婚約破棄する婚約者を探すはずだったのに
少し長めですが、よろしくお願いします。
私は柔らかいソファに座って、体を固くした。
目の前では、黒ずくめの男が紙にペンを走らせている。悩みながら書いているせいだろうか。随分と時間がかかっている気がする。
まだかしら?
私が屋敷を抜け出した事を隠せるのも、後僅か。侍女のメアリが頑張ってくれても一時がせいぜいだろう。
ここから屋敷に戻るのを考えれば、もうギリギリだ。
「あの、閣下、もう時間が。」
「ああ、気にするな。俺が馬で送ってやる。」
「はぁ?」
何を言っているんだろう。隠していたいからこそ時間が無いと言っているのに。
「考えてもみろ。もう俺たちは婚約者だろう?一緒にいたからと言って、誰がそれに文句を言うと言うのだ?」
ええ、あなたには、誰も何も言いませんとも。あなたにはね。
私の名前はジュリア・ハイドランド。ハイドランド伯爵の妾腹の娘だ。
幼い頃から、下働き同然に扱われ、最近は、父と義兄に女として狙われる日々。
それを必死で交わし、いつかこの家を出ようと、お金を貯めて来た。もちろんハイドランド家が私にお金をくれるわけがない。母が生きている頃から仕えてくれたメアリに頼んで、刺繍や小物を街で売って貰っている。もちろん材料も自前だ。
初めて作った物は、母の形見のドレス2枚を大切に解いて使った。刺繍を糸が切れないようにそっとほどき、真四角に切った布に刺繍を施してハンカチにした。
これが売れて、時々布や糸を買い足しながら、少しずつ貯めたお金だ。
けれど、それでは間に合わなくなってしまった。
父に珍しく執務室に呼ばれた。最近は仮病を使い、二人にはならないようにしていたので、いつものように病気と言おうとしたが、その日は執事も義兄も同席すると言う。流石に逃げられず部屋に行けば、珍しく父の部屋から客が帰って行くところだった。客は私の顔を見ると、舌なめずりせんばかりの顔になり、嫌らしく口角を上げた。
誰だろうとは思ったが、それ以上に気持ち悪さで、体が震えた。
「ジュリア様、また一週間後に参ります。」
「……」
男は愉快そうに軽く頭を下げると、去っていった。
「旦那様、お嬢様をお連れしました。」
「入れ。」
執事がドアを開けるとこちらを向いたソファに父と義兄が座り、二人とも顔色を無くしている。
「座りなさい。ジュリア。」
言われるままにソファに座る。一緒に来た執事はドアの横の壁際に下がった。どうやらお茶を飲む雰囲気ではなさそうだ。
「お前の婚約が決まった。正式には一週間後、あちらから迎えが来る。迎えと共に家を出るので、荷物を纏めておくように。」
婚約?誰と?それも婚姻前に家を出る?
一週間?まさか……
「お、お相手は、どなたですか?」
「今、部屋の前で会っただろう、ゲシュタルト、商人だ。」
私は娘とはいえ、妾の子、どうせ碌な所には行けないと思った。でもあの男は嫌だ!
