*13*
どれくらい走っただろうか。
通路は何枚目かの扉を境に狭くなり、壁は配線や装置がむき出しになっている。それらを掻き分けながら進むと、ケーブルに埋もれるようにその扉は存在していた。
これまでと同様に金属製だったが、大きく形が違っている。どちらかと言えば、扉というよりハッチと呼ぶほうがしっくりくる大きさだった。大人が一人通れるかどうか。いかにも分厚く、頑強そうに見える。
スミレは屈みながらそれに手を置くと、優へと振り返った。
「優君、色々と疑問に思っとると思うけど、この部屋に入れば事情を全部知って貰えるはずや。そんかわり、かなり面食らうと思う。ええか?」
ええかと聞かれても。
何も分からないこの状況では、適当に頷くほかない。
「・・・じゃあ、着いてきてや」
スミレは済まなそうにそう言うと、扉のレバーに手を掛ける。電子音が響いた後、彼女は重々しい音と共にそれを押し下げた。
*
確かに、面食らった。
優は今、何の支えもなく空間に漂っている。
そこは三角形の面で構成された球状の部屋だった。壁は全てが灰色で、何の質感も感じられない。広さは直径三メートルほどで、スミレと二人で浮いていると少しばかり窮屈だった。
部屋は薄暗かったが、慣れた様子で移動するスミレの姿は明瞭に見えた。まるで光が彼女をまんべんなく、あらゆる角度から照らしているかのように。遠近感も皆無で、出来の悪いゲーム画面のように不自然な光景だった。
だが、違和感や無重力などささいな事だ。より重大で、遥かに急を要する問題に優は直面していた。
彼の前で作業に没頭しているスミレは、何も身につけていなかった。そして優もまた同じく、完全なるすっ裸だ。
部屋の中央には球を刺し貫くかのように一本の柱があり、スミレはその柱の真ん中に埋め込まれた装置に向かって何やら作業していた。
装置には三つのソケットがあり、その一つにスミレの指示で優が差し込んだペンダントが輝きを放っている。
赤い光を浴びながら作業を続ける彼女の背中からは、裸体である事に関して一切の羞恥心が感じられない。
一方で、優は激しい鼓動と無重力で頭に血が昇り、内圧で爆発しそうになっていた。
見るべきではない。約束した相手だっている。だが、健康な男にそんな自制心を求めるのは無理な話だ。うなじから背中への美しい曲線。魅惑を伴って収束していく腰のくびれ。そして。
優は血涙を流しかねないほどの理性を動員し、それ以上視線が下がるのを阻止した。その様子を背中越しに見透かしたように、彼女の声が響く。
「尻くらい、なんぼでも見たらええやん。これからお互いの内面を全部さらけ出すんやからな」
最後に装置のパネルを勢いよく叩くと、彼女は両の腰に手を置いてこちらに向き直った。体を一切隠すことなく胸を張っている。
うるさい程の鼓動を聞きながら、どうしても視線を釘付けにしてしまう。本当にこの人はツバキじゃないんだ、と優は実感した。その理由をツバキに知られたら半殺しにされるだろうが。
股間を押さえて足をきつく交差している優の姿に、スミレは遠慮のない笑い声を上げた。
「乙女みたいなカッコしてからに。生理現象なんやから堂々としとき。むしろそうならん方が失礼やわ」
彼女は装置を指差し、言葉を続ける。
「これはな、この宇宙のエミュレータや。アタシらは今、この装置が作り出す宇宙を経由して生きとる。処理能力が貧相やから、不要な物は計算させる余裕がない。無重力だったり、素っ裸だったりなんはそれが理由や」
スミレは優の表情を見て、どう説明すべきか少しばかり思案した。
