その恋は無糖コーヒーのように。
翌朝。いつも通りの時間に起きて、
いつも通りに家を出る。
特筆すべき事など何もない普通の登校。
だが、安心できるのはここまでだ。
私は、靴箱の前で深呼吸する。
ゆっくりと開き、慎重に中を覗き込むと、
自分の靴以外何も入っていない状況に安心の息を吐いた。
しかし……束の間の平穏はあっという間に崩れ去る事になる。
大きな声と、衝撃によって。
「おっはよ~『王子様』!」
「ったい……! いきなり何するんだ!」
「いやぁ……辛気臭い顔しちゃってる親友を、
元気付けてあげたい一心が迸っちゃったのさ!」
だとしても加減という物があるだろう。
私の背中はきっと赤くなっているはずだ。
……まぁ心配してくれるのはありがたいけれど。
「で? 今日は入ってたの? いつものやつ」
友人の言葉に苦い感情が漏れた。
私の靴箱には、”たまに”手紙が入って居る事がある。
まぁ……大体は放課後に○○で。みたいな恋文が多いのだが、
……こう、情熱的な物や手紙以外の物が入っていた事もあった。
「……今日は0枚だった。それに、いつも入ってる訳じゃないよ。
”たまに”入ってるんだ。3日に1回くらい……」
「大差ないでしょー? いっそ専用の箱でも作ったら?」
「そんな事したら、余計増えそうだからいい……」
友人の提案を断りながら、さっさと履き替えて移動する。
先ほどから、こちらに向いた視線が痛い。
すると、それに気づいた友人が私に向かって顔をにやけさせた。
「相変わらず、モテモテだねぇ……。
泣き虫舞ちゃんも立派になって……よよよ……」
からかい交じりの言葉に、顔が熱くなる。
何を隠そう彼女こそが……泣き虫だった私を
良い意味でも悪い意味でも変えてくれた友人なのだ。
「っ……昔の事は忘れてよ……!」
だからこそか、彼女の前では口調が昔に戻ってしまう時がある。
直すつもりはないが、少しだけ恥ずかしい。
「でもさ……本当に、モテてるよね。
昔から格好良い顔してたけど、
高校デビューで身だしなみとか、口調とか変えたら
皆すぐに目の色変えちゃってさー。
私プロデュースの王子様が
どこの馬の骨とも分からん奴に取られそうで嫉妬しちゃいそう」
複雑な顔をしている友人を安心させる様に、返事を返す。
「私は取られないし、どこにも行かないよ?
モテたくて変わりたかったんじゃない。弱いままなのが嫌だっただけだ。
だから、感謝している。私を変えてくれてありがとう」
私がこうなれたのは、全部彼女のおかげだ。
素直に感謝すると、友人は溜息を零した。
「……本当に勿体無いなぁ……」
何故か少しだけ不満そうな彼女は、私に問いかけて来る。
「でもいいの? このままじゃそういう手紙も、
怪しいグッズも、増える一方だよ?
いっその事、少しの間だけでも辞めたら?」
辞めてしまう事。それは少し考えた。
口調だけでも変えてしまえば、少しは楽になるかもしれない。
でも……。
「……今更、元の口調には戻れない。
それに、折角君が私の為にしてくれたのに、
私の気持ち一つで潰したくはないんだ」
「はぁ……そういう所は本当に……。
まぁ、今更辞めた所で変わらないかもね。
……惹かれてるのは外見じゃなくて中身でもあるしさ」
どちらにせよ、逃げ場はないわけだ。
なら、やれる所までやり切るのも義理だろう。
新たな決意を胸にした瞬間、聞き捨てならない台詞が聞こえて来た。
「そりゃあファンクラブも出来るわけよねー」
「ファン……? え、そんなのあるのか?」
「あるある。舞様ファンクラブ。因みに私は名誉会長」
彼女が見せる金色のカードは、異質な輝きを見せている。
メッキだとしても、凄い高価そうだし、
『舞王子』だの、舞様だと様々な名称が書いてあった。
「私友人なら、止めるべきじゃないのか?」
たしなめるように言うと、彼女は溜息をついた。
「出来るならね。でも数には勝てないって事。
精々、加入して彼女達が暴走しないように見張るのがやっとよ」
つまり私の為に敢えて参加してくれたのか。
考えが及ばなかった事に少しだけ申し訳なく感じる。
「その……ごめん。私の為にやってくれた事だったんだな」
「気にしない気にしない」
謝罪と軽く受け止めて、友人は私の背中を叩く。
玄関の時と同じくらい痛いが、彼女の優しさが身に染みる。
「さ、今日も一日がんばろー!
