*5*
つららは、冷たいスウェットのズボンを見下ろして顔をしかめていた。
これが雪や泥だけで濡れている事を切に願いながら。
彼女は今、真っ暗な林道の脇に立っていた。舗装もされていないその道を、数百人規模の群衆が通り過ぎていく。
ぐっすり眠っているところを叩き起こされ、彼らと一緒に夜の闇の中を長い間引っ張り回され。で、気が付くとここにこうして立っていた。靴の中が泥でガボガボだ。寒いし気持ちが悪い。
来た道の向こうでは赤い光がゆらめき、その上空では閃光がまたたいている。道志家の玄関を出る時は火災かと思ったが、敷地を出てすぐに思い違いだと分かった。走りながら振り返って見た光景が、まだ心に鮮明に残っている。
優雅に飛行する飛竜の群れと、火線を放ちつつ飛び交う航空機。
その手前では光の筋が流星群のように飛来し、建物を守るように立つ巨像に降り注いでいく。
なるほどな、怪獣映画って結構リアルにできておったんだな。現実とそんなに変わらぬわ。
思い返して妙な感心をしていた彼女は、だんだんと迫ってくる重い振動を感じて我に返った。揺れの主は遠くからでもすぐに見えたので、それほど慌てずに済んだ。
三体の巨大な人影がこちらに進んでくる。腕や頭を失ったゴーレムだ。地下で見たときは無敵に見えたものだが。
ここに来て、つららは事態をなんとなく理解しはじめていた。どうやら自分達は敗走の真っ最中らしい。
だとしたらまあ、あっさりと負けたものだ。
ここの連中はアメリカに攻め込むつもりだ、と優に聞かされた時は耳を疑ったものだが、いざこうなってみると当たり前すぎて残念にも思えない結末だった。あざ笑う気すら起きない。
道志家の方角の空が、ひときわ赤く輝いた。
ツバキは、そして優は大丈夫だろうか。翳とかいう娘と三人で談笑した夜が懐かしい。
もう二度と、あんな目に遭うのは御免だが。
かすかにエンジン音が響いてくる。つららは目をこらした。
道の向こうからトラックが数台追ってくるのが見えた。
彼女は靴をガボガボ言わせながら走り出した。
*
頭上から、細かな土砂が降り注いでいる。
真っ暗なエレベーターシャフトの側壁にぶら下がりながら、スミレは震えていた。
なんとか呼吸を落ち着けた彼女は、シャフトの壁面に張り巡らされた鉄骨によじ登って腰を下ろすと、バックパックからスマホを取り出して操作し始めた。
このシャフトは最下層まで続いているが、重要な施設には直結していない。五階ごとにある別のエレベーターに乗り換えなければ、ツバキと翳が籠っている部屋には辿り着けない構造になっている。まずはこのあたりでシャフトを出て、次のエレベーターに向かわなければならない。
スマホの操作を終えると、すぐ近くの壁面が重々しく開いた。彼女はそれを通り抜けると、高さと幅が自分の身長の四倍近くはある無駄に広い通路を走り出す。
人影はなく、聞こえてくる音も自分の足音だけ。どうやら住人の避難は成功したようだ。
スミレの口元が笑いで歪む。
五百年戦って、抗って、耐えて。だけど終わりは、こんなにもあっけないらしい。
考えたら、姉貴もアタシもただ長く生きてきただけだった。
皆を束ねつつ困難に立ち向かう指導者、そんな器とは程遠い。
いや、器が無いなんてどころの話じゃないな。
姉貴はこの世界を愛していないし、アタシは人間という存在を心の底から憎悪している。そんな連中がこの宇宙の未来を勝ち取ろうなんてのが、そもそもバカバカしい。そのくせ人間不信なもんだから、他人に任せる気にもなれなかった。
ツバキちゃんの体が乗っ取られる事件が起きてから、姉貴はもうこの世の行く末に興味が無くなってしまった。最愛の孫が自由に宇宙を渡り歩ける存在になってしまったんだから、そりゃあこの宇宙がどうなろうと知ったことじゃないだろう。
姉貴の両肩には、とっくに何も乗っかって無い。
まあいいさ。アタシは荷を死ぬまで背中から降ろさない。
最後まで、絶対に。
半刻後、スミレは五回目のエレベーター乗り継ぎを終えて、ようやく最下層フロアへと降り立った。