「嫌です。」
「お前の意見を聞くつもりでは無い。これは決定だ。」
「ジュピター、部屋に戻して、整理をさせろ。」
「はい。」
「嫌です!!嫌です!!!」
私は執事のジュピターに腕を取られて、部屋から連れ出された。そのまま自分の部屋まで連れて行かれると、椅子に座らされ、白湯を出される。
「落ち着いて話をお聞きください。」
いつもは無関心なジュピターが、とても思い詰めた顔をしている。
「時間がありません。このままではあの高利貸しのゲシュタルトの妾にされてしまいます。」
「嫌!」
ジュピターが言うには、父は投資の失敗、義兄は博打の借金があり、彼からかなりの額を借りているらしい。それがとうとう返済不能になった。ゲシュタルトは、私を妾に差し出せば、対価として、借金の3分の2を棒引きにすると言ったらしい。
二人はまだ手が出せていなかった事を惜しみながらも、その話を喜んで受け入れた。
馬鹿でしょう。私を売っても借金は残るのに。本当に馬鹿。
「そこで、お嬢様がそこから逃げ出す為には、あの男が来る前に、他の方と婚約を纏めてしまう必要があります。幸いな事に、昨日お嬢様は18歳になられました。これで、花嫁側の親族の承諾なくても婚約を結ぶ事ができます。」
「あ、誕生日。」
「どなたか、お相手の方はいらっしゃいませんか?」
私はジュピターの瞳を見つめながら首を横に振った。いるはずが無い。私はドレス代が勿体ない、他所の男に色目を使うなと言われ、社交には一度も参加した事が無かった。平民に知り合いはいるが、その場合には私の親の承諾がいる。
結婚には、かなり鷹揚なこの国でも、平民と貴族の間は遠い。
「そう、ですか……」
ジュピターが項垂れると、後ろからメアリが恐る恐る声をかけてきた。
「あ、あの、お嬢様、以前お会いしたあの方に、お願いしてみてはいかがでしょうか。」
そう言われて、思い出した。以前親戚が来た時に、突然キノコ料理が食べたいと言われ、私は裏山に登った。
領地は国境沿いにあり、裏山を越えると他領に出る。その為、その境界には砦が築かれ、鉄線が連なっている。
私が行ったのはその鉄線よりも手前の緑濃い所だ。山の中でもここに生えるチリダケは、香りも食感も良い。前の日が雨だったので、きっと沢山育っているだろう。
そこで、私は彼に出会った。木の根元に蹲り、脂汗を流しながら呻く彼は全身黒ずくめで、その腕から流れる血が、衣装を更に黒く染めていた。
私は彼に近寄ると、その傷口に鼻を近づける。人より鼻の良い私はそこに独特の匂いを嗅ぎ取った。
「寄せ!近寄るな!」
男は私には触れないように声で追いやろうとする。それは正しい。この毒は血と混じる事で毒となる。傷を押さえている彼の手は、毒に塗れているようなものだ。
私は立ち上がって距離を取ると、周りを見まわした。確か、このあたりで、以前見かけた事がある。
記憶を頼りに探せば、一株だけ見つける事ができた。人の手の平ほどの大きな葉を持つ草。その葉を摘んでよく揉み、柔らかくすると、表面にうっすらと薄黄色の液体が滲んでくる。それを何枚か用意すると私は彼に元に戻った。
先ほどよりも顔色が悪い。私は持って来た水筒に揉んだ葉を数枚入れてよく振った。その水で血を洗い流し、傷口に葉を2枚あてて、破ったスカートの裾を包帯がわりに傷口を縛った。水筒の水を彼にも少し飲ませる。
「止めろ、お前まで毒にやられる。」
弱々しく言うが、私は気にしない。この程度の毒は私には効かないから。小さい頃から、正妻の嫌がらせで、毒草や毒キノコを食べさせられて来た。あのババアはそう言うものに詳しくて、死なない程度に使い、苦しむのを見るのを楽しんでいた。
母の死後、私は人目を避けるように毒を口にして耐性をつけて来た。
