドアを破る。
部屋の中では、知美が大量の睡眠薬を飲み干し、床に倒れていた。
手元には、一通の手紙。
「知美!!」
兄さんが彼女を抱き起こす。
俺は震える手で救急車を呼んだ。
幸い、発見が早かった。
病院で処置を受けた知美は、一命を取り留めた。
数日後。
病室のベッドで横になる知美を、俺と兄さんは遠巻きに見つめていた。
彼女は、以前のような輝きを失っていた。
ただ、どこか憑き物が落ちたような、静かな表情をしていた。
「雄一」
兄さんが、掠れた声で俺を呼んだ。
「お前は、この家を出ろ。二度と、知美の前にも、俺の前にも現れるな」
それは、兄としての最後の温情であり、決別だった。
「……わかった。今まで、すまなかった」
俺は最後に一度だけ、眠っている知美の顔を見た。
彼女の手紙には、こう書かれていたという。
『二人を愛してしまった。でも、一番愛していたのは、二人と過ごしたあの頃の、純粋な思い出だったのかもしれない』
俺は実家を去った。
仕事は軌道に乗り始め、経済的には困らなくなった。
だが、俺の心には一生消えない穴が空いた。
風の噂で、兄さんと知美が離婚したと聞いた。
兄さんは一人で親父の家を守り、知美は遠い街で一人で暮らしているらしい。
俺たちは、互いを愛しすぎたのか。
それとも、自分自身を愛するために、互いを利用しただけなのか。
答えは、誰にも分からない。
ただ、時折、雨が降る夜になると、俺はあの中狭い洗面所で嗅いだ、石鹸と体温が混じった匂いを思い出す。
それは、この世で最も甘美で、最も残酷な、俺の人生のすべてだった。