なんかあったら連絡してね?
すぐ駆けつけるから!」
「あぁ。ありがとう。
今日もこれから生徒会の仕事?」
「そそ。今日も前半自習でしょ?
だから色々任されちゃってさ~」
うちの校風はかなり緩く、
自習の時間に校舎に出歩けたりする。
外に出る事は流石に禁止されてはいるが。
まぁその代わりテストは厳しいし、
部活や委員等の仕事もそこそこあったりする。
で、友人はそれらを纏める生徒会に所属しているのだ。
あとは……風紀とかも取り締まったりしているので、
私関連の事柄で迷惑をかけてしまっている。
……今度飲み物でも奢ろう。
で、彼女は最近午前の自習がある時に、
生徒会の仕事をしている。
大抵昼まで掛かってそこでご飯を食べているので、
ここしばらくお昼を一緒に食べていないのだ。
因みに、昨日はお昼を抜いた事を知った彼女に説教されたので、
今日はしっかり食べる事にする。
(っと……私も急ぐとしよう)
そんなことを考えながらゆっくりと歩いていたら、
予鈴が鳴ってしまった様だ。
私は急ぎ足で教室へと向かった。
時は流れお昼タイム。
自習の時間は普通に勉強に当てた。
校内を歩く用事も無いし、こうやって集中していれば話しかけられにくいからだ。
勿論、分からない問題とかを聞かれたら教える事もしているが、
私は真面目だと思われている為、勉強中は、それ以外の話題を避けてくれている。
今思い返してみれば、それもファンクラブの統制なのかもしれないな。
……ジュース以外にご飯も奢ろう。
で、話を戻そう。
一般的に昼休みと言われるこの時間で、
今日、私がやることは多くない。
普段は靴箱に入っていた想いに応える時間を設けていたが、
何も入っていないからだ。
それだけで気持ちが浮つく。
友人に言われた通りお昼を食べる事にして、
弁当箱を片手に、あの場所へと向かう事にした。
飲料は向こうで調達するつもりだ。
尾行に注意しながら、入り組んだ道を通り、
あの自販機の場所へと行ってみると、
百千さんの姿を見つけた。
彼女は前髪を分けて、黒色の上着を腕を通さずに羽織っている。
そして……昨日と同じく窓から外を見てお茶を……いや、コーヒーを飲んでいた。
少し黄昏ていて、あのときの少女と同じとは思えない。
(……意外だな。缶コーヒーとか飲むのか)
手に持っているその小さな缶は真っ黒で、
ブラックコーヒーだという事だけはわかる。
私が少しだけ苦手なやつだ。苦いから……。
昨日とかなり雰囲気は違う事に戸惑うが、
彼女だという確信はある。
(まさか、昨日彼女が言っていた事ってこういう事なのか?)
別れ間際に彼女は、
「明日の私は今日の私とは違うかもしれません。
それでも、変わらずにここにいると思うので、
良ければ話しかけてください」
と言っていた。
てっきり季節代わりのイメージチェンジみたいなものかと思っていたが……
雰囲気も、口調も、性格も昨日と全く異なって見えた。
「ふふっ驚いた?」
驚いていると、百千さんの方から声を掛けて来た。
じろじろと見ているなんて失礼だったなと反省して謝罪をする。
「えっと、すまない。
絵になっているから、じろじろと見てしまった」
「ありがとう、というべきかしら?
