ねぎま
僕はねぎまを残した。
少しでも彼女のことを知りたくて。。
イヤホンを貫通いて響く電車の音に耳をキンキンとさせながら揺られる。
久々のスクーリングに怯えつつなんとか最寄駅につく。
隔週月曜日、丁度昼時で、周囲にはポツポツと人がいるだけ。
焦燥感と嘔気に耐えられず薬を飲みに、トイレの個室に入る。
平日の昼間に人は来ない、落ち着いてきたので思い切って歩き出す。
イヤホンの音量を最大にしているのに聞こえるのは聞き覚えのある声ばかり。
駅から十分、右へ左へ人通りの少ない道を通っていくと、ようやく高校が見えてきた。
狭い建物の中に入ると九席しかない小さな教室には三人しか座っていない。
時間割がそれぞれ異なり、人の少ない時間帯を選択したからこそこの人数だ。
一番左の壁きわの席に腰を下ろし少し待つ。
「おはようございます。」
しばらくすると、教師の優しそうな声が聞こえてきた。
その声にイヤホンを外すと形ばかりの出席が取られる「鶴瀬彩くん」最後に僕の名前が呼ばれて控えめに手を挙げる。
サイコロの世間話から数学の授業が始まった。
「だからサイコロでは5の目が一番出やすいんだよね。じゃあ教科書25ページ開いて。」
ぼーっとする頭で、教科書に目を落とすと、ガラガラと扉が開いた。
「橋本りおんさん、そろそろ気をつけてくださいね。」
遅刻につけられる時間だったが注意で済まされる。
その子は一際派手なメイクをしている。この教室に似合わないほの明るい銀髪。
初めてみる顔なのは今まで来ていなかったからだろう。
最初のホームルームで渡された課題プリントにこの授業の答えを書き込んでいるが横が気になる。
ただぼーっと視線を下す彼女。
教科書が三ページ進んだところで鐘がなる前に授業が終わる。
「じゃあ今日はここまで、課題は今日のホームルームで担任に渡してください。」
その声に教科書をしまい教室から逃げるように飛び出す。
次の授業までの少しの時間だけでも一人になろうと、いつも隠れている路地裏へ向かった。
イヤホンをつけ静かに息を潜めていると、雑音が聞こえる。
啜り泣くような女性の声に導かれ顔を向けると、丁度歩道を歩いていく先ほどの女の子がいた。
ふいとこちらを向いた彼女に見ていたことを悟られないよう顔を背ける。
彼女が移動したのを確認し、薬を飲んで教室に戻る。
次の授業は声の大きい人だったと手が震えてくる。
焦燥感と脱力感を耐えながら荷物を取り出すと教師が入ってきた。
パツパツのスーツで下腹が締まったその教師は元気よく挨拶して授業を始める。
ホワイトボードに「律令」と書き、その下に線を伸ばしていく。
トントンという音に後頭部が引き攣る感覚がして吐き気が襲いかかる。
教師に目で合図してトイレにいくと何も出てこないのに何度も嗚咽が込み上げる。
何かがついたのではないかと体中が気持ち悪く思えてまた嗚咽する。
荷物を全て置いて家に帰ろうとするがそれでいいのかと焦燥感に襲われ足が震え立てなくなる。
手洗いうがいだけしてトイレの外にある椅子になんとか座ったところで意識を無くしてしまった。
目を覚ますと、小さくギシと音がなりベッドに寝かされていることに気がついた。
なんとか起き上がり簡易的に立てられた仕切りをずらし養護教諭を探す。
見当たらないのでベッドに腰かけると横の丸いすにある「外出中です、起きたら受付に来てください。」と書かれた裏紙を見かけて入口の受付に向かう。
「すいません起きました。」
震えそうになる声を振り絞って声をかけると数学教師が出てきた。
「大丈夫?倒れてたから心配したよ。」
「すいません大丈夫です。」
「どうする?早退する?」