毒の種類やその使用量は、ババアの部屋のノートを少しずつ写して覚えた。去年、あのババアが死ぬまで続いたお楽しみのせいで、私は薬や毒に詳しくなったが、ババアが死んだら自分のものにしようと思っていたノートは、ババアが燃やしてしまった。
曰く、自分が死ぬ前には私を殺すつもりだった、そうだ。ご愁傷様。
暫く待てば、彼の顔色も回復してきた。
よく見れば綺麗な顔の人。通った鼻筋も、切れ長の目も。まるで彫刻家が掘り出したもののように整っている。男性でもこれ程ならば、美人というのが正しいのかもしれない。
不意に、後ろの木の陰から抜き身の剣を持つ男が出てきた。その剣が光を弾いて鈍く光る。
まだ意識が戻らない彼を背に、私は両手を広げて、彼を守った。
怖くて目が開けられなくて、ギュッと目を瞑る。
痛いだろうか。いっそ一思いにしてくれないかな。
その私の体を後ろからそっと彼が抱きしめて、耳元で小さく囁いた。
「大丈夫。味方だ。」
少し掠れた低音の声に、思わず体が震えた。
「閣下、お探し致しました。」
「彼女に救われた。」
彼の言葉に、彼の部下の人は、彼の腕の傷に目を向ける。説明をしないと、と、気がついた。
「あ、あの、解毒は済んでいますので、もう血を触っても大丈夫です。」
「ほぉ。」
彼がまだ私を抱きしめたまま喋るので、耳がゾクゾクする。
「か、閣下、手を離して頂けませんか?」
耳元でクックッと笑いながら、私の拘束をといてくれた。きっと私の顔は真っ赤だろう。部下の人が可哀想な顔をして私を見ている。
慌てて立ち上がると、彼から距離をとって離れた。
それなのに、思った以上に背が高い彼は、一歩で距離を詰めてくる。
「そなた、名は?」
「ジュリア・ハイドランドです。」
すっと長い指に顎をつかまれた。目を閉じていた時には気づかなかったが、黒ではなくとても濃い紫の瞳に、吸い込まれそうだ。
彼は、すっと腰を落として私の前に跪き、私の右手を掬うように持ち上げた。
「ジュリア嬢に、最上の感謝を。あなたに命を救われた。私は、シュバリエ・ダンジュール。あなたにお礼がしたい。」
シュバリエ・ダンジュール様、社交界に縁のない私でも、彼の名前は知っている。王弟にしてこの国第一の公爵。そして、戦争の勇者。紫紺の悪魔。
15歳で戦場に出て、数々の武勲を立てたが、その圧倒的な強さで、敵国からは悪魔と呼ばれたと聞くが、苛烈な性格ゆえとの話も聞く。
とんでもない人と知り合いになってしまった。
私の気持ちを一言で表すならば、そうだ。
「い、いえ、お礼を頂くほどでは……。で、では、部下の方も来られたので、私は失礼致します。」
そう言うと、慌ててその場を立ち去ろうとした。その手を彼に掴まれる。
「では、これを。私に用ができたら、連絡をくれ。すぐに会いに来る。」
そう言って彼が渡したのは、通信符。これに用件を書いて、畳み、息を吹きかけると、通信符が示す相手に届くというとても高価な魔道具だ。この紙1枚で、平民ならば、2ヶ月は暮らせると聞く。
私は見るのも使うのも、初めてだ。それを10枚以上束にして渡されては、悲鳴しかでない。
私は震える手で紙を受け取り、頭を下げて、キノコの入ったカゴを持って小走りに家に向かった。
思ったとおり、遅いと散々叱られたが、それでも少し夢見心地で、その日は何を言われても気にならなかった。
彼の事は、メアリにだけこっそり話をした。まるで物語のようで、少しだけ誰かと話したかったから。
メアリが言ったのは、彼の事だ。
「どなたの事ですか?」
ジュピターに聞かれた私は、私は以前会った方に通信符を頂き、用件があれば連絡をと言われている事を伝えた。相手の名前はさすがに伏せたが、通信符を与える事のできる人は限られる。それなりの実力者とジュピターは思ったようだ。
「通信符ですか。では、至急、その方に連絡を取りましょう。仮の婚約者を用意して欲しいと頼まれてはいかがでしょうか?」
