*10*
悪夢を見た。
あまりにひどい夢だ。
何か取り返しのつかない事が起こり、空気も、立っている床も、聞こえてくる音も、そして自分の体も、何もかもが絶望という悪臭や汚泥に変わってしまう。そんな夢だった。
優は浅い眠りの中でまどろみながら、悪夢から逃れられたことに安堵していた。
心が安らぐ香りがする。
それを胸いっぱいに納めた優の脳裏に、鮮やかな景色が浮かんでくる。
ガタガタと揺れるバスの車内と、こちらに寄りかかって呻いているツバキのしかめっ面。
背中をさすりながら、彼女の汗の香りが鼻孔をくすぐるのを感じていた。
なんで、こんなにいい匂いがするんだろう。
そう強く疑問に感じたことを覚えている。
僕の汗はこんなに臭いのになぁ。別に種族が違うってわけじゃないだろ?
俯いている彼女に特別な香水やシャンプーでも使っているのかと聞くと、自家製の石鹸しか使ってないという。答えるために吐き気に耐えながら顔を上げたツバキは、怪訝な表情をしていた。今考えるとあの質問はいささか変態っぽい。
念のために宣言するが、興奮したりとか、そういうことでは断じてない。彼女の香りが鼻孔を通ると、心がとても安らぐという、本当に、本当にそれだけの話だ。
体に密着している柔らかな何かをきつく抱きしめ、優は激しく興奮しつつ香りを力いっぱい吸い込む。
その時だった。
「その者たちは動けなくなってはいるが、意識はある。後が怖いぞ、あればだが」
原発から直送されたプルトニウム臭が抜けていない電流を、余すところなく流されたかのような衝撃だった。優は熱湯風呂から飛び出す芸人のように体を激しくくねらせ、直後に落下して床に叩きつけられた。
痛みに悶えつつ背中を押さえ、声のした方向に頭を向ける。
人影がひとつ。
純白のローブをゆったりと身に纏った、長身の女性だった。目を疑うような美形だ。長い金髪や白い肌は眩しく輝き、優を見つめる涼し気な青い瞳だけが光に空いた穴のように見える。だが聞こえた声は艶やかな男性のバリトンだったから、容姿とのギャップがあまりに奇妙だ。
「君の知るルダは男だった。だから私も性別は男なのだろう。・・・まぁ、どちらでもいい」
こちらの疑問を読まれていることよりも、彼が口にした名前のほうが衝撃だった。
優は痺れるような恐怖に肺を鷲掴みにされ、鋭く息を飲んだ。
ルダ。
夕陽。
優は必死の形相で周囲を見回した。その視界に、動かないトラの後ろ姿が入る。しばし固まったあと、アゴは?!と慌ててその姿を探した優は、追い打ちをかけるような衝撃を受けた。
乱れた赤い着物姿の娘の背中。
黄色いパジャマを着た女の子の横顔。
無数の思考が氾濫し、交錯する。優の精神は完全なデッドロックに陥った。
全員、この危険の渦中でスナップ写真のように硬直して立っている。試みるまでもない、呼び掛けても誰も答えないだろう。本来あるべき再会の喜びなど、荒れ狂う巨大な混乱で粉微塵に吹き飛ばされてしまった。
優は冷たい汗を無数に額に流しながら、彼女らを背後に守るように男に向き直った。
その様子を見たローブの人影は長いまつ毛を伏せ、わずかに唇をゆがめる。
「少しばかり話そう」
優美な仕草で、彼は床に置かれた装置の一つに腰を降ろした。それは側面からケーブルが何本か生えた白い立方体で、座るにはちょうどいい高さだ。彼は足を組むと、仕草で優に座ることを促しながらやさしげな視線をこちらに向けた。
拒否とも取れるほど、長い時間が過ぎていく。
迷った挙げ句、優は構えた両腕を下ろした。他にやれることが思いつかなかったからだ。
それを見た男は、声を出さずに笑ったようだった。そして、口を開く。
「安心するといい。先ほども言ったが、君のお友達は皆生きている。ここは、君が居る次元と私が居る次元の接合点・・・インターフェースのようなものだ。私は君たちの次元に降りてはいけないし、君たちも同様に私の次元に上がって来ることはできない。だから今、我々は私が作り出した中間地点で接触している」
男は、優の疑問を先取りして答えていく。
