使い込んだ時計
「この時計も、いつまでもよく動くわ……もう私たちより長く生きて来て、これからも生き続けそうね」
母親が居間に集まった夫と息子のいる前で、相当に古い、黒光りするまでになって使い込まれた柱時計の文字盤の扉を開けて、もうひとつの、正確無比な現代的置き時計の時刻を見ながら柱時計の方のわずかなズレを修正した。今日は少し遅れていたようだった。
「もう、インテアリアとしての価値しかないね。ほかの時計を見て時間を合わせる必要がある時計なんて」
大学生になる息子ケイタは少し笑いながら母親に言った。
「いやあ。この時計は正確なんだよ。この時計はこの家をおじいさんが建てた時に記念に購入してその柱に付けたものだそうだからもう何十年にもなるけれど、俺が知る限りはむかしからずっと、今と同じくらいの進み方と遅れ方だったよ。それが何十年もひどくなることも無く、壊れることも無く今まで動いているんだから、たいしたもんだ」
父親が、見ていたテレビから顔を息子に向けて感心そうに言った。
「そっか。この時計は、これなりに最大限に正しく動き続けているってことか」
ケイタも感心したようだった。
「今日は、妙な気分だ。ひどく長いこと眠ってから目を覚ました後のような、おかしな不快感がある」
ある日、朝に目を覚ましたケイタはベッドの上で独り言を言った。
「確か昨日、マサミとデートしたよな。けれど、どんなデートだったのかほとんど思い出せない。遊園地に行ったという記憶はあるけれど……さぞ楽しかったはずなのだけどなぁ」
ケイタはベッドの上で腕組みをして考え込んだ。
ケイタが起きて居間に行くと、柱時計が『ボーン』と数回鳴った。彼はその音を聞きながらテレビの横のサイドボードの上にある置き時計を見た。
「お。時間がピッタリじゃ無いか……さては」
彼は柱時計が正確に時刻を知らせたことを訝しそうに見ていた。このあいだ、父親がこの古い柱時計について、この時計はこれなりに正確に動いているんだと言っていたのを思い出していた。
ケイタは少年時代に、この時計について不思議なものを見たことがあった。夜中に目が覚めてのどの渇きを感じてキッチンへ行き、コップにジュースを入れ、何の気なしに居間の方へ入って小さな照明を付けて柱時計を見た時、時計の示す時刻を見て「おや?」と思ったのだ。そして別の置き時計も見た。置き時計は深夜の2時だったが柱時計はすでに午前6時を指していた。だから「ずいぶん進んでいるな」と寝ぼけた頭でそう思いながらジュースを飲んだ。そして柱時計の狂いはそのままにして寝室に引き上げ、また眠った。翌日の朝、学校へ行く前の一瞬、また居間に入ってサイドボードの上の時計を見て、それから柱時計を見ると、柱時計は正確な時間になっていた。それを見て「こんな朝から、わざわざ柱時計の時間を母親が合わせたのか……朝の忙しいときに母さんが?」と漠然と思っていた。彼はそんなことがあってから、なんとなく気になって柱時計を見るようになった。そして、何度か同じような現象を目にした。特に大学生になってからは、友達と遊んで夜遅くに帰宅することも時々あるので、そんな時は必ず柱時計を見た。そして、やはり夜中に妙に進んだ時間を示しているのを見た。翌日起きてみると、それは決まって正確な時刻になっているのだった。それについて、母親には詳細を言わずに「母さん、今日は柱時計の時刻を合わせた?」と何度か尋いてみたが、いつも「いいえ」という否定の返事が返ってきた。
「進んだ時計がいつの間にか自分で時刻を合わせているのか」ケイタはそう思うようになっていた。
平穏な日々というのはそう長くは続かないものだ。思い返すと、まるで計ったように何年かおきに大きな出来事が家庭に起きていたりする。実はケイタの父親は運が無いと言うべきか、3年おきくらいにケガや病気を繰り返していた。
ケイタの父親が重い病に倒れた。医師の診断では、今度の病気では「そう長くは」というものだった。
ケイタと母親はいっぺんに暗いよどみに包まれた。父親は生涯を終えるには「まだまだ若すぎる」。ケイタはつらかった。父親に何かしてやりたい。そういう思いがつのった。彼はまだ学生だから、これまでずっと「親の傘の下にあった」と言えた。それが普通の子供だろうが、それが口惜しかった。せめて大学を出て独り立ちして……結婚をして、孫を見せて。今まで具体的に考えたことも無かった「孝行」の形がケイタの前にチラついた。
「まだ、何も出来ていないな……俺は」
ケイタは呟いた。
夜中、眠れなくてケイタは起き出してキッチンへ行きコップにジュースを入れて居間に入った。薄明かりを付けて居間のいすに腰を下ろした。そして、柱時計を見上げた。
「お前は長生きだな……いいな」
ケイタが見上げた柱時計は、今日は「妙な進み方」はしていなかった。正確な置き時計の方と同じ時刻を指していた。
「ケイタくん……」
誰かが彼の名を呼んだ。聞いたことも無い声だった。年取った重みのある響きの声だった。
「ケイタくん……」
二度目に呼ばれたとき、その声が柱時計からしているのが分かった。彼は、フゥッと腰を上げて柱時計を見た。文字盤がぼんやりと光っていた。
「時計が俺の名前を呼んでいるのか?」
「ええ、そうです。わたしが呼んでいるのです。さほど驚いていないようですね。ケイタくんは以前からわたしを少し疑って見ていましたからね」
「夜に、キミの針がずいぶん進んだ時間だったのがが朝に正確に成っていることかい」
「ええ。何度も見られてしまいましたね。告白すると、実はわたしは、いつも、誰も見ていない夜中にチョット楽をしようと思いまして……少し時間を進めて、朝にその進めた時間に起きてピッタリにしていたのです」
柱時計は恥ずかしそうな声でケイタに言った。ケイタは、長い間この柱時計に抱いていた疑問が一気に解けて消え去る気持ちよさを感じた。
「そうか。何十年も動き続けていられるワケは、そう言う知恵があったのか」
「はい。言ってみれば、わたしは時間を勝手に進めて『時間の使い込み』をしていたのです……」
「ははは。時間の使い込みか、おもしろいな」
「わたしはずいぶん長く生きてきました。わたしが使い込んだ時間は相当に貯まっていまして。ここいらで、それをお返ししたいと思います」
「時間を返す?今までキミが自分で進めた時間を返すというのかい?どういう風に返すんだい?」
「あなたのお父さんにお返ししたいと思います」
「父さんに?じゃあ、父さんは、その返してもらった時間の分、まだ生きられるというのかい?」
「ええ、そういうことになります」
「どれくらいの時間なんだい、それは」
「……18年ほど」
「18年か。お医者さんにもう長くないと言われた命だもの、18年でも貴重だよ。お願いだ、父さんにその時間を上げてくれ!」
「承知しました。それでは、そのように……」
ケイタの父親は奇跡的に回復した。ケイタは「これからの18年」をより大切に生きようと思った。
ケイタの家に、また笑い声が戻って来た。けれど入れ替わるように、あの柱時計は止まった。もう、うんともすんとも言わなかった。
母親が言った。
「この時計がお父さんの身代わりになってくれたのかしら……」
父親とケイタと母親は動かなくなった柱時計を見上げた。
「この時計を直すよ。今度、どこか直せるお店を探してくるよ」
ケイタは立ち上がり、決意を表明するような力強い調子で話しながら、柱時計の文字盤のガラスにソッと手を当てた。
タイトル「使い込んだ時計」