まぁ気にしなくていいわ。
そういう視線も慣れているし、
貴女に向けられるのも悪くないかも」
何とも大人な対応だ……。
彼女は年下のはずなのに、随分と大人びて見える。
色々と聞きたいことはあるものの、
何か事情があるかもしれないし、触れられたくないものかもしれない。
考えた挙句、何も思いつかなかったので、何か別の話題を切り出そうとしたら、
「とりあえず、飲み物、買ってきたら? それと昼食もとるんでしょ?」
と言われてハッとなる。
「そ、そうだな。飲み物を買ってくるよ。あとここで食べていいだろうか?」
「ふふっ、私に聞く理由はわからないけど、好きにしていいんじゃない?」
彼女の否定とも肯定とも取れるその言い方に、私は艶やかな何かを感じた。
飲料を買った後、私達は机と椅子を廊下に運び、隣通しに陣取る。
すると彼女は、「もう一本買ってくるわ」と、
空になっただろうコーヒー缶を揺らしながら自販機へと行ってしまった。
それを視線で見送って弁当箱を開ける。
自作のサンドイッチに卵焼きが2つ。甘い奴だ。
そして、先ほど買った飲料をその隣において溜息をついた。
(つい、あの光景にあこがれて、無糖のコーヒーを買ってしまった)
私は甘党だ。無糖は飲めなくはないが、苦みが苦手で、出来るなら砂糖とミルクがたっぷり欲しい。
いっそ別のをまた買おうかと悩んでいると、
百千さんが返ってきてしまった。
私の弁当箱を見ると、微笑ましそうに笑みを浮かべる。
「可愛らしいお弁当ね? 手作り?」
「分かるか……? 実はそうなんだ。料理が好きで……」
昔から、料理は好きだった。
両親から教えてもらったレシピに挑戦しては、
試作品を友人に食べて貰ったりしていた。
「意外……随分家庭的なのね?」
「まぁ、味は普通だよ。レシピ通りに作ってるだけだ」
「一般的には多分上手い部類だと思うわよ?
レシピ通りに作れるのは一種の才能ね」
「そういうものなのか……?」
「そういうものよ。……でも、それにブラックは合わないんじゃない?」
百千さんは、私の机に置いてある飲料を見て指さす。
否定したい所だが、実際私の味覚にとってその通りなので曖昧な返事しかできなかった。
「えっと……大丈夫だと思う……多分」
「ふふっ、無理しなくていいのに」
見透かされた様で、かなり恥ずかしい。
すると彼女は、コツンと青い缶を私の目の前に置く。
「はい、これ。初心者でも飲みやすいやつ。
その黒いのと交換しない?」
その提案に私は一も二も無く頷くと、
彼女はまた一つ微笑んだ。
昼食を済ませて軽く掃除を終わらせると、
私達は、缶コーヒー片手に窓を開いて手すりに凭れる。
涼しい風が心地良い。
彼女は先ほど交換した黒い缶コーヒーを傾けながら、
私に話しかけて来た。
「それにしても……まさか本当に来るなんてね。
そんなに気に入った?」
「迷惑だっただろうか……?」
彼女はその言葉に、大丈夫と言いかけて、
直ぐに悪戯な笑みを浮かべた。
「そうね……呼び捨てにしてくれれば、
迷惑って思わないかも……?」
予想外な応えに、目が点になる。
でも、結構二人で話しているのに、
いつまでもさん付けでは、他人行儀かもしれない。
「分かった。えっと……では、百千。でいいかな?
私の事も呼び捨てで構わない」
「まぁ、今はそれで許してあげる。
こちらの呼び名については……先輩を呼び捨てにするのは少し後ろめたいわね。
氷室、より氷室さん。の方がしっくり来るでしょ?
また今度で良いかしら?」
向こうの提案だけ通されてしまったが、
悪くないなと思ってしまった。
これが翻弄される気分なのだろうか。
それから、また少しだけ仲良くなれた私達は、
体育がどうとか、テストがどうとか、他愛のない会話をした。
互いの事情には触れる事なく、ただのんびりとした時間。
あっという間に時は経ち、予鈴の音が聞こえる。
あぁ。昼休憩が終わってしまった。
少しだけ、名残惜しく感じてしまうのは、
この空間を特別だと思っているからだろうか。
そんな寂しさを感じ取ったのか、
百千はこちらを見て、ウインクした。
「良かったら、また来て。
貴女とする会話は、やっぱり楽しいから」
私に向けられた彼女の言葉は実に妖艶で、
やはり年下には思えない貫禄を感じた。
その恋は無糖のコーヒーの様に。
芳醇な香りに翻弄されながら、
黒い苦さが癖になる、大人な味だった。