「まずは自己紹介からだな。・・・私はルダ。正確には君の知っているルダ、そのオリジナルだ。しかし、これではあまりに煩わしい・・・だから、私の事はゲームマスターと呼んでくれ。あのゲームは私によって運営されていたのだから」
彼は優の考えを完全に読み取っている様子だったが、優自身に問わせたかったのか、言葉を待つかのように口を閉ざした。
無為に沈黙が続く。その間、優は汗まみれの手を握り締めて立っていたが、やがて体を揺すりつつ何とか声を押し出した。
「・・・僕らを、どうするつもりだ」
「大したことはしない。ただ」
男はまっすぐに伸ばしていた背筋を丸めてこちらに身を乗り出し、
「君を、完全に、消去するつもりだ」
ささやくような声で、文節を区切りながらそう言った。まるで可愛らしい秘密を打ち明ける時のように。その表情は微笑みを浮かべたままだった。
固まる優を前に、再び姿勢を正したゲームマスターは言葉を続ける。
「殺すのではない。完全な消去だ。君の肉体という端末だけではなく、君が持つすべてのつながりも破壊する。君と接続している人々は致命的なダメージを受けるだろう。場合によっては、壊れた接続が因果関係を雪崩のように破壊し、君の元居た宇宙そのものがリセットを起こしかねない」
優の顔を見て、彼は肩をすくめる。
「・・・分かりやすく言おう。君は消える。君と関わった者たちは全員壊れる。場合によっては、君の宇宙はリセットされる。こんな所だ」
優は、悪質なキャッチセールスに大事なお年玉を巻き上げられた経験を思い出していた。
スケールでは比較にもならないが、不条理さの面で似ている。
こんな莫大な支払いを請求される謂われなどない。
何故、という思いに対するゲームマスターの答えは、取り付く島もないものだった。
「君が憎いからだ」
彼はゆっくりと立ち上がる。
「私はこのゲームを運営するため、ただそれだけのために生み出された。この宇宙の上位には10の次元があり、私の兄たちがそれぞれに一人ずつ存在している。彼らは、ゲームの状況を伝言リレーで父の元へと伝える伝達役だ。このゲームが終了すれば私達の役目は無くなり、末弟のルダを除いてすべて、消去される」
そして、こちらに音もなく歩みを進めてくる。優はわずかに後ずさった。
「何の疑問も持たなかった。それが目的で生まれてきたのだから。私たちはルダの生きざまを父に伝える糸電話の糸であり、それですべてだったんだ。・・・だが我が不肖の弟ルダを見続けるうちに、私の中に理解し難い新しい思考が生まれはじめた。・・・その正体が、今なら分かる」
表情を強ばらせた男は一旦言葉を切って立ち止まり、
「妬みだ」
そう吐き捨ててから再び歩き始める。
「あの世界を生きる弟に、私は嫉妬した。何も持たない私は、生きるとは何かを知る弟が憎かった。だから弟からすべてを奪い、可能な限り苦しめ、そして最後に私自身が殺すつもりだった。だが、君が奇妙な形でそれを終わらせてしまった」
「・・・だから、僕を罰するのか。お前の大事なゲームを台無しにしたから」
ゲームマスターは片眉を上げた。
「大事?いいや。バカバカしい。今となってはどうでもいい。理由はそこにはない」
殊更に強く否定した彼は、すぐに平静を取り戻して再びささやくように話す。
「父と弟が、君を助けようとしたからだ」
彼は立ち止まった。今や、優の目の前に立っている。
「父は息子である私を使い捨て、一方で、私に比べれば塵以下の存在である君を身を削って助ようとする・・・弟に至っては、君に自らの命を捧げる有り様・・・なんなんだ、これは。私は、塵にも劣るというのか?!こんな非道が、理不尽が」
続く言葉を飲み込んだ彼の笑顔は、泣き顔に表裏一体だった。
「・・・だからだ。私は君を憎む。父と弟の願いを汚物入れへと投げ入れ、君を完全に、あらゆる宇宙から、痕跡も残さず消去する」
ゲームマスターの右手には、いつの間にか優のボロボロな荷物入れが握られていた。その口からは強く赤い光が漏れ出ている。
彼はそれを差し出し、言った。
「父と弟の望みだ。私に抗って見せろ」




