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小さな二つの手が、体を揺さぶっている。
ナギは温かな布団の中で身じろぎし、至福の眠りを妨げてきた者の顔を寝ぼけ眼で見上げた。
暗い寝室の天井と、豆球の淡い光。それらを背景にしたナミの顔が、輪郭となってこちらを覗き込んでいる。
目をしばたたかせつつ、ナギは顔をしかめた。
「・・・またか。そろそろ子供じみた怖がりを卒業してはどうじゃ」
いつもの如く手洗いに付き添わされるのかと思っていたナギは、直後、緊迫した表情の彼女に頬をひっぱたかれていた。
「寝ぼけてないで目を覚まさんか!この家が包囲されておる、もう既に庭の中にまで押し込まれておるぞ」
ナミが囁き声を超えない範囲で精一杯叫ぶと、見る間にナギの表情が強ばっていく。彼は布団をはねのけて身を起こした。冬の冷たい空気で一気に意識が明晰になる。
「結界や人形はどうした」
「押し入られとるんじゃから、どうなったか分かろうが」
優をカエデに強奪されて以来、再び襲撃されても良いように用心に用心を重ね、この家を要塞化してきた。渾身の作品である人形二体に、唸るほど仕込んだ罠。
そんな努力がぜんぜん役立たなかった。
しばし呆然としたナギだったが、隣に横たわる廻の寝顔を見て自身に一喝する。
「廻姉を守らねば」
「言わずもがな。問題は、如何にしてそれを行うかだ。奴等が何の目的でここを囲んでおるのかはっきりしておらん」
「しておらんが、だいたいの予想はつく。ここには廻姉以外に価値あるものなど無い。あのアホウめ、ワシの言うたとおりになってしもうたではないか」
「宣なるかな。戻ってきたら只ではおかぬ」
そう言って二人同時に立ち上がった時だった。室内が、突如として燃え盛る火焔に包まれた。
無数の赤熱した舌が室内を舐め回し、ナギとナミのパジャマにも燃え移る。全身を焼かれるその痛みたるや、常人ならば泣き叫びながら転げ回る事だろう。この世の苦痛でも最上位圏内ではなかろうか。
ナギが忌々しげに口を開く。
「こうくるか。方術を使う以上、やはり鬼姫の手の者と見るべきだ」
「決めつけるのは早い。だが少なくとも客人やコソドロでないのは間違いないな。人数も多そうだ。十人以上おらねば、あの数の罠をこうも一気に排除できまい」
二人が顔を歪めながらも平然としていられるのは、炎が幻だと分かっているからだ。こうやって建物から焙り出す手口は割とありふれている。冷静に見れば、すべて炎に覆われるばかりで、燃えている様子は微塵もない。
なにより二人に守られるようにして横たわる廻が、未だ布団のなかで呑気に寝息を立て続けている。
「・・・畑の人形は動かんか」
「潔く諦めよ。気づく間もなく壊されておるわ。相手はかなりの手練れと見なければなるまい」
そう答えたナミは、自分自身の言葉で突如閃いた。彼女は部屋を勢い良く出ていき、隣にある優の部屋で何やら家捜しした後で戻ってくる。
彼女が携えて来たのは、プラスチックのお面と木刀だった。
かつて、二人が最も恐れる老婆と同等の強さを優に与えた道具。
「私がこれで曲者どもを全て引き受ける。もし私が劣勢と見たら、廻姉さまを背負ってすぐに窓から出よ。方術で強化したお主の足なら、逃げおおせる目もあろう」
彼女の言葉にナギは眉をひそめた。瞳には辛うじて抑え込んだ狼狽が浮かんでいる。
「ナギ、お主は神官ではなかろうが!しかもそれはあのバカが作りおった物ぞ。奴が余人にも扱えるように気を遣ったとは全く思えん。ここで死ぬ気か?」
「お主とて今宵のうちに死ぬ事になろう。我らはもう死んだも同じ。ただ、廻姉さまを守るという使命を全うするのみではないか」
生を受けてより、ずっと苦楽を共にしてきた片割れ。お互いに向けて常に抱いているその強い絆は、使命という言葉で断ち切られた。自分たちで見つけ、自分たちで守ると決意した使命。
賊が屋内に侵入したようだ、階下に気配を感じる。
もはや猶予はない。ナギは頷いた。ナミもそれに頷き返し、面を顔に運ぶ。
面の下で、ナミは自らの体の変化を期待する。
しかし特段に何かが起きた様子もない。やはりか、という真っ暗な気持ちを殺し、一縷の望みに縋りつつ襖の向こうへと意識を集中する。
大きすぎて手に余る木刀を間違った握りで構え、彼女は階段を上がってくる気配を待ち構えた。その背後では、廻の傍らでナギが身体能力強化の方術を練りはじめる。
緊張が空気に充満する。ナミは唾を飲み込んだ。
それと同時だった。
部屋の入り口の襖が、二枚ともこちらへと吹き飛んできた。ナミはそのまま下敷きになるが、重い襖の横から何とか這い出ると、目を閉じたまま力の限り木刀を振り回しはじめた。
その体を、幾条もの火線が貫く。
祝いのクラッカーが弾けるような、気が抜ける音だった。
それが止んで硝煙の臭いが散ると、ナミはうつ伏せに倒れていた。
血が流れ出し始めた彼女の周囲を、部屋に押し入った三人の人影が囲む。予想外の姿だった。ダークグレーの野戦服とヘルメット、黒い目抜き帽。手には短銃やショットガンを携えている。その一つは横たわるナミに、もう二つはナギに向けられていた。
激しい音で目を覚ました廻の体の上で、ナギはナミの姿を凝視していた。
横たわる小さな体の周囲には血だまりが出来ている。
意識が真っ白になっていく。絆は切れるものではなかった。たとえどんな使命であれ。彼は炎の中で激しく体を震わせながら拳を握りしめ、廻をそこに残して絶叫と共にナミへと駆け寄ろうとした。
侵入者達は、三人とも銃口をナギに向けた。その指が引き金を引く直前。
三人の腕が、あらぬ角度で折れ曲がった。
続いてナギを突き飛ばしつつ雪崩れ込んできた黒い影が、よろめいた侵入者たちを一気に部屋の外へと叩き出す。三人は車に跳ねられたような勢いで廊下の壁に大穴を開けて倒れ、動かなくなった。
尻もちをついているナギが呆然と見上げるなか、目の前に立つ背中が彼へと言葉を発する。
「治療してあげなさい。あなたは得意でしょう?」
血の気をすべて抜き去る、絶対に聞き間違えようのない声と話し方。
老婆の形をした死神、道志カエデ。
絶対に会いたくない相手。
ナギは今の今まで、この襲撃の首謀者はカエデだと思っていた。
というか、今も思っている。
ならば、なぜこんな真似を。何が何だかわからない。
「早くなさい」
もう一度促されたナギは、慌ててナミを抱き上げて面をむしり取った。一方でカエデは、草でも刈るような気軽さで倒れている侵入者たちに木刀を振るい始める。見る間に彼らの腕と足が不自然な方向に折れていく。
それが終わると、彼女はこちらに振り向いた。
一瞬だけ、ナミを治療する手が止まってしまった。
目の前の人影は、再会を覚悟していた小柄な老婆ではない。
かわりに一人の女性が彼の瞳に映る。長い絹糸のような黒髪、細く長い手足。理想を具現化したようなプロポーションの体に引っ掛かっているのは、絶対にサイズが間違っている渋い灰色の着物。小さすぎて色んな部分を隠しきれていない。
そして炎に照らされるその顔の美しさたるや。
彼女は手にした木刀を軽く血振いしてから言い放つ。
「安心なさい、今は味方ですから」
「せやで。全部放り出して助けに来たんやからな」
気が付かなかった。
いつの間にか、もう一人部屋に入り込んでいた。ナギは忘れもしないその顔を見て、思わず呟いていた。
「・・・道志ツバキ」
どうやら、娘はその反応に慣れている様子だった。ジャージ姿の彼女は、左手に持った木刀を杖のように畳に突きながら軽く一礼する。
「ツバキは姪っ子や。アタシはスミレ。お初にお目にかかります。あ、廻ちゃんやね。こちらも初めまして。土足で上がり込んでごめんなぁ」
能天気なその話し方に、カエデが不快げに吐き捨てる。
「来なくても良かったのに」
「この転送で、雀の涙やった残りの処理能力も殆ど出しつくしたわ。アメさんの勝ちや。敗けてもうたら、やること無いからなぁ」
そう言いつつスミレが右腕を虚空に向かって払うと、暴風に吹き飛ばされたかのように室内の炎が消え去った。
彼女はカエデに向かって囁く。
「姉貴、何を捨てたか分かっとるんやろうな」
俯いたカエデからは何も感情を読み取れない。
「・・・最初から、世界がどうなろうと知ったことではありません。それよりも、私自身の手で少しでも優君に償いをしたかった。結局は負け戦だったのだし、構わないでしょう?」
彼女は自分に言い聞かせるようにそう言い終えると、倒れている侵入者たちを跨いで廊下を歩き始める。
「下を片付けて来ます。スミレ、ここを頼みます」
その時だった。ナギはカエデの横顔を一瞬だけ見てしまった。
あの表情。悪夢でも見た鬼姫の瞳。
安らかな息を始めたナミを強く抱きながら、ナギはしめやかに失禁した。
hikoyuki様
素敵なレビューをまことに有り難うございました。
喜びのあまり半泣きになっておりました。
レビューだけ見ると、物凄く面白そうに思えてしまいます。これを読んだ方は、実物を読んで失望する可能性が非常に高いと思います。
記事の方にてご指摘頂いた事なども、大変参考になります。感謝いたしております。
重てお礼申しあげます。有り難うございました。