「まぁ、面倒な事は考えんでいいわ。いまからアタシは、宇宙のシステムに侵入する。でもな、何の用意もなく侵入したら防衛プログラムにあっという間に焼き殺される。だもんで、この装置でアタシの正体を隠して侵入するわけや。優君はネットに繋ぐときルータを使うやろ?それと同じやね。優君がネットに直繋ぎする勇者やったらスマンけど」
そこまで言い終えた彼女は、笑みを浮かべつつ優に向かって両腕を広げた。
「ん」
そして、軽く顎をしゃくらせる。
その意味が分からず空中でゆっくりと回転している優に、彼女は柱を蹴って飛びかかった。
色々と計算を省いていると言っていたが、素晴らしい、或いは災難な事に、肉体の柔らかさはきちんと計算されていた。
優はその柔らかさの中で、川に投げ込まれた犬のように溺れた。快感が全身に絡み付き、彼は目と鼻の穴を大きく開きながら手足をバタつかせる。
二人のもつれあった体が壁でバウンドし、ゆっくりと別の方向へと回転し始めた。
流れていく視界の中で、スミレが囁く。
「じっとしてや、優君。これは必要なことなんや」
言われた通り、優は動きを止めた。彼女の口調があまりに真剣だったからだ。鼓動よ、そして下半身よ静まれと祈りながら、優は裏返った声で問う。
「だ・・・大事って、裸で抱き合う事がですか?」
「そうや。アタシとしては、このままもっと色んな事をしたいんやけど・・・ここの計算能力じゃうまくいかんやろうし、時間もあんまりなさそうやしな」
彼女は片足で壁面を押さえ、器用に二人の回転を止めた。そして優の髪に右手を沈め、そっと撫で付ける。
「アタシは、自分と関わりがある人間の精神にアクセスして、その能力を拝借する特技があるんや。あの石」
髪から手を抜き出し、彼女は装置に差し込まれたペンダントを指差す。
「あれは優君にしか操れん。せやから優君と仲良うなって能力を借りんと、アタシには扱えんのや」
「な、仲良くって・・・これで?」
「短時間でこれより仲良くなる方法が他にあるかいな」
そう悪戯っぽく笑ったあと、念を押すように言う。
「優君、これから見るものは、かなりショッキングかもしれん。でもええか、全部他人事で、グロ画像の類いや。絶対に感情移入せんといてな」
真剣な表情で言い終えたスミレは、優をきつく抱き寄せる。
その直後だった。彼は激しい目眩を感じてうめき声を上げた。見たことのない情景が、大量に頭の中に流れ込んでくる。
遠いカラスの鳴き声。
障子を通り抜けて畳の上に注ぐ、淡い光。
石庭に静かに降り積もる雪。
見下ろした振り袖と、小さな手。
こちらに笑顔を向ける、女の子の黒い瞳。
そして、燃え盛る炎。
激しく揺れる視界。
男の肩越しに見送った、黒煙を上げる屋敷。
肥だめの匂い。
泥に足がめり込む感触。
汚水のような粥が半ばまで注がれた木のお椀。
細く骨ばった手と、こちらを見下ろす落ち窪んだ目。
疼痛のような寒さと飢えと、藁の匂い。
そして、またも炎。
赤い光を背景に、こちらに転がってくる人間の頭部。
のしかかってくる獣のような顔と、それを拒む骨と皮ばかりの小さな手。
焼け跡。
自分を引きずる、毛だらけの汚ならしい腕。
長い旅路。
行く手に見えてくる、壮大な街。
圧倒してくる家々の巨大さ。
赤く塗られた木の格子。
その向こうに広がる華やかな光と、行き交う人々。
並ぶ女達のうつろな顔。
覆い被さってくる男の淫らな目。
血と肉と、砕けた小さな骨の欠片。
生きたまま腐敗していく女たち。
優は知らぬ間に絶叫していた。