「仮の婚約者。」
「そうです。通信符を用意できる方ならば、かなり高い身分の方、仮婚約に応じてくれるような人もご存知かもしれません。」
「そうですね。仮婚約。婚姻ではないので、受けてくれる方もあるかもしれません。」
「そうです。その方には、真摯に謝罪と感謝をする事にして、今はあの男から逃げる事が一番です。」
「はい。」
私は、通信符に一週間以内に、仮婚約者が必要な事。自分の周りには知人が少ない為、紹介をお願いしたい事を紙に書き込んで、名前を最後にしたため、折り畳んで息を吹きかけた。
通信符は、少しホワリと光ったかと思うと、私の上から消えてしまった。後は返事を待つだけ。
けれど、待つまでなく、私の足元に返事が届いた。
『了解した。明日、時間が取れるようならば、中央公園にて落ち合おう。時間は、午後3時。』
「明日、会おうと言って下さいました。」
「お嬢様、良かったですね。どこで何時にお会いになりますか?」
私はメアリに時間と場所を告げ、2人に協力してもらって、屋敷を抜け出す算段をつけた。
そして、あの日彼を迎えに来た部下の人が公園に私を迎えに来て、案内された建物の中で、私は彼と対面したのだった。
「お手数をお掛けしてすみません。」
「いや、問題ない。」
彼は機嫌よく微笑んで、私にソファを勧めてくれた。
「それで、私と契約して下さるのは、どなたでしょうか?」
「私だ。」
「はい?」
「だから、私だと言っている。」
私は、思わず彼の後ろにたつ部下の人に目を向けた。彼は困ったように苦笑するだけ。
いや、王弟殿下?私の婚約者が?
「あ、あの、閣下と私では、あまりに不釣り合いかと。」
「私では不足か?」
「い、いえ、その、逆です。」
「ならば問題ない。」
問題ありまくりでしょ?
「わ、私は、妾の子です。」
「大丈夫だ。私も側室の子。つまり、妾の子だな。お互い様と言うことだ。」
違うから、全然違うから。
「私では、駄目だと言うならば、この話は無かったことにするしかないな。日もないようだから、仕方がないだろう。」
私は、ギュッとスカートを掴んだ。あの男は、嫌だ。絶対に嫌。
それなら、閣下もいいと言って下さっているのだし、話を進めても良いかもしれない。
と、後で思えば、有り得ない話を進める気になってしまった。
「その、1年後には婚約を解消して頂くと言うことで良いでしょうか?」
「ふむ。構わないぞ。」
私は胸を撫で下ろした。一年の間に家から逃げ出す事も可能だろう。それだけの蓄えは少ないかもしれないができた。
姿を変えて、市井に生きる事もできるだろう。小さな店が持てると嬉しい。
もしかしたら、一年経たずにあの父と義兄は、没落するかもしれない。そうすれば私を探す所では無いはずだ。
「ありがとうございます。何卒よろしくお願いします。」
「よし、ではこの場で婚約の誓約を済ませよう。」
「え?」
「予め、用意してきたが、今の一文を追加するので、少し待ってくれ。」
そう言って、ペンを持つ閣下。
そして、彼は、ペンを置くと、後ろに立つ部下の方にその紙を渡して目を通させた。
武官だと思ったが、文官だったのだろうか。
彼が頷いて紙を閣下に返すと、閣下が私の前に紙を置き、追加した一文を指さした。
「これで良いな?」
私はその文章を読んで頷いた。他の部分は読むまでない。定型の文章なのだから。
閣下が指さす場所にサインをして、閣下に書類を戻す。それに閣下が署名をし、部下の方が最後に署名した。
ん?立会人なのかしら?と、チラリと不思議に思った。婚約ならば立会人は不要なはず。やはり身分の高い方は違うのだわ。と、納得した。
「さて、屋敷に送っていこう。ケイン、後は頼んだぞ。」
「はい。閣下。」
やはり、彼の腰には剣がある。武官だと思うのだけれど、違うのかしら?
