60 ある老医者の呟き
残酷な描写があります。
私が子供の頃に、流行り病が村を襲った。それは驚くほどの早さで、村の人の命を奪っていった。
私の祖父、祖母、母、姉も倒れてしまい、私は離れの納屋に弟と共に閉じ込められた。
「俺が街の教会に行ってくるから、それまでここから出るなよ。これを少しずつ食べてじっとしてるんだぞ」
父はそう言って、私と弟の頭を撫でてから出ていった。
そこからの記憶は、外から聞こえる誰かの呻き声とか叫び声が怖くて、震える弟と抱き合い、耳を塞いでいたことしか覚えていない。
気が付けば、全てが終わっていて。村は私たちを残して全滅し、助けに来た教会の医療部の人達に連れられ、どこかの施設に入れられた。
父は、街に着く手前で亡くなったと聞かされた。
「村を襲った病が憎くないか?」
そう聞いたのは誰だったのか。
弟とは離されて生活させられ、字が書けるか、絵が描けるか、計算は出来るか、と様々な事をさせられているうちに、弟までもが発症したと聞かされた。
移るといけないからと、弟と会うことも出来ず、不安な上1人ぼっちだった私は、心を病み、「弟を治すために」と言われ、知らずに悪魔と契約をしていたのだろう。
薬を作るために必要だと言われ、そうかと頷き、薬の効き目を確認するために必要だと言われ、分かったと頷いた。
弟が亡くなったことも知らずに、ただ血を採られ、薬を投与され、何をされているのかも分からないままに、生き永らえていた。
髪が抜けることも、嘔吐や下痢も、気絶することさえも日常的になった頃に、
「ようやく薬が出来たよ。君のおかげだ」
と言われても、その時には共に喜ぶ相手が居ない事も理解していたし、そうか、出来たのかとだけ思った。
「君も少し勉強するといい」
と言われ、分かったと答えると、どこからか死体が運ばれてきて、
「亡くなった人達の体を調べて、人体の造りを学ぶんだ」
そう言って、男は目の前で解剖を始めた。私はその横で、初めて見る肉や内臓の気持ち悪さと、吐く程の異臭に耐えながら、ひたすら体のパーツの絵を描かされた。
普段、解剖する死体は薄汚れたものが多かったが、たまにものすごく綺麗な死体が出てくるときがあった。
まるでまだ生きているかのような柔らかい皮膚に、艶のある黒い髪の毛。
「綺麗だろう?この子は病気じゃなくて、魔力切れで心臓が止まったんだよ」
魔力切れで心臓麻痺?そんな疑問が顔に出ていたらしい。
「若いのに可哀想だよね。でもこの子、この世界の人間じゃないからさ。構造を確認しないとなんだ」
この世界の人間じゃない?理解出来ないまま、隅から隅まで解剖されたパーツ、全てを描ききる。
心が麻痺しているのか、もう、何も思うことはなかった。ただ、こちらの人間と少しも変わらない造りだったので、不思議に感じた。
「ふーん。なら子供も作れるかもしれないね」
それからどれだけの時間が経ったのか。
心臓は動いているが、脳が死んでいる状態の女性が運ばれてきた。
「この状態での解剖は初めてだね」
この施設は教会の医師を育てるための研究所だと聞かされていた。多くの病人を救済するための研究だ、と死者を冒涜するかのような実験も、救うために必要なことだと言っていたのに。
何を言ってるのだ。この人は死んでなどいない。今でも胸が上下しているじゃないか、と初めて恐怖に襲われた。
「お腹に赤ん坊がいるんだって。妊娠中の状態を見たかったから、ちょうどいいね」
誰も止めないし、誰も咎めない。異常な状態に慣らされて、おかしいということにも気が付かずに、これまでいたけれど、これは違う。こんな事は狂ってる。
だってこの子は生きている。お腹の子も、この子の胎内で生きているのだ。
「イヤだ、イヤだ、イヤだ」
耳をふさぎ、目を閉じる。体はおかしな位にガクガク震えて。
「ありゃ、壊れちゃったかな」
それから気が付けば、見たこともない部屋のベッドに寝ていた。
「先生、大丈夫ですか?」
魘されていたんだろう。身体中が汗にまみれていた。
「あぁ、大丈夫だ。すまない、水をもらえるかい?」
あの日、同じように声を掛けてくれたのも、看護師のイリーだった。なんでも、教会の司教様が医者として私をこの診療所に極秘で配属したそうだ。
聞けば、ここはあの研究所から遠く遠く離れた場所にあるらしい。
「それほど長生きは出来ないだろうし、罪滅ぼしでもしたらいい」
と司教様にはそう言われた。
彼女を助けられなかった私に、出来ることなど何もないと思っていたが、生きていれば助けることの出来る命もあり。
ただ今は。目の前の救える命を懸命に救い、自分が知りうる全ての知識を後世に残すこと、出来ることはこれだけだった。
いつかその知識が、彼女達の苦しみや辛さを少しでも救ってくれたら、と切に願う。