いくつもの分厚いゲートを抜けて長い廊下を走ると、一枚の堅牢そうな扉が見えてくる。
「図書室」と呼ばれる、この地下施設のコアとも呼べる部屋だ。カエデとスミレ以外に、この部屋への入室権限を持つ者はいない。
はずだった。
扉を開けて駆け込んだスミレは、自分に向けられる多数の銃を目にした。彼女は残った勢いのまま足を進めつつ、呆然としていた。身を隠すなりすべきだが、何も考えることができない。
足音の間隔がだんだんと長くなり、ついには停止する。
直径30mはあろうかというこの広い円形の部屋を背景にして、銃を構える人影が20人以上。彼らは優の家を襲撃した兵士達と同様な装備をしていた。その中心に立つ一人が、スミレが何の抵抗もしない事を確信しているかのようにこちらへと歩いて来る。
「夜分に何度もお邪魔して申し訳ない」
男は気さくな調子で声をかけてくる。スミレは眉根をよせ、かろうじて声を押し出した。
「・・・どうやって」
「ここに来たか?転送されて来たのさ」
スミレは顔を歪めながら、声を張り上げて再度問う。
「だから、どうやって!」
そうか、という様子で男は頷いた。
「あなたのお姉さんに協力してもらったんだよ。ここのアドレスからセキュリティの突破の仕方まで、全て教えてもらった」
*
ソファに座るカエデは、廻が淹れてくれた茶を口元に運ぼうとした。
その時激しい振動が建物を揺らし、同時に窓の外が昼間のように明るくなる。
何事かと立ち上がろうとしたとき、彼女は軽いめまいに襲われた。
湯呑を掴む力が指から失われ、膝の上に熱湯がこぼれ落ちる。
「・・・スミレ」
目をきつく閉じながら、思わず妹の名を呟く。
このめまいは、スミレが自らの属性フラグを編集したからだろう。
人類の歴史には、さまざまな奇跡が伝承として残っている。
燃え盛る炉に投げ込まれた聖人が無傷で生き延びたり、預言者が水の上を歩いたりといった出来事がそうだ。どういうカラクリでそんな馬鹿な事が起きるかというと、何のことは無い、神々が彼らのフラグをそうなるように編集したからだ。
絶対に傷つけられない属性。
他人の思考や深層意識などにアクセスできる属性。
腐敗、老化などの状態変化を禁止する属性。
重力、電磁気力など、各種の物理量からの影響を増減させる属性。
そういった無数の属性が人間の管理領域に存在していて、神々のみが任意に値を変更できる。属性フラグの処理優先度は、接続者の魔法や特殊能力などとは比較にならない程高い。どんな打ち消しや阻害効果も受け付けず、効果は即時発揮され、周囲の状況などにも影響されない。
そんなチート級の機能を人の身でありながら操作しているのが、カエデとスミレだった。彼女らは偽のコマンドを作成し、自分たちが把握している属性フラグの値を都合よく編集することができる。だが、それには相応のリスクも存在していた。
属性を編集するためには、非常に複雑なイメージをわずかな間違いもなく完璧に脳内に再現する必要がある。再現されたイメージは、この宇宙を動かすシステム上で特別なメッセージパターンを生み出す。それがフラグ編集コマンドのメッセージパターンと同一だった場合、システムは神からのコマンドとして誤認し、実行してしまう。要するにハッキングだ。
だがもし思い浮かべる抽象的なイメージがわずかにでも間違っていて、しかもそれがコマンドとして実行されてしまったら。PCなら不正終了で済むかもしないが、人間はそうもいかない。肉体と精神に無秩序な変更が加えられるのだから、その結果は考えるまでも無く悲惨なものだ。
冷たい感触に我に返ると、廻が濡れたタオルでカエデの足を冷やしていた。カエデは礼を言いながら、半ば上の空でソファに座りなおした。
あの子がフラグを使用したということは、何かあったということだ。
今すぐにでもスミレの元に駆け付けたい。だが目の前に屈んでいるこの娘もまた、どうしても守る必要がある。
早く帰ってきなさい、スミレ。
カエデは外に視線を向け、悲痛な表情で念じ続けた。




