*7*
スモークグレネードから、液体のような濃度の緑の煙がゆっくりと吹き出し始める。その向こうに立つ男に忌々しげな視線を移しながら、スミレは切り札を奪われた事を悟っていた。
なんかおかしいと思ってたんだよ。
さっきから全力でやっているが、フラグを立てるためのイメージにうまく集中できない。酔っ払いのようにやたらと喋りまくった自分をおかしいと思っていたが、どうやら精神系呪文の影響のようだ。やはり敵に何人か魔術師が混じっているらしい。
呪文の効果に抵抗すべく努力しながら、彼女は敢えて出口へと向かわずに体を前方の煙の中へと投じた。
ここを強引に突破して、ツバキと翳が籠っている部屋へと走ろうと試みる。当てずっぽうに、そして旋風のように煙を切り裂きながら走る彼女はしかし、煙を出て敵を背後に置き去りにする寸前でその速度を失った。
巨大な手に押さえつけられたかのように這いつくばる彼女の周囲で、煙が綺麗な円形を描いて消え去る。呼吸も上手くできず、このまま床の中にめり込みそうだ。床に頬を押さえつけられた彼女は、心の中で毒づく。
重力系のスペルも使えるのかよ。
あいつら秩序の守護者を気取ってるんじゃなかったのか?重力ねじ曲げるとか混沌の中の混沌じゃねぇか。
「そのまま動くな。危害は加えない」
背後で声が響く。有難いお言葉だ。
このまま捕まって地獄に落とされるか。
それとも自ら地獄に落ちて、蜘蛛の糸を掴み取るか。
床を鬼気迫る表情で睨み付けながら、スミレは覚悟を決めた。
彼女は最も単純なイメージの、しかし危険さでは上から数えた方が早いフラグを立てるべく祈りはじめた。正確にイメージできるかどうかは分の悪い賭けだったが、彼女はそれに勝った。
そのフラグは、己の肉体を構成する全ての原子を完全にシミュレートするというフラグだった。その総数100兆個のさらに1000兆倍よりも多数の原子、それらの振る舞いが、システム上で馬鹿正直に計算される。システムは、通常では人を構成する原子の振る舞いなど一切計算せず、群れとして簡略化して扱う。もしそれを手抜きなしで計算などしたら、システムの処理能力は致命的に不足する。
その致命的な不足の結果は、深刻な処理落ちだった。
近傍の空間の計算リソースは全てスミレの体を構成する原子の動きをシミュレートするために費やされ、PCで言うところのフレームとフレームの間に相当するデルタ時間は強烈に引き伸ばされた。
周囲の音が消え去り、嘘偽りから解放された体は奇妙な感覚を彼女に伝えはじめた。全身から普段感じないさざ波のようなざわめきを感じる。まるで肉体が細かな砂の塊になったかのようだ。自らの存在感というものが、圧倒的な密度で押し寄せてくる。
彼女を生かしている複雑で緻密な計算は、現在進行形で大量のエラーを発生させていることだろう。その数が許容範囲の限界を超えたとき、スミレの存在は矛盾を内包しきれず崩壊する。確率の神に祈りながら、彼女はゆっくりと振り向いた。
背後に広がっていたスモークグレネードの煙は、固体のごとく硬直していた。そこに沈んでいる人影も完全に凍りついている。まるで蜘蛛の糸に絡め取られた昆虫のようだ。
この伸びきった時間の中で、システムが全力で駆動させているスミレだけがその速度を保証されていた。
体を押し付けていた重力系の呪文も、処理落ちによって効果の濃度が急激に薄まっている。スミレは呪文の範囲から抜け出しつつ、二つの手榴弾を懐から取り出し、それらを一度に放り投げた。かろうじて保っていたイメージへの集中が、そこで途切れる。
直後に、時間は音と共に甦った。
床を打つ金属音。そして、閃光。
押し寄せる激しい風圧に翻弄され、スミレは部屋の隅へと転がった。
*
頭の中にロケットでも突っ込まれたかのような耳鳴りとめまい、そして暗い部屋を背景にチカチカと光る視界。
どれくらい転がっていたのか分からないが、スミレは壁に手をつきながら体を起こした。もう片方の手で頭を押さえようとすると、感触でそれが血だらけな事に気づく。 背中から肩にかけて無数の痛みが警告を発し始め、彼女は顔をしかめた。
めまいに耐えながら周囲を見回すと、室内の惨状は凄まじかった。
煙が充満し、照明も破壊されていたことが幸いだった。血の海の中に転がる無数の破片を事細かに見なくて済む。彼女は咳き込みながら立ち上がると、「図書室」の深部にむかって体を引きずりはじめた。
奇跡的に動作したドアをくぐると、すぐ先にT字路が現れる。よたよたと駆け寄ったスミレがそこを曲がろうとした時だった。
銃弾が無数に通りすぎた。跳弾の音が響く。
ビビったわ。
仰向けに転がって何とか荒い息を鎮め、スミレは床に血を塗りたくりながら再び曲がり角へと這い寄りはじめた。
目の前を流れていく天井を眺めながら、彼女は自分の予想が正しかった事を確信した。奴らの目的は、優の帰還への妨害で間違いない。あの立ち話は時間稼ぎだったのだろう。
その確信が、彼女の消えかけた意識を何とか繋ぎ止めた。希望が心を燃焼させ、傷だらけの肉体にわずかな活力を与える。彼女は曲がり角の直前で止まると、使えるフラグはないかと思案を巡らせ始める。急がねば地上から兵隊が押し寄せてくる。何か無いか。
ダメだ。イメージを形作るなど、とても出来る状態じゃない。手榴弾もクナイも使いきってしまった。残っているのは腰に提げた短銃と、背中の刀だけだ。
ズリズリと壁に肩を預けながら起き上がり、彼女は深呼吸を繰り返す。
大した事ない。
これよりも酷い状況を何度も潜り抜けて来た。
あとひと踏ん張りだ。やり終えたら、部屋に戻ってスナック菓子でも頬張りながらアニメを観まくろう。まだ最後まで観てない作品が大量に残ってるんだ。最低でも、あの優柔不断なクソビッチが自分の推しメンを選ぶのかどうか。それを知るまでは絶対にくたばれない。
いこう。
覚悟を決めた彼女は、短く息を吸い込んで通路へと転がり出た。そして、伏せたまま短銃の引き金を引く。
照星の向こうには五人の人影。彼らの前にあるドアには何らかの装置が取り付けられ、一人がそれに向き合っている。
二人を打ち倒した彼女は、途中で標的をその装置に変えた。銃弾がそれを貫いた直後だった。スミレの肩を貫通し、体の深くへと銃弾が入り込んでいく。その焼け火箸のような感触に体を痙攣させ、彼女は呼吸を止めた。
スミレの視界は、急激に闇の中へと沈んでいった。




