*12*
翳は、錆の浮いた鉄製のドアノブに手を掛けた。
その冷たさが、彼女の朦朧とした意識を現実に引き戻す。
翳は掴んだばかりのノブから手を離すと、柔らかな絨毯の上に崩れ落ちるように座り込んだ。
ここで片っ端から扉を開け始めてから、はや10年以上が過ぎた。翳の容貌に変化は全く起きていない。相変わらず小学生のような外見だ。しかしその瞳の色は濁りきり、うつむきがちでもよく動いていた表情は、冷たく無機質になっていた。
例の風見鶏が立っているヘルメットを脱ぐと、寝癖だらけの髪が中からあふれだす。着た切りらしい寝間着も、可愛らしいボールやバットの模様の上にあちこち染みが出来ていた。
無限に続くかに見える廊下は薄暗く、音もない。
そこに翳のグスグスといった静かな泣き声が響く。
どれ位そうしていただろうか。
彼女は苦悩に満ちた表情のままヘルメットを被り、よろよろと立ち上がった。そして鉄製のドアノブに手を掛け、それをひねる。その直後、むせ返るような湿気が雪崩れ込んできた。
扉の向こうには、暗い森が広がっていた。
湿地らしく、粘度の高い濃緑色の水が僅かな光を反射して揺らめいている。
翳の表情に変化はない。どちらかと言えばつまらない扉だ。もっと不快で奇妙な世界に続く扉を、これまで無数に開いてきた。
期待すらせずに、いつものルーチンワークを開始した。手鏡で頭上の風見鶏を映して頭をゆする。
もう一度。
もう一度。
・・・もう一度。
翳の死んでいた表情が、見る間に甦っていく。
風見鶏が一点を指し示している。
その意味するところがじわじわと心に落ちてくる。
全身が熱病のように震え、喜びや焦り、そして巨大な不安が翳の中で荒れ狂う。
彼女は寝間着に裸足のまま、悪臭に満ちた沼へと足を踏み入れた。
*
バルルクタイルは、ちゃぶ台に並ぶ夕食を前に頬杖をついていた。
そこは例によって彼女の宇宙だったが、かつての宮殿のごとき壮麗さは見る影もない。大理石の床には畳が何枚か敷かれ、その上にカラーボックスやらダンボール箱やらが並ぶ。挙げ句、物干し台に渡したヒモに下着やらシーツやらが吊るされ、片隅にはテントまで張られている。まるでどこぞのテーマパークに仮設された避難所の有り様だ。窓から覗く広大な宇宙の景観だけが変わらぬままだった。
何故にこれほど所帯染みてしまったのか、彼女にも分からない。紅茶を楽しむ優雅な時間が懐かしく無いとは言わないが、今の緑茶とせんべいも悪くないし、何より便利で落ち着くのが質が悪い。
そんな事を考えるとき、バルルクタイルは自分の中のツバキという存在を思い出す。彼女が頭の中で暴れなくなって久しい。というよりも、その声を聞かなくなった。
自分が彼女を制圧したのか、それともされたのか。
それにしても遅い。いつもは決まった時間に必ず戻ってくるのに。あいつを喜ばそうと思って用意したハンバーグがどんどん冷めていく。温め直せばいい話だが、それは何か違う。
翳はハンバーグ、カレーライス、エビフライ、とにかく子供のような好みをしていた。
あいつは自分が大人だと思っているが、色んな知識を与えられてはいても生まれてまだ十一年なのだ。ここでの暮らしを除けばたったの一歳でしかない。
いつの間にか世話をしてしまうのは、一緒に暮らしてあの娘が赤子に過ぎないと気付いたからかもしれない。
遅い。やはり様子を見に行くべきだ。
バルルクタイルは意を決すると立ち上がった。
*
開いた扉を前に、バルルクタイルは呆然とした。
色々な疑問が頭をよぎり、考えがまとまらない。じれた彼女もまた裸足のまま扉に飛び込むと、ガラスの床を歩くように汚水の上を渡っていく。泥の岸辺に体を引きずったような跡を見つけ、彼女は全力で走った。その速度はまさに風のようだ。
あのバカが!そして自分もバカだ!ここまであいつが追い込まれていると気づかないなんて!この宇宙の速度がどれ程か分からないが、自分の宇宙よりも遥かに遅いのは間違いない、それほど遠くには行っていないはず!
一呼吸で大気が汚染されていると分かる。
あいつも魔術の心得があるが、ここで長く命を保てるとは思えない。
前方から、植物の幹が割れる音が聞こえてきた。何か巨大なものが森をへし折りながら進んでいる。ツバキは右手から紫色に輝く一振りの剣を生み出す。それは同じ色の放電を撒き散らし、彼女の顔も染め上げた。
見えた!
氷の壁で身を護る翳の向こうに、茶色いモヤを立ち昇らせるゾウほどの大きさの泥の塊が迫っている。白く節くれだったカニのような足が無数にそれを支えており、巨体からは想像できない俊敏さだ。
ツバキは、それがどれほどの脅威なのかを測ったりしなかった。彼女は勢いを乗せて構えを引き絞ると、白熱する光と共に突きを叩き込んだ。
破裂音が何百と空間を満たし、同じ数の紫色の閃光が紫陽花のように炸裂した。それが止むと、そこには飛び散った泥を浴びた翳と、密林に穿たれた巨大な燃え盛るトンネルしか残っていなかった。
バチャッ、という音と共に、翳のすぐ隣に素足が置かれた。彼女が見上げると、ツバキの呆れ顔がそこにあった。
雨が降り注ぎはじめた。
悪臭が消えていき、パラパラと植物の葉が叩かれる音が心に染み込んでくる。
髪から滴をたらしながら、ツバキは呟くように言った。
「・・・バカタレ。メシが冷めるだろ」
翳は魂が抜けたような表情でその姿を見つめ続けていたが、やがて瞳からポロポロと涙をあふれさせはじめた。それは雨水と混じり、彼女の頬を伝って落ちていく。
「たしかに、たしかに指していたの」
震える声で、そう繰り返す。
ツバキはその言葉で全てを悟った。翳は願望に誘惑されてしまったのだろう。だが、責める気にはなれなかった。
彼女は翳の近くに落ちていたヘルメットを拾い上げると、苦笑いしながら言った。
「まったく、あいつもふざけたもんをつくるよなぁ。こんなもんでお前を探してたんだから、腹立つだろ?・・・でもよ、それくらいのふざけた心持ちでいいんだよ。あいつはしぶとい、絶対に生きてる。だから」
ツバキは翳の頭にヘルメットをかぶせると、彼女の両脇に手を差し入れて軽々と立ち上がらせた。
「諦めずにやってりゃ、いずれ会える」
人形のように持ち上げられた翳が、涙でぐちゃぐちゃな顔のまま憮然とした表情を作った。
「子供扱いしないで」
ツバキは笑い声を上げ、彼女をお姫様抱っこで抱えると元来た道を走り始めた。翳は彼女の肩を叩きながら抗議の叫びを上げる。
「ツバキ、降ろして!!歩けるって!!」
翳を無視して走り続けながら、彼女の口許には笑みが浮かんでいた。ツバキ、か。もうどっちでもいい。
そういえば、名前で呼ばれたのは十年目でやっとだな。
そう思うとおかしくて仕方がなかった。




