2話 球体に入ってみた
俺の両親は幼い頃にすでに他界している。親戚との接点もほとんど無い。それに気楽な独身だ。
もちろん恋人もいない。
となれば自分の事だけを心配すれば良い。他人など構ってはいられない。
俺が心配するのは18歳の妹くらいだが、現在妹はアメリカへ旅行中だ。
連絡が取れなければ、今の俺にはどうにも出来ない。
むしろ軍事大国のアメリカにいれば、ちょっと安心かもしれない。
重要なのは、俺が今どう行動するかだ。
まずはここにいたら、いずれゴブリンが侵入してくる。
逃げなくてはいけない。
俺は大きめのショルダーバックに、必要そうな荷物を詰め込み始めた。
カップ麺にお茶のペットボトル、そして武器になりそうなもの。確かキャンプ道具で薪割り用に買った、携帯用のナタがあったはず。そのナタを腰に吊るした。
しばらくすると、このアパートも騒がしくなってきた。恐らくゴブリンが侵入し始めたんだろう。
下の階から悲鳴が聞こえる。
荷物もそこそこに、俺は部屋から飛び出した。
アパートの下の階は、既にゴブリンが侵入しているらしく、激しい物音や叫び声が聞こえる。
悪いが助ける余裕など、今の俺にはない。
無視して一階に降りるや、通りに出た。
そして周りを見渡して絶句した。
この世のものとは思えない惨状だ。
人の死体というものを初めて見た。
その途端、胃の中の物が一気にあふれ出た。
俺はその場にしゃがみ込み、しばらく動けなくなる。
その時、通りに悲鳴が響く。
顔を向けると、女子高校生がゴブリンに刺されているところだった。
背中から槍で刺され、胸から槍の穂先が飛び出している。
女子高校生と目が合った。
恐怖に埋め尽くされた、絶望的とも言える表情。その瞳から一筋の涙がこぼれ出た。
「た、助け……て……」
俺の中で一瞬の迷いが生じる。
脳内では格好良くゴブリンを蹴散らす自分を思い浮かべるのだが、そんな事が出来るわけないという現実が全て打ち消す。
その時、警察官の死体が目に入る。
拳銃……
気が付いたら走り出していた。
その拳銃の方へ。
俺が走り出したのをゴブリンに気が付かれた。
ゴブリンは女子高校生から槍を引き抜くと、俺の方をギロリと睨みつけるや走り出す。
ヤバい、ヤバい!
恐怖で足がもつれそうになる。
しかし必死に走る。
生命が掛かっているんだ。ここで止まるわけにはいかない。
まさか恐怖映画のシーンの様な状況を、自分が実際に体験するとは思ってもみなかった。
走りながら警察官の死体とゴブリンを交互に見て、俺は考える。
確か警察官の拳銃は五連発リボルバー。だが通常は安全のために、弾丸は四発しか装填されていないと聞いたことがある。
さっき警告射撃で一発撃ったから、残りは三発か。
この緊迫した中、たった三発で走る的に命中させることが出来るのか。
俺のミリオタ知識が頭を巡らす。
そうだ、俺は前にグアム旅行に行った時に、射撃場で銃を撃った経験がある。
その時を思い出せ!
俺は転がる様な体勢で、警官の手から落ちた銃を掴む。
青い空に銃声の音が響く。
同時にゴブリンの短い叫び声。
「ギヤッ」
ぽとりと槍を落とすゴブリン。
そして両手で胸元を押さえ、口をパクパクしながら両膝を突く。
一発で命中だ。
「やった……」
思わず漏れる言葉。
数秒後、ゴブリンは槍ごと忽然と消えた。
手から離したはずの槍も一緒に消えた。
何の痕跡も残さずに消滅したのだ。
「え、何?」
意味が分からない。
何がどうなってる?
そこで再び近くで人の叫び声。
ハッとして我に返る。
そうだ、逃げなくちゃ!
拳銃に付いた安全紐を解除するのに少し手間取ったが、何とか俺は拳銃を腰に差し込み走り出した。
何度も足がもつれそうになる。足が震えているのだ。
少し走ると、直ぐに人集りにぶつかってしまう。
そこら中にゴブリンと逃げ惑う人がいて、中々避けるのに苦労する。
中には必死にゴブリンに抵抗する若者もいるのだが、ゴブリンどもは戦闘に慣れているらしく、1人また1人と倒されて行く。
俺はそれらを横目で見ながら、一目散に逃げた。
持って来たバックが、肩に掛けるタイプのショルダーバッグだったので、走るのに邪魔でしょうがない。
バックパックにすれば良かったと、今更後悔した。
何とか人混みを抜けた。
それより、どこへ行けば良い?
左右を何度も確認しながら、オタオタと考える。
そこでスマホで地図を見て、安全そうな場所を探そうと、ポケットに手を持っていく。しかし、ポケットにはスマホは無い。
焦る気持ちを落ち着かせ、バッグの中を調べながら歩く。
やはり無い。
血の気が引く。
アパートに忘れてきたのか。テーブルの上に置きっぱなしだと思う。多分、落としたんじゃないと思う、そう思いたい。
まさか探しに行けないしな。諦めるしかなさそうだ。
そこで空き地に球体が着陸しているのが見えた。
ゴブリンは既に降り立って、走って行く姿が見える。
――もしやチャンスじゃないだろうか。
その時の俺は、操縦のことは考えてなかったと思う。ただ、それを奪ってやろうとしか考えてなかった。
球体に近付くと、その大きさは思った以上に小さい。二メートルほどの球体だ。
その時は考えが及ばなかったが、どう考えてもこの中からゴブリンが十数体も出て来れる訳が無い。
そんな球体の中へ俺は飛び込んだ。
同時に扉が閉まった。
一瞬で目の前が真っ暗になる。
だが直ぐに明るく照らされた空間に変わる。
そこは部屋ではなく空間だった。
数十メートルはある閉ざされた空間だが、壁が見えない。見えないが、閉ざされた空間なのは何故か分かってしまう。
それよりも球体の大きさよりも広いとは、どういう事だろうか。
異次元空間なのか?
何とも不思議な空間だった。
その空間の中央にはテーブルの様な物があり、いくつもの何かがチカチカ光っている。もしかしたら、これが操作パネルなのかもしれない。
しかしそれが理解出来る訳も無く、俺は扉が開くのを待つだけとなった。
僅かな振動を感じたが、数分でそれが止まる。
そして突然扉が開いた。
俺は残弾二発の拳銃を構える。
そこへ扉から一体のゴブリンが乗り込んで来た。
入るなり、ゴブリンが俺を見て立ち止まった。
驚いている。
ただそのゴブリン、他のゴブリンとはちょっと違う。ちゃんとした服みたいなのを着ていた。
地球人の祈祷師が着る、儀式用の装束みたいな格好だ。
まるでゲームの世界の格好だ。