内臓ごとせり上がってくる吐き気、脳が煮えたぎるような怒り、自ら命を絶って逃走したくなる恐怖。負の感情が容量をはるかに凌駕し、彼の意識を何度も消し飛ばした。そのたびに新たな記憶が流れ込み、気絶することすら許してくれない。
「全部受け流して。深く覗き込んだらだめ。アタシの声に意識を集中して」
言われるまでもない。直視など無理だ。
流れ込んでくる記憶の全てが凄惨で、正気を保てないほどの恐怖と苦痛に満ちていた。スミレの胸に顔をうずめ、目をきつく閉じて嵐のような苦痛に耐えることしかできない。
「アタシはね、優君。人の命が虫と等しく扱われる時代を生きてきた。五百年間、ずっとそれは変わらなかった」
彼女の声は、まるで子守唄のようだった。
「アタシは人も、この世界も、心から憎んだ。消えてしまえばいいのにって、ずっと思ってた。だけど、あの街が私を変えた」
息を吸い、彼女は思いを込めてその名を口にした。
「秋葉原。そこで出会える無数の物語が、無数の主人公たちが、無数の愛憎が、アタシの魂を救ってくれた」
スミレの手が頭を撫でるのを感じる。その度に、わずかに苦痛が緩んでいく。
「そりゃあ昔から、人は創作を続けてきた。だけどこれほど多くの人が、これほど自由奔放に世界を創造した時代は、この五百年には存在しなかった。あれほど憎んだ人の心が、こんなにも美しい宝石を尽きる事なく生み出し続ける。残酷な灰色の世界を、鮮やかな色彩に塗り替えていく。アタシには、それが奇跡としか思えない」
スミレは、彼がとっくに理解している事を改めて言葉にする。
「だから優君。アタシはこの宇宙がどうなるのか、この先も見守り続けたい。たとえこの身が滅びたとしても、あの街が象徴になっている精神を何としてでも残したいの」
嵐が去り、二人は完全に結びつけられた。
拷問を乗り越えたような表情の優は、焦点の定まらない目でスミレの背中に両腕を回す。
これほど深く人と理解しあった事はない。スミレという人間が、今は我が事のように分かる。彼女も優の全てを知ったはずだ。
優の弱々しい抱擁に、スミレは安堵の表情を浮かべた。
「よう耐えてくれた、ありがとう・・・それにしてもなぁ」
彼女の口元がニヤニヤとした笑みに変わっていく。
「優君はおっぱい星人やったんやな。スマンなぁ、アタシじゃボリューム不足やったやろ?ツバキちゃんなんて、完全にストライクゾーンから外れて暴投やん。まぁ、翳ちゃんにはバレんように気いつけや。てか、あれだけの事があったのにまだあの子に手をだしとらんのか。呆れて物も言えんわ」
*
風に揺れる枝の音で、翳は目を覚ました。
天井を見つめる。
いや、眠れてはいなかったのだから、目を覚ましたとは言えない。
彼女の心は優との別れ以来曇り、そして濁り続けていた。今はもう完全に黒く染まっている。まるで、あの晴れやかな心が虚構だったかのように。
体を起こし、部屋を見回す。いつものごとく、トラの姿は見えない。彼女はこの森がいたく気に入ったらしく、夜は一人で出歩く事が多くなっていた。
翳はベッドを抜け出し、呪文で小さな光を生み出しながら部屋の扉を開けた。
リビングのテーブルの上に、鈍く光る金属盤がある。彼女は音もなく歩み寄ると、それを持ち上げた。優が血だらけのズボンと共に忘れて行った羅針盤だった。冷たい感触のそれを手に取ると、しばらくの間見つめ続ける。
ひときわ強い風で扉が揺れ、翳を現実に引き戻した。それがきっかけだった訳でもないだろうが、彼女は羅針盤を抱えたまま部屋へと駆け戻っていく。
半刻後。
まだ陽も昇らぬうちに、翳は身支度を終えて家の前に立っていた。その瞳に決意を湛え、彼女は遠く見えるルダの街へと足を踏み出した。




