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扉、扉、扉、扉、扉、扉・・・・・・・・・。
翳は、赤い絨毯が敷き詰められた無限に続く廊下と、そこに無数に並ぶ扉を横目に眺めた。
彼女はたった今閉じた扉に背を向けると、隣の扉の前まで歩く。
全ての扉は様々なデザインをしている。今度の扉は色あせた緑に塗られた木製の扉だった。凝った彫刻が施されているが、長い年月を経て朽ちかけている。ドアノブは見たこともない動物の頭を模していた。彼女はそれを掴むと、ためらいなく引いた。
半ば予想していた通り、扉の向こうは薄暗い廃墟の一室だった。
抜け落ちた壁板の向こうから淡い日光が差し込んでいる。
建築様式は西洋風でも東洋風でもなく、扉同様に奇抜な装飾が梁や柱に彫りこまれている。風の音が響き、今までに嗅いだことの無い香りが漂ってくる。
翳は目の前の光景に表情も変えず、左手に持った鏡を持ち上げて自分の頭の上を映した。
そこには白いヘルメットと、その頭頂部に立っている錆びた風見鶏が映し出されていた。
翳が頭を揺すると、風見鶏がクルクルと回る。彼女はそれを確認したあと、あっさりと扉を閉じた。
隣の扉へと歩きながら、翳の顔には何の喜怒哀楽も無い。
そこにあるのは、ただ鋼鉄のような決意のみ。
*
そこは巨大な部屋だった。
天井は高く、部屋の広さから言って二階建てアパートがすっぽりと納まりそうだ。偏見だらけの中世風であり、豪華な金色の装飾が所狭しと部屋を飾っていた。大理石の床は磨きこまれ、部屋の壁に灯るランプの明かりを鏡のように映し込んでいる。
時刻は夜のようだ。一方の壁に映画スクリーンほどの大きな窓があり、その向こうには畏敬の念を抱かざるを得ない壮麗な夜空が広がっている。
部屋の中央にぽつんと置かれたソファの上で、ツバキは寛いでいた。
夜空を眺めつつ、ティーカップを口元に運ぶ。彼女は香りを一杯に吸い込み、瞼を伏せて長いまつげを震わせた。
肉体が邪魔だと思っていた自分が信じられぬ。茶が無い日々など耐えられたものではない。
その陶酔を、扉が開く音が破った。
ツバキは優雅な動きで背もたれから体を起こしつつ、音の方向へと視線を向けた。
翳が、疲労に体を折りながら扉にもたれかかっていた。一息つくと、彼女は足を引きずりながらこちらへと歩いてくる。ツバキの目が細りつつその姿を追う。
「・・・諦めるには良い頃合いではないか?」
ツバキが見つめるなか、翳はヘルメットを脱いでテーブルにそっと置くと、向かい側にあるソファに体を投げ出した。
彼女はうつ伏せたまま、投げ掛けられた問いには答えなかった。その姿を見下しつつ、ツバキが言葉を継ぐ。
「はや三年にもなろうか。そろそろ観念せよ。余も付き合うに疲れたわ」
底意地の悪い笑みを浮かべるツバキの頭の中で、同居人が抗議の叫びを上げている。
この女どもには本当に苛つかせられる。あんなつまらない男のどこに、ここまで犠牲を払う価値があるというのだ。
「一億もの扉があるのだ。中には神々に管理されていない世界がいくもある。そこであれば下らない干渉も、狂った光景も見ずに済む。汝は骸の烙印から逃れ、魂ある人として生きてゆける」
小馬鹿にするようにそう言ったあと、ツバキは再び茶に口をつけてから窓の外に目を向けた。
それっきり、沈黙が部屋を満たす。
星々の瞬く音が聞こえるほどの静寂。
どれくらい過ぎただろうか。
不意に翳がソファに顔をうずめたまま言った。
「心配しないで、諦めたりしないから」
意外な言葉にツバキは片眉を上げた。
「・・・心配?どういう意味だ」
「あなたも優さんの事が気になり始めている。当たり前よ。死ぬほど彼のことが好きな女の子が、朝から晩まで隣にいるんですもの」
ツバキはしばらく呆然としたあと、大声で笑い始めた。
「あんな醜男を好むは汝らくらいのものぞ」
翳はその言葉を鼻で笑った。
「あなた、体を捨ててるじゃない。外見なんてその程度のものなのよ。でも、心は捨てられない」
ツバキ、もといバルルクタイルは笑うのを止めて翳を見つめた。その視線には哀れみと羨望が込められていた。
「・・・度し難し。気の済むまで探し続けるがよいわ。一応教えておいてやろう。外ではまだ十分も時が過ぎておらん。お前たちの宇宙が1日も過ぎることなく全ての扉を調べる事が可能だろう。汝が折れなければな」
翳は首を巡らせ、顔をバルルクタイルに向けた。
「何百億探して見つからなくても、私は諦めない。・・・休むから、しばらく放っておいて」
彼女はそう言ってから、ソファの上で背を向けた。
バルルクタイルは苦笑し、再びカップを口許に運んだ。
不意にランプの火が消え、部屋の中を照らすのは星々からの青い光だけになった。
目を閉じ、闇に身を委ねる。
心は捨てられない、か。
数千年前に愛した男の顔は、とっくに忘れてしまっていた。
だが、彼からもらった温もりや安らぎは、いまも心に刻まれている。
そしてこれからも、ずっと消えることは無いだろう。
切羽詰って訳のわからない呼びかけに飛びついた結果、ワガママな同居人に翻弄され、思いも寄らぬ巨大な感情の波に翻弄される毎日。
バルルクタイルは、肉体に閉じ込められたそんな生活を悪くないと思い始めていた。
カップを皿に置き、部屋を見回す。
ここは、バルルクタイルが作り上げた自分専用の宇宙だ。
故郷の宇宙から処理能力を拝借していて、極限まで軽量化されたデータ量のため非常に高速に動いている。翳たちの宇宙の実に数万倍の速度だ。
彼女の知識の集大成であり、次元から次元へと渡るためのツールだった。構成するものはこの部屋と、無限に続く廊下。
一億枚の扉がその廊下に並ぶ。千枚に一枚、この部屋に戻るための扉が混じっている他は、全て他の宇宙に繋がっている。
扉やこの部屋は、元々あったものではない。バルルクタイルの故郷は混沌に支配されていた。この宇宙も、かつてはそれに倣って抽象的な存在であり、不安定さゆえ消滅の危機に瀕していた。それが翳の意識によって固定化され、今やこの有り様。お茶も夜空も楽しめるので悪い気はしない。
その一方で、移動のための扉という概念に縛られている事が気になる。もし扉というものが無い宇宙にあの男が飛ばされていたらどうなる。
いや、そんな問題など些事に過ぎない。
バルルクタイルは悲しげな瞳を白いヘルメットに向けた。
恐らく、この珍妙な道具は役に立つまい。
これがどのように働いているのかを知る術は無いが、こやつらの宇宙に属さない者まで調べる力があるとは到底思えぬ。誰かがこれを使って自分を探しても反応せぬだろう。
あの男は、砂浜に落ちた砂糖粒のようなものだ