「はい、すいません。」
「わかった、しんどかったら荷物置いて帰っても大丈夫だから。」
その言葉に、すいませんと頭を下げ早退届を受け取り家に向かう。
何か気持ちの悪いものがついている感覚がおさまらず吐きそうになるが、なんとか耐えてスマホで改札を通る。
隣の駅までは二分、都心を離れたここの三時の時間では、一両に三人が精々で少し落ち着く。
しかし電車の音と幻聴による耳の痛みはおさまらず、頭に響く。
薬を飲もうとバッグを探すが置いてきたことを忘れていた。
あと何秒かぐるぐると考え耐える、するとすぐに最寄駅につき家まであとわずかになった。
数を数えながら不安なことを考えないようして歩きしばらくして家に着く。
とにかく風呂に入ろうと服を全て捨て風呂場に入った。何度も何度も頭や体を洗い風呂を出て、家中を掃除してもう一度風呂に入る。これを二回繰り返しようやく落ち着いてきたのでリビングへ向かう途中、スマホに連絡が来ていることに気がついた。
「振り込みました。」
六万円、これは定期代やスマホ代、ご飯代などを含め月の始まりの頃振り込まれる。
週の三回少ししか食べない彼の残高は毎月一、二万ほど貯まっていく。
すぐ部屋に戻りピルケースを取り出し三種類ほど飲むと落ち着いて寝てしまった。
僕は、何が辛いのだろうか。
毎日の自問自答に心身ともに疲弊していく。
多分恵まれている。
生活の困らないだけの金はもらっているしもう少し小さい頃はトリッピで選ぶ側だった。
なのに今は人の目を見ることもできない弱々しい人間。
父母兄姉に殴られてこそいたが今となってはそのことも幻聴幻覚の中に収まる程度に風化されている。
なら何が辛いんだろうか?
反復思考で癖がついているのかもしれないと色々試してきたが一向に改善されない。
何度も言われた。
「大人になれ。」「他の人も辛い。」「家族がしんどいなら一人で過ごしてみるのはどう?」
わかってる。十七になって親に反抗の一つもできないのは甘ったれているからだ。
でも怖いんだ、昔蹴られた腹のトラウマが、引っ掻かれた腕の痛みが、浴びせられた罵倒の数々が。
今でも襲いかかる。
他の人が辛いのは百も承知で自分から聞いて欲しいなんて言わない。
世の中が怖くないといくら教えられようと怖いものは怖い。
治したい、病院代で毎月一万円使うような生活で未来への希望なんてない。
汗だくで目を覚ますとベッドにいた。
いつも通り嫌なことを言われる夢、それに対して声を出して言えるのは同じ夢の中だけ。
辛い過去を忘れたくて、その声に対して反抗できる夢が好きだった。
朝から涙を流す。
拭いてもあふれる涙が海水に袖をつけるかのように無意味に感じて、体育座りでひたすらなく。
ひたすら泣いたあとは鏡の前で笑顔の練習をする。
昔はこんなことしてなかった。
いつからか、この練習のせいでストレスを感じると笑ってしまようになった。
吐いて、薬を飲んで、家から出ないのに捨てていい服を着て。
普通の人間はこんなことしないのかと思うこともできなくなった。
頭で反芻されるのはただ辛い思い出だけ。
もう一度鏡の前で笑ってみる。
涙が溢れて無意味に感じてやめるが、笑顔のまま固まってしまった。
昨日、一昨日よりもマシな日を送れそうだ。
最後の一枚の課題にも集中できず、鬱を治すためと医者に言われた通りに窓を開けて日光を浴びていると、外には見覚えのある銀髪があった。いつだったか見たあの顔が過ぎって少し見つめているとその顔がこちらを向いた。
やはり一昨日見かけたあの女の子だ。
カーテンを閉めてしばらく待ってもう一度開けてみるとその子はいなくなっていた。