私は、閣下の馬の前に乗せて頂き、屋敷に向かった。一年間とは言え、この方の婚約者になると思うと、ドキドキする。私なんかが、本当に良かったのだろうか。
「ジュリア、私の意思だ。お前が気にする必要は無い。」
「はい。」
「屋敷に戻ったら、このまま屋敷を離れた方が良いな。」
「あ、そう、ですね。」
「親しい使用人にいるのか?」
「はい。今回の件でも相談に乗ってくれた人が二人います。」
「彼らと一緒に屋敷を出るか?」
「そうできたら、良いのですが、私の稼ぎでは、養ってはあげられません。」
「ん?稼ぎ?」
「刺繍や小物を時々作って売っていました。その店でこれからも商品を売らせて貰いながら、他にも仕事を見つけるつもりです。」
そんな話をしているうちに、屋敷に着いてしまった。閣下の馬はとても走るのが速いようだ。
「では、一緒に屋敷に入ろう。我が妻よ。」
聞き間違いだろうか?妻?誰が?私?
「閣下、まだ婚約者で……」
「いや、正式に婚姻誓約書にお互いに署名したであろう?」
「え?婚姻?婚約でなく、婚姻?」
「そうだ。」
そう言うと、閣下は、ニヤリと笑った。私は、訳が分からなくなって、その笑顔を口をパクパクさせて見つめるだけ。
「あの男は、私の部下の武官だが、司祭の資格も持っていてな。司祭が立ち会った正式な誓約だ。」
あ、だから、彼の署名。いや、変だと思ったのに考えなかった私のせい。
「さあ、妻の家族に挨拶をせねばな。」
嘘。
「で、でも、閣下、一年後の婚約破棄は?」
「婚姻したのだから、もう婚約破棄は意味が無いだろう?」
クスクスととても楽しげに閣下が笑う。じゃあ、あの追加した一文は?もしかして、私は閣下に騙されたの?
「閣下は、硬いな。名前で呼ぼう。好きな呼び方でも構わないぞ。私はジュリアと呼ぼうか、それともリアが良いか?」
頭が真っ白な私は、何も彼に返せない。
婚姻?私が閣下と?名前呼び?誰が?私が?
彼に横抱きにされて運ばれながら、私は玄関を潜るまでそれすら気がついていなかった。
「お嬢様、どこかお怪我を?」
そのメアリの声で我にかえり、抱かれている事に気づいて、真っ赤になった。
「あ、あの、お、下ろして、ください。」
「リアは軽いから、問題ないのだが?」
「わ、私が、問題、あり、ます。」
笑いながら私を下ろしてくれたところで、2階から父と義兄が階段を駆け下りてきた。
閣下の服装は黒一色で、ラフではあるが、仕立ての良さは見ればわかる。
けれど、残念な父と義兄には分からなかったようだ。
「ジュリア、どこの馬の骨だ!嫁入り前の娘がはしたない!」
唾が飛びそうな勢いで父がまくし立てる。
「失礼なことを言わないで下さい。」
「私とリアは先程、婚姻したのですよ。」
閣下は、穏やかな微笑みを浮かべた。こんな笑い方をすると、随分感じが変わる。
「お前には、婚約者がいる。そんな真似は許さんぞ!」
「まだ婚約していませんでした。」
「うるさい!後数日で婚約するんだ。同じ事だろう!」
「私と彼女は既に正式に婚姻していますよ。もう婚約はできませんね。」
父と義兄は、怒りで顔を真っ赤にしていて、聞くべきことを忘れている。閣下もわざとそうしているようだ。
「その男と婚姻するなら、お前はもうこの家の人間では無い。良いのか?」
「ええ、良いですとも。私の妻ですから、この家とは縁を切っても構いませんよ。」
煽ってる。これ、絶対に煽ってる。
「分かった。縁を切る。2度とこの家の玄関を潜るな!」
「では、お2人とも、さようなら。あなたがたもリアに近づかないで下さいね。」
「煩い!」
きっと、彼らは私達の後をつけて、人を雇って私を攫えばいいと思っているのだろう。その方が高利貸しに嫁に出すよりも外聞が良い。
「さて、行こうか。」
閣下は、私の荷物を受け取る時に、私が気にしていた2人に気がついたようで、2人についてくるように話をしていた。
屋敷の前には大きな馬車が停まっていて、私の小さな荷物を載せるのが恥ずかしい程だ。
メアリとジュピターも馬車に恐る恐る足を踏み入れ、2人でくっつくように広い場所の中で身を寄せあっている。
考えてみれば、彼らに閣下の名前を伝えていなかった。きっと閣下の屋敷に着いたら驚くだろうな。うん。私もきっと凄く驚く。絶対。
そして、馬車がついてみれば、そこは巨大な城だった。屋敷ではなく、城。そこにズラリと100人ほどの使用人が並んで頭を下げている。
パリッとした仕立ての服を着た人は、執事だろうか?
