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時速240kmの孤独  GPレーサー 伊藤 史朗

作者: 滝 城太郎

元てんぷくトリオの伊東四朗と勘違いされやすいが、元世界GPレーサー伊藤史朗いとうふみおの話である。一九七〇年代の片山敬済、一九八〇年代の平忠彦あたりが、私の世代のバイク少年たちのヒーローだったが、彼らは品行方正な紳士で、不良少年たちにとってはイマイチ物足りないキャラだったように思う。ところが、伊藤史朗はホンモノの不良で最高イカれていて化け物のように速い天才的GPライダーだった。

 昭和三十八年十一月十日、記念すべき第一回日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催された。当日鈴鹿に詰めかけた大勢のモーターファンの最大の目当ては、二五〇ccクラス決勝だった。

 現在と違って、当時のバイクレースは二五〇ccクラスが最大の激戦区で、このクラスでチャンピオンになることこそ、世界最速ライダーの証と言われていた。そしてまさにその頂点に君臨するのが、一九六二年度に二五〇cc・三五〇ccクラスでダブルタイトルを獲得したホンダのジム・レッドマン(英国)であり、一九六二年度は両クラスで出走した全てのレースで一位か二位、一九六三年度も全て表彰台というダントツの強さだった。

 昭和三十年代に入り、驚くべき進化を遂げた日本のモーターテクノロジーは、オートレース、カーレースともに日本のワークスレーサーの独壇場となっていた。中でもホンダエンジンは最高のクオリティを誇り、一九六一年にはマイク・ヘイルウッドを擁して世界グランプリ二五〇ccクラスを制覇。モーターレースの頂点たるF1グランプリにおいても、ホンダのジョン・サーティーズが一九六三年の世界チャンピオンに輝いていた。

 ホンダはまさにモータースポーツ界の王者というべき存在だったが、その優秀なマシンを扱いこなせるのはあくまでも外国人レーサーであり、一九六一年の西ドイツGP二五〇ccクラスで日本人として初めてチェッカーフラッグを受けた高橋国光にしても、ホンダチームでは四番手に過ぎなかった。

 二輪の世界では、ホンダに次ぐのはモト・モリーニやMVアグスタだったが、ジム・レッドマンが乗るホンダの牙城を崩すには程遠く、しばらくは絶対王者レッドマンを擁するホンダの天下が続くと思われていた。

 ところが、一九六三年(昭和三十八年)の世界グランプリ二五〇ccクラスは、三強が相まみえる大激戦となり、最終戦の鈴鹿までチャンピオンシップ争いが持ち込まれた。この時点でのポイントトップはタルクィニオ・プロビーニ、僅差でそれを追うのがレッドマン、そして第三位につけていたのがヤマハの若きエース伊藤史朗だった。

 このシーズンは、開幕当初から王者の貫禄を見せつけたレッドマンをプロビーニと伊藤が追う展開となったが、予算の関係でシーズン後半のレースを欠場した伊藤がまず脱落し、終盤にプロビーニが一気にまくり、二位と3ポイント差で鈴鹿の決勝に臨むことになった。

 しかし鈴鹿に詰めかけたレースファンにとっての最大の関心時は、プロビーニ対レッドマンのチャンピオン争いではなく、レッドマン対伊藤史朗の直接対決だった。というのも、このシーズンのプロビーニ対伊藤は全て伊藤の順位が上であり、伊藤自身も、出走回数が少ないためポイントでは下位というだけで、プロビーニは鼻から眼中になかった。伊藤のターゲットはあくまでも直接対決で二連敗しているレッドマンであり(いずれもレッドマン❘、伊藤のワンツーフィニッシュ)地元の鈴鹿で勝って実質的な世界最速ライダーになることに全てを懸けていた。


 最終戦の鈴鹿は、プロビーニがマシンの不調で振るわない中、レッドマン、伊藤、伊藤と同じヤマハのフィル・リードの三つ巴となり、トップは目まぐるしく入れ替わった。最終ラップ前の二十四週目では伊藤は三番手につけていたが、これは背後からレッドマンにプレッシャーをかける伊藤の作戦であり、一三〇Rの最終コーナーで勝負に出るつもりだった。コーナーに突っ込むスピード、そこからの立ち上がりで伊藤に勝るライダーはいなかったのだ。

 コーナーでぐっと差を詰めた伊藤は、目の前を走るリードをパスして一気にレッドマンまで抜き去ろうとアクセルを全開にしたが、こともあろうにリードのマシンのプラグキャブが抜け落ちるという信じられないトラブルが発生。追突を避けようとアクセルを戻したコンマ何秒かのロスが運命を決してしまった。

バックストレートで追い上げるが、レッドマンに逃げ切られ、ファンの悲鳴の中、伊藤は二位でチェッカーフラッグを受けた。レッドマンとは〇・一秒差。絶対にレッドマンに負けない自信があっただけに、悔やんでも悔やみ切れないレースだった。

 残念な結果に終わったが、世界一流のデッドヒートを初めて目の当たりにした日本のレースファンは、伊藤史朗の天才的なライディングテクニックに酔いしれた。最終レースで二位になったことで、伊藤はレッドマン、プロビーニに次ぐ世界ランキング三位の座を確保したが、これは一九六一年度の高橋国光の世界四位を上回るものだった(一九六三年度の高橋は九位だった)。

 ポイントではレッドマン、プロビーニに差をつけられたとはいえ、この年ヤマハは全十戦行われた世界GPには四戦しか参戦しておらず、伊藤はその全てで表彰台に上っていることを考えれば、もし、ヤマハが全レースに出場し、鈴鹿で伊藤が一位になっていれば、世界チャンピオンになっていた可能性が高い。しかしそれ以上に、ホンダと比べて性能的に劣るヤマハのバイクで日本人ライダーがレッドマンとほぼ互角に渡り合えたことに、日本中のレースファンは惜しみない拍手を送ったのだった。


 伊藤史朗は昭和十四年十月十日、東京に生まれた。中学時代にスクーターを運転させてもらったのがきっかけでバイクに興味を持ち、父にねだったところ、意外にもポンとライラックを買い与えてくれた。それからというもの、大してスピードの出ないライラックで限界まで飛ばすことに血道をあげはじめた。その頃からセンスがあったのだろう、史朗は瞬く間に近所のカミナリ族のリーダーとしてもてはやされるようになった。

 中学生にしてすでに一八〇cm近い長身でガタイのいい史朗がサングラスに革ジャンで闊歩する姿は、まるで筋者のような威圧感に満ちていたが、実際は小心者で、子供の頃はいつも学校でいじめられては泣いて帰っていたという。

 そんな彼がスピードの世界に魅せられていったのは、恐怖心を克服して強い男になりたいという一心からだった。最愛の母を子供の頃に亡くして以来、虚ろになった心を満たしてくれるのは限界を超えるスピードがもたらしてくれるエクスタシーだけだった史朗にとって、生と死の狭間の中で恐怖が快感に変わる瞬間こそが、自分の存在感を感じることが出来る唯一の時だったのだ。

 中学卒業後、高校にも行かずブラブラしていた史朗だったが、大森周辺では名うてのライダーとして知られており、その噂を聞き付けてスカウトに訪れた丸正自動車製造が、彼のその後の人生を変えた。


 昭和三十年十一月五日から六日にかけて、浅間山山麓で第一回全日本オートバイ耐久レース(通称浅間火山レース)が行われた。国産メーカーではホンダの技術が最も優れており、下馬評では一二五ccを除く全てのクラスでホンダの表彰台独占が予想されていたが、よりによって本田宗一郎が最も力を入れていた二五〇ccクラスはノーマークの伏兵に優勝をさらわれるという番狂わせが起こった。

 出走二十七台中、完走十二台という過酷なサバイバルレースを征したのは、丸正ライラックYSに乗車する出場選手中最年少、十六歳の伊藤史朗であった。


 レース直前、史朗は怒っていた。

 プロも参戦するレースだけに、取材陣は著名なライダーばかりに群がり、無名の史朗など歯牙にもかけられないのは仕方ないにしても、ライラックチームの中でも選手枠から漏れてしまい、予備のマシンをあてがわれた挙句に、個人参加扱いにされてしまったのだ。

 これでも族仲間ではちょっとは知られた顔である。それが補欠選手扱いでは、男として面子が立たない。

「勝てなかったら、浅間山に飛び込んでやる」

 こんな物騒なセリフを口にしたのも、取材陣やギャラリー、そしてチームを見返してやりたい一心からのことだった。

 第一回浅間火山レースで、天才少年として世の注目を浴びた史朗は、翌年ヤマハに移籍し、浜松でオートレーサーとしてプロ生活のスタートを切ったが、マシンを同じ方向に傾けたまま何の変哲もないコースをぐるぐる回るオートレースは、単調過ぎて性に合わなかったようだ。

 昭和三十三年五月、ヤマハ初の海外遠征でカタリナ島GPアメリカに出場した史朗は、途中で転倒して最下位に落ちながら、そこから猛然と追い上げ、六位入賞を果たした。この時の鬼気迫る走りっぷりが評価され、史朗はアメリカのバイク雑誌の表紙に載った。

 当時のアメリカ西海岸では、車もバイクも「メイド・イン・ジャパン」というと粗悪品の代名詞のように見られており、販売台数も全く振るわなかったが、このレースをきっかけにヤマハのバイクはアメリカでも急速に販売台数を伸ばしていった。

 国際レースで名を挙げた史朗は、同年九月、ヤマハのエースライダーとして二年ぶりに開催された第二回浅間火山レースに出場したが、トップを独走中にエンジンが焼け付き、リタイヤ。これは史朗の腕が悪いというよりも、まだ国産マシンの性能が史朗の次元に追いついていなかったことによるものだ。

 二輪にディスクブレーキなどなかったこの時代、二五〇km近い高速でコーナーに飛び込むには、ギアブレーキとドラムブレーキの制動力だけでは足りず、カウリングから身体を乗り出して風圧でブレーキングしなければならない。しかも現代とは比べものにならないほどヤワなフレームとサスペンション、タイヤのグリップでは、ハングオンさえままならず、高速コーナーで進入速度が速すぎると、後輪がアウトに流れてしまう。

 ところが史朗は、絶妙なギアブレーキングとアクセルワークによって、後輪がグリップを失う限界までドリフトさせながら、信じられない速度でコーナーを駆け抜けてゆくのだ。もちろん少しでもタイミングがズレればクラッシュは免れない。しかもフルフェイスではなく、申し訳程度に頭部を覆っているだけの当時のおわん型ヘルメットでは、高速で転倒して打ち所が悪ければまず助からないだろう。

 まさに栄光は死と背中合わせにあり、栄光だけを掴み取るには技量だけでなく勇気が必要だった。

 そういう意味では、史朗には「これ以上アクセルを開くと死ぬ」というタイミングを正確に見極める超高精度の五感センサーが備わっていたのだろう。一流のライダーがフルブレーキングに入るタイミングでもまだアクセルを戻さない史朗は、周囲から「バケモノ」と呼ばれていた。

 マシンのポテンシャルでは届かない次元の走りを、史朗はテクニックとセンスで補っていたのだ。そのため、マシンがよく壊れ、メカニックを泣かせたが、BMWからマシンの提供を受けた第三回浅間では、五〇〇ccクラスでコースレコードを叩き出して見事リベンジを果たしている。 

 その後、BMW日本代理店、バルコム貿易総支配人へルマン・リンナーの斡旋で、BMW契約ライダーとなった史朗は、一九六〇年(昭和三十五年)の世界グランプリレース開幕戦、フランスGP五〇〇ccクラスで予選三位、決勝六位入賞という堂々たるデビューを飾っている。日本人が世界グランプリに出場するのもコンストラクターズポイントを獲得するのも初めてのことだった。

 翌昭和三十六年は、ヤマハで世界グランプリに挑み、二五〇ccクラスで出走した全四レースで入賞。

 最終戦のアルゼンチンGPでは自己最高の四位と健闘するも、表彰台は遂に届かなかった。

 その一方で、ホンダの高橋国光は西ドイツGP二五〇ccクラスで優勝し、最も権威あるこのクラスで世界ランキング四位となった(前年の伊藤史朗は世界ランキング九位)。

 この年の二五〇ccクラスは、世界ランキングの一位から四位までをホンダ勢が独占するほど、ホンダ車のポテンシャルが他メーカーを圧倒していたとはいえ、直接対決で一度も同い年の高橋に勝てなかったことで、史朗のプライドは大きく傷ついた(マシンが違う二五〇ccでは勝てなかったが、同じBMWの五〇〇ccで出場した浅間では史朗が勝っている)。さらに追い討ちをかけるように、ヤマハが昭和三十七年度の世界グランプリ出場を断念したため、日本最速男の称号を懸けた両者の争いはしばらくの間、持ち越しとなった。


 一年間、雌伏の時を過ごした史朗は、さらにグレードアップして再び世界の舞台に戻ってきた。溜まりに溜まったフラストレーションを発散するかのように、一九六三年(昭和三十八年)の史朗は圧巻の走りを見せた。

 世界グランプリの前哨戦たる二月の米デイトナGP、四月のシンガポールGPと二連勝した史朗は、自身にとっては開幕戦となる世界グランプリシリーズ第三戦、マン島TTで日本人初の表彰台に上る(第二位)と、続くオランダGPも第二位。そしてついに第五戦ベルギーGPでは悲願の初優勝を果たし、スパフランコルシャンのメインポールに日の丸をはためかせた。また、同僚の砂子義一とのワンツー・フィニッシュも日本人として初の快挙だった。

 この時点での史朗は、世界ランキングトップのレッドマンと6ポイント差の三位につけており、逆転の可能性も十分残されていたが、前述のように社の方針で、世界グランプリの出場は四戦までと決められていたため、最終戦の鈴鹿を前に、日本人初の世界グランプリ総合優勝の望みは断たれていた。モータースポーツ界の天才児、伊藤史朗の名は日本全国に轟いた。

  

 日活アクション映画全盛のこの時代、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎といった不良っぽさが売りのスクリーン・ヒーローに憧れていた若者たちにとって、伊藤史朗は現実世界の偶像だった。

 東京都大田区雪ヶ谷の一角にある鉄筋二階建ての白亜の一軒家が史朗の城だった。

 一階のガレージには、流行の最先端であるジャガーEタイプからシボレー・インパラ、プリンス・グロリアなどの高級車がズラリと並び、4LDKの二階に史朗と弟子たちが住らすその家は、全てがアメリカンスタイルで、一般的な日本家屋とは全てにおいてスケールが違っていた。

 時代の寵児である史朗には石原慎太郎・裕次郎兄弟をはじめとする芸能関係の知り合いも多く、映画スターやミュージシャンはもとより、史朗を慕う族仲間や不良連中が雪ヶ谷の邸宅に出入りしていた。宵越しの金を持たない主義の史朗は、契約金やレースの賞金が入ると湯水のように使ってしまう。金離れがいいから、人は集まるし女にもモテる。赤坂の有名クラブ『コパカバーナ』で遊んで、ホテル・ニュージャパンに直行というのがいつものパターンだった。

 レースの世界でもお山の大将だった史朗は、ワンマンで知られるヤマハの川上源一社長にもズケズケと物を言い、相手がお偉いさんであろうが何であろうが一向に気にせず、自分の主張を貫くタイプだっただけに、メカニックをはじめとする会社関係者には煙たがられた。

 しかし、勝負の世界は勝つことが全てである。いくら生意気な若造でも、ヤマハの広告塔として社の売り上げに絶大な貢献をしている史朗を邪険に扱うことは出来ない。これが一般的な芸能人であれば、例え売れっ子でも、干されてしまえばどうにもならないが、国際的に著名なGPライダーである史朗の場合は、フリーになっても世界中から引く手あまたなのは間違いない。事実、社の方針で世界グランプリ出場が見送られた昭和三十七年には、本田宗一郎から直々に誘いを受けているほどだ。

 年功序列と終身雇用が一般的な時代にあって、上役に媚を売ることもなく、若さと実力を武器に自由奔放に生きる史朗の生き様に多くの若者たちが憧れたのも当然であろう。


 「我が道を行く」という生き方は、自由である反面、大きなプレッシャーと孤独感も伴う。

 レースに勝っている間は、周囲も気を遣ってちやほやしてくれるが、勝てなくなったら最後、優等生でないぶん、反発も必至であることは、誰よりも史朗自身が深く認識していた。

 生身の人間である以上、いつかはレースに勝てなくなる日が訪れる。一見兄貴肌のようで、実は気の弱い史朗は、レース前になると怖くて寝られず、酒か睡眠薬の力を借りることが多かった。

 「レース前に酒臭い息を吐きながら、本番ではぶっちぎりの走りを見せる」という史朗伝説も、酒を飲まなければ恐怖心を抑えることが出来なかったからで、本当に大胆不敵なわけではなかった。とはいえ、日常的に睡眠不足か酒や薬で意識が朦朧とした、肉体的にも精神的にも最悪のコンディションでレースに臨みながら、マシンにまたがるや、恐るべき集中力で心技体が一体となった見事な走りを見せるのだから、これはもう一種の天才といっても過言ではないだろう。

 同世代の世界GPライダーとして一時期ライバル関係にあった高橋国光も、史朗のことは天才と認めている。

 史朗の私生活の無軌道ぶりは、一種の現実逃避に起因するものだが、そんな彼にとって唯一の癒しが音楽だった。父親が音楽家という血がそうさせたのか、愛用のウクレレを奏でながら口ずさむ史朗の歌は玄人はだしで、昭和三十九年四月には、ポリドールから『赤いリボンのお下げの娘』でレコードデビューまで果たしている。

 デビュー時の宣伝文句「デビューした孤独なレーサー」はいかにも暗示的である。人気絶頂で周囲に人だかりがしているような時代の寵児を“孤独”と表現したのは、死と背中合わせの極限の世界で戦っている史朗が頼れるものは自分の腕だけという意味なのだろう。しかし、孤独という不治の病は史朗の中で着実に増殖し、心と身体を蝕んでいたのだ。


 その人気に当て込んで、レコード会社がプロスポーツ選手のレコードをリリースすることはよくあるが、所詮は素人の余技に過ぎない。ところが史朗の場合は、ポリドールレコード制作ディレクター藤田創造が、シングル第二弾のB面に、伊藤史朗作詞・作曲の『浜辺は夜だった』を採用するほど、その音楽センスに惚れ込んでいたことからもわかるように、他とは一線を画していた。

 ところが、伊藤が事故やトラブルに見舞われて墜ちた英雄になってしまったことも影響したのか、歌手伊藤史朗は大して売れなかった。それでも『浜辺は夜だった』は楽曲としては優れていたので、昭和四十二年に日野てる子がカバーし、ヒットさせている(日野盤の作曲者名が別人になっているのは、直前に史朗が逮捕されたため、イメージダウンを避けるためだったのだろう)。  


 モータースポーツの選手にしては珍しく、マス・メディアの露出度も際立っていた史朗は、小説のモデルにもなっている。同年八月発売の『別冊・文藝春秋』の巻頭を飾った、文壇の寵児、石原慎太郎の『飛べ、狼』がそれで、トップレーサーの悲哀がよく描かれている力作である。

 「何をやっても絵になる男」伊藤史朗は、昭和三十八年から三十九年初旬にかけて人生の絶頂期にあったが、昭和三十九年三月のシンガポールGPで予期せぬ落とし穴が待ち受けていた。


 世界グランプリレースの前哨戦とでも言うべきシンガポールGPに出走した伊藤は、二十三週目までぶっちぎりのトップを快走し、前年に続いてシンガポールV2達成は時間の問題と思われていた。

 ところが、なんでもないコーナーで突如車体の制御を失い、コースアウト。スリップしながら林の中の立ち木に激突した。ヘルメットが真っ二つに割れるほどの衝撃を受けた史朗は、意識不明のまま日本に搬送されるほどの重傷だった。

 死線を彷徨うほどの事故からわずか三ヶ月後、ヤマハは六月のマン島GPに史朗を送り込んだ。

 細かいコーナーが折り重なるマン島は、世界グランプリのコースの中では最も難易度が高い。病み上がりで思考力も低下している史朗は、とてもレースに臨めるようなコンディションではなく、マシンにまたがることもなく帰国したが、日頃から史朗に良い感情を持っていなかったヤマハの上層部はここぞとばかりに史朗に激しい批難を浴びせた。

 結局、体調が戻らないまま出場した日本グランプリでは早々とリタイヤ。再起を楽しみにしていた大勢のファンの前で、再び往年の勇姿を見せることは叶わなかった。そして、それが史朗にとって最後のレースとなった。

 昭和四十年二月、失意の史朗をさらなる悲劇が襲った。

 芸能・スポーツ関係者ら多数による拳銃不法所持事件の中で、伊藤史朗の逮捕が報じられたのだ。

 この手の事件は、毎度のことながら摘発された者に対する扱いに不公平が生じている。昭和四十年代の黒い霧事件にせよ、平成二十年代の大相撲八百長疑惑にせよ、それでキャリアを絶たれた者もいれば、驚くほどの微罪で済んだ者もいる。

 この時の拳銃不法所持事件では、相撲界のスーパースターである大鵬、柏戸、人気歌手の平尾昌章らは人格的にも優等生だったせいか、情状酌量によって臭い飯を食わずに済んだが、これまでが素行不良の代名詞のようだった史朗は、ヤマハからも見捨てられ、懲役二ヶ月の実刑判決を受けている。

 かつてつるんでいた取り巻き連中も後難を恐れてか、史朗の周囲から去ってゆき、「天才を葬り去るな!」と擁護してくれたのは、石原慎太郎だけだった。

 シャバに戻ってきてからも悪意に満ちた誹謗中傷を浴び続けた史朗は、絶望してガス自殺未遂を起こした後、昭和四十一年に入籍した女性と人知れずアメリカに渡り、人々の前から姿を消した。以来、伊藤史朗の名は人々から忘れ去られていたが、約二十年後、スポーツジャーナリストの追跡取材によって、マイアミのホテル・ビジネス会社の副社長をしていることが明らかになった。

 史朗は四十代後半に差し掛かっていたにもかかわらず、もう一度マシンに乗る夢を描いていた。

 しかし一九六〇年代と一九八〇年代ではマシンの性能が段違いで、往年のグランプリレーサーといえども、中年を過ぎてからの体力と運動神経では、とても最新のモンスターマシンを制御できるものではない。

 それでもリアルタイムで伊藤史朗の走りを観た世代にとっては、彼は他とは別格の“化け物”だったようだ。ポップ吉村とおぼしきチューナーが、「伊藤史朗なら乗れる」といってマシンの貸与に同意してくれるところまで話は進んだらしいが、ほどなく史朗は体調を崩し、五十一歳の若さで亡くなっている。 

伊藤史朗にはポップ吉村がチューニングを施したマシンで一回きりでいいから世界GPの舞台で、それもできれば鈴鹿で復活の走りを見せてもらいたかった。そこでもし平忠彦に勝っていたら、日本中の暴走族が伊藤の前にひれ伏し、伊藤は不良少年の教祖となっていたかもしれない。真面目な話、何をやってもしょぼくてうだつが上がらず、世の中をうらんでばかりいる不良たちの心の中の何かを目覚めさせるカンフル剤になって欲しかった。伊藤史朗ならそれが出来たはずだ。


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