日光への嫌悪感で吐いてしまい風呂に三度入って出るとインターホンがなったいつもなら外の空気を浴びるだけで吐き気がしてしまうためでないのだが、今日は何故か出てしまった。
「こ、こんにちは。」
泣き腫らした顔でこちらをみるその顔は、つい先ほど見かけた銀髪の女の子だった。
練習をしていなくて声が出せずにいるとその子は手紙を渡してきた。
手紙には、「少し時間ありますか?」
そう書いてあった。彼女も声が出せないのだろうか、そんなことを思ってなんとか声を捻り出し時間があると伝えた。その後、彼女は、「時間があれば話しませんか」と、消え入りそうな声で告げた。
今日は一段と苦しいから断ろうとしたが、どうにも放っておけず家の前で話すことにした。
玄関を出てすぐ右手側には庭への入り口があり、左側にはガレージとつながる出っ張りがあり、右手側に立った。
「ごめん、僕、人が苦手で。」
「私もそうだから、よかった。」
「うん」
どちらも会話が続かずに言葉数こそ少なかったが、どちらも言葉を出すことが苦手で心地よかった。
「きょ、今日どうしたの?」
「こないだ、見かけた時。」
そこで途切れた言葉は全く異なる言葉で続いた。
「ごめんなさい、こっちきてください。」
立ち位置がダメなのか反対に来てほしいと言われた。
「ごめん僕もこっち無理だから移動してみよう。」
提案した。
挟まれていると息が詰まって過呼吸を起こしてしまう。
彼女もそうなんだろうか、今は考えられずにとにかく少し広い庭で少し休憩する。
「ごめんなさい、私昔閉じ込められてて狭いところに行くと怖くて。」
「僕もだよ、兄弟に閉じ込められたのがトラウマで」。
そうなんですね、小さく聞こえた言葉に頷いて何故来たかもう一度尋ねる。
「同じ症状の人がいたら、相談してみたいなと思って、たまたま見かけたので。」
何度も唾を呑みながら辿々しく答える。
「そうなんだ、どんなのがある?」
「幻聴とか、不安とか、無気力とかかな。」
「僕も同じ感じ。」
人が身近にいることが怖くて言葉に詰まる。
しばらく無言の時間が流れ、日がてっぺんにいき汗が流れる。
二人とも長袖を着ていて、たま汗がこぼれ落ちた。
「そういえば出席大丈夫?」
「うん、まだ大丈夫だって。」
「そっか、あんまり見かけないから気になったんだ。」
暑い、中に入れた方がいいかな?色々考えて結局我慢して中に誘うと決めた。
「家入る?」
「いいの?多分嫌でしょ?」
「でも長袖暑いよね、大丈夫だよ。」
何度もぐるぐる考えているようで、嫌じゃないと示すため手を伸ばす。
そっと握り返された手に頭のてっぺんがキュッと閉まり気持ち悪くなる、それでも他の人よりは随分とマシだった。
わずかでも嫌悪感が顔に出ていたら申し訳ないと、背を向けたまま庭の戸を開けリビングに入る。
リビングには、エアコンとテレビと小さな冷蔵庫しかない。ソファもクッションも、椅子も机もカーペットも。
三千で買った小さな冷蔵庫に入っている飲み物を渡し、なんとかリモコンを触る。
「寒かったら教えて。」
「ありがとう。」
少しづつ打ち解けてきたように感じる。
「なんか、落ち着きます。」
突然言われた。
「そうかな、よかった。」
「うん、手握っても嫌じゃなかった。」
多分触られることに何かあったのかな、酷なことしたんじゃないかと不安になる。
「気にしなくて大丈夫だよ。」
見透かしたかのように的確に伝えられる。
「ならよかった。」
その後は当たり障りない単位や出席の話をして一時間程度で解散する。服は捨てずに済んだ。
少ない課題は全て終わってすることもなく焦りでさらに思考がるつぼにはまる。医者には不安でも焦って何かをすることなく少しづつできることをしろと言われたが何もできることが見当たらずに無理をしてしまって、苦しかった。
その日常が少し開けたように感じる、そういえば人と話すのは怖くてしていなかった。
今日は会話をしたおかげでマシになったのかもしれない。
「また話したいな。」
一人ごちる。
誰に訊かせるでもなくシャワーに流れる小さな声。
のぼせる前に風呂を上がり、掃除してから少しでも勉強になることをしようとタブレットで資格の勉強をする。
なのに将来への希望がないが故に途中で無意味に感じる。
卒業まで二年半、まずは病気を治してやっとスタートラインに立てる。
それでも他の人はとっくにそこを超えているんだ。
また同じ考えばかりになる、やめよう。
少し落ち着こうとテレビをつけるが耳に響いて字幕に切り替える。
何も考えないようにできる限りテレビに集中していると、番組が終わった。
その後に出てきたのは近年増加する若者の薬物乱用についてとあった。
考えたくない、考えないようにしてきた。
飲んだら楽になるのかな
いけないとわかっているがつい部屋に戻ってしまう。
箱を開け、いつもの量。
昼の分の薬を飲むだけ、夜の分もまとめて飲もうかな、どんどんと手に積まれていく薬。
一粒づつ、いけないと思いながら呑みこむ。
眠気と高揚感、焦燥感、痒さが一気に混ざって襲う。
体は気持ち悪いのに気分はいい。ふわふわとする頭で横になる、特に痒いのは左腕。
引っ掻くたびに凸凹に当たるのが楽器みたいだな。
それがおかしくなってジャジャーンと叫びながら大笑いする。
なんとなくスマホを固定して動画を撮ってみて、それを見返してまた大笑いする。
辛い、苦しい、なんでこんな思いしなきゃいけないんだよ。
今度は一転、苦しみに泣き悶える。
笑って泣いて、気がつけば朝になっていた。
目を覚ますと机の上で寝ていた。
「吐きそう。」
部屋から飛び出しトイレに急いだ、当たり前のように何も出ないがただ今は吐き気に身を任せてたい。
少しして落ち着くと、異様に喉が渇いていることに気がついた。
とにかく風呂に入って、水を飲んでもう一度部屋に戻る。
いつものように日の光を浴びているとまたあの子が来た。
時計を見ると昨日と同じ十一時、一階のリビングへ行く。
少し待つとチャイムがなる、今度は玄関から招待して会話をする。
何故かわからないけど家族ですら嫌なことが、この子なら許せる。
もう何年も全てが嫌で、とうとう一人この家に置いて行かれた
「そういえばいえはこの辺なの?」
「うん、この時間帯はお母さんに追い出されるから人通りの少ない道歩いてるの。」
お母さんに追い出される、そこは僕の踏み込むところではないんだと思う。
「そういえば、自己紹介まだだったね。」
「そうだね、僕は彩です。名字で呼ばれるのは苦手だから名前で呼んでください。」
「うん。私もりおんて呼んでください。」
「わかった、よろしくね。」
改めて自己紹介すると彼女は聞いてきた。
「一人暮らし?」
「うん、色々あって今はひとり。」
「じゃあたまにきていい?」
「いつでも大丈夫だよ、昨日話してからなんだか心が軽くなったんだ。」
そういうとパッと顔を挙げる、その目にはわずかに涙が溜まっていた。
「よかった。」
それからいくつもの逢瀬を繰り返し、しばらく。
リビングには机と椅子が増えた頃には会話も弾むようになった。
ほんとうにそのすぐのことだった、彼女が亡くなったのは。
自殺だった。
無関係の僕には遺書や遺言があったとしても知る術はない。
「そうだあの子になろう。」
何で死んだかわからないならわかるまで真似すればいいんだ。
だから僕はねぎまを残した。