「旦那様、奥様、お帰りなさいませ。」
「「「お帰りなさいませ。」」」
一斉に揃って挨拶され、私は声も出せずに頭を下げた。どうしよう。誰か助けてー!
私が慣れない城にあたふたしている時、城の外では、父と義兄が私を攫おうとならず者を雇って、追って来ていたそうだ。
もちろん城を見て怖気付いて逃げようとした所を、閣下の騎士達に捕えられて、牢屋に放り込まれ、一週間経たずに、ハイドランド侯爵家は取り潰しになった。
高利貸しのゲシュタルトは、人身売買などにも関わっていた事が発覚して、憲兵に捕えられ、鉱山送りになった。主犯では無かったための温情だと言われているが、彼の送られた鉱山は、過酷な環境で有名だ。処刑された方がマシだったかもしれない。
「シュー、あなた、私のどこが気に入ったの?」
今日も私は彼の膝の上に乗せられて、彼が差し出すケーキを食べている。いわゆるアーンだ。
紫紺の悪魔と言う別名を持つ彼は、驚くほどに私に甘い。
「どこが、か?そうだな、全てだが、木の強い小動物のような所とか、毒や薬に詳しい賢さだとか、あと、顔も好みだな。」
美しすぎる男に言われてもなぁ。
少し不貞腐れる私に困ったような笑顔を浮かべ、彼は私の頬に口付ける。あまりに自然な動作に狂ったように跳ねる心臓が苦しい。
「リアは鏡を見た方が良い。知っているか?社交界では、幻の妖精姫と呼ばれているそうだぞ。」
うん、噂で聞いた私の呼び名。ありえないでしょ?私なんかが妖精姫だなんて。
確かに鏡は嫌いで、私の部屋には鏡を置かないでもらっている。最後に鏡を見たのは、13ぐらいだったか。骨ばって、骸骨みたいな顔の中で、目だけが大きくて、気持ち悪かった。
「リア、結婚式をしよう。」
「え?」
この城に来て、半年。私はここから出た事がない。毎日彼に甘やかされ、美味しいものを沢山食べながら、メアリやジュピターと笑って過ごす。侍女のアンジェリカは肌や髪に手入れが上手で、彼女考案にハーブを焚き染めた蒸し風呂は、私のお気に入りの一つだ。最初は一人で入らせられていたその蒸し風呂に、今ではアンジェリカや他の侍女も引き摺り込んで、一緒に入っている。そこでのお喋りがとても楽しいから。
この半年で、体にもふっくらと肉がつき、カサカサに乾いた肌もしっとり吸い付くような肌に変わった。髪もキシキシとしていたのに、今では絹糸のようで、指で掬えばサラサラと滑るように流れ落ちる。お手入れって凄いと思う。
「俺と結婚して半年、まだ陛下にも挨拶をしてなかったからな。先日もリアに会わせろと嫌味を言われた。面倒だから、結婚式で披露するのが手っ取り早い。」
そうだわ。彼ほどの貴族が、結婚したと言うのに、陛下に挨拶無しなんて、許されるはずが無いわ。大丈夫なのかしら。私をご覧になったら、離婚しろと言われるのでは?ああ、きっとそう。こんな分不相応な生活は夢なのだから、きっと覚めてしまうのよね。
「何を考えている?」
「良いのでしょうか。」
「何が?」
「私があなたの妻である事。」
「……怖いもの知らずのくせに、自己評価が低いな。」
「怖いもの知らずだなんて!」
「俺に躊躇いもなく近づくのは、リアだけだ。手負の俺は獣と同じぐらい危険だと、人に言われた事がある。リアはあの時怖いと思わなかったのか?」
怖い?ううん、綺麗だった。一目で惹かれた。あの時、彼は死にかけていたはずなのに、それでも命を諦めない輝きに満ちていた。私が彼に手を貸したのは、その輝きを消したくなかったから。
「思わなかったわ。シューはすごく綺麗だった。」
「綺麗か。おまえは本当に面白い。」
いきなり抱きしめられて、私はキャッと小さく悲鳴を上げた。
それから一ヶ月後、たった一ヶ月後に、私達は結婚式を挙げた。
それも盛大に、陛下までお招きする、すごく盛大な結婚式を。
どうしてそんな短期間で準備できたのか不思議だ。彼の側近達が、揃って目の下にクマを作り、頬が痩けてしまっているのを見れば、彼らの苦労が偲ばれると言うものだろう。
純白のドレスを身につけた私に、ジュピターが大きな鏡を運び込んできた。
「奥様、とてもお美しいですよ。どうか、一度で良いので、鏡をご覧になりませんか?花嫁衣装を身につけるのはたった一度。今、ご覧にならなければ、見損なってしまいますよ。」
そう言われて、少しだけ心が動いた。
見苦しくはないだろうか。他の人を不愉快にはしないだろうか。そに為には、一度確認した方が良いのでは?
いや、正直になろう。私は、この美しいドレスを身につけた自分が見てみたいのだ。今は骸骨のように痩せてはいない。少しは人並みの顔になっているだろうか。シューの目に、私はどんな風に見えるのだろう?
恐る恐る鏡に近づく。鏡の左に立ち、そっと、体を右にずらせば、白いドレスが鏡に映った。
目を閉じて、鏡の正面に移動する。そして、そっと目を開けた。
そこには、幼い頃、私を慈しんでくれた、亡き母に少し似た顔が、立っていた。これが私?
「奥様、いかがですか?ご主人様は本当に奥様によく似合うドレスを選ばれますよね。」
「……ありがとう。とても、素敵、です。私では、ない、みたい。」
これが私?この幸せそうに笑っている女性が?
「さあ、お待ちですよ。参りましょう。」
祭壇の前に、誰よりも美しい人が、私に向かって、手を差し出している。
今日の彼は、いつもとは違って、真っ白な装いで、艶やかな黒髪が映えている。
「綺麗だな、リア。鏡は見たか?」
「はい。」
「どうだった?妖精のように綺麗だっただろう?」
「でも、シューの方が綺麗。あなたは誰よりも綺麗だもの。」
「フッ。この顔が好きか?」
「大好き。」
「それは良かった。俺たちは、両想いだな。」
「はい。」
悪魔と噂される彼だけれど、こんなに優しい人は他に知らない。侍女達にも、時々小動物のように愛られるけれど、私に不満は微塵もない。
「あの日、あなたに会えて良かった。」
******
あの日、隣国に侵入した俺と部下は、両国を裏で支配する組織の壊滅に動いていた。
5年にわたる調査の結果、優秀な部下を何人も失ったが、彼らの努力と献身のおかげで、組織の全容を掴む事ができた。
運び屋にされていたのは、何も知らず、博打の借金まみれになった下級貴族達。彼らは何を運んでいるのかも知らなかっただろう。彼らを借金まみれにした高利貸しも、組織のことを知らない、ただの駒。
こいつらの処分は、後で良い。
「あんたには死んで貰わないとな。」
「悪魔め、どうして……」
彼らが扱っていたものこそ、悪魔の産物。人の意志を奪い、埋め込まれた人間を中から喰らって、別の人間にする種。
これでどれ程の人間が狂わされたか。
組織の長は、王位継承権を返上した隣国の王子。研究者として、穏やかな性格が、周りから好人物として好まれていた男だ。だが、彼は、笑顔の裏で、人を人とも思わない、人体実験をしていた。
「あんたの実験室と組織は、今日滅ぶ。だったら、あんたも死ななきゃ合わないだろうさ。」
「ハッ。私は死なないよ。」
奴に斬りかかるが、思いの外手強い。この部屋に立ち込める香が、俺の動きを鈍くしている。
それでも、俺に敵うはずもなく、奴は俺の剣に倒れた。だが、最後にあいつの投げた瓶が、俺の手を掠め、小さな傷をつけた。それを見た奴は、今から死ぬと言うのに、嬉しそうに笑った。
「お前も終わりだ。その毒は誰にも消せん。お前の血が猛毒になるから触ったものは、全員……」
そう言うと、奴は事切れた。
くそぉ、しくじった。小さな傷が、徐々に広がっている。血が猛毒だと?
俺はシーツを裂いて、傷口に巻きつけ、血が溢れないようにして、その場から離れた。
痛みで、傷が悪化しているのを感じる。走って、国境の森に向かった。この国で死ぬ事はできない。ただ必死だった。
やっと国境を越えた所で、俺は力尽きた。ここで死ぬのかと、木の下に蹲み込んでいたら、一人に女が近づいて来て、あろう事か、傷に顔を寄せた。
「寄せ!近寄るな!」
女が離れてくれたので、俺はホォと息を吐いた。良かった。血には触らないでくれたようだ。
随分と窶れてはいたが、綺麗な娘だった。最後に良いものを見たな。
そう、思ったのに、女は戻って来て、この正体不明の毒の治療をしてくれた。
部下のケビンが探しに来て、彼女は去って行こうとした。まだ何の礼もしていないのに。
彼女との繋がりを失いたくなくて、俺はケビンに渡している通信符を奪うと、彼女にそれを渡した。
屋敷に戻った後、毒の分析と彼女の調査をさせていて、分かった事があった。
あの毒は、ある一族にだけ伝えられる秘薬。けれど、その一族は既に全員亡くなっていた。最後の一人が、俺が処分しようとしていた貴族の妻だったが、既に死亡していた。そして、彼女は、その女の義理の娘。随分と虐められていたようだ。
その彼女から、突然連絡が来た。婚約者を至急手配したいので、相談したいそうだ。
俺はにやける顔を抑えられなかった。渡りに船とはこの事か。
「ケビン、婚姻誓約書を用意しろ。」
「閣下、けれど、彼女が探しているのは婚約破棄する予定の婚約者ではありませんか?」
「それが何だ?」
「しかし……」
「俺に、逆らうのか?」
「い、いえ。」
「お前も、司祭として、付き合えよ。」
「ええーっ!」
せっかくあちらから来てくれるのだ。逃してはやらん。
そして、俺は彼女を手に入れた。
彼女の母親は、とある王族が囲っていた秘宝。逃げ出し、人に紛れて暮らしていたのに、あんな下衆な貴族に捕まり、命を散らしてしまった。人と精霊の子。今ではその血を受け継ぐのは彼女だけだ。
愛された事の無いリアは、俺の腕の中で、愛らしく花開く。俺を恐れもせず、笑顔を向ける彼女が愛しい。
妖精のように儚げで、輝くように美しい彼女は、見るもの全てを魅了する。
だが、誰がこの俺から、彼女を奪おうと思えるのだ?
ああ、俺も彼女に魅了された一人なのだろう。愛しいリア。生涯君を愛するのは俺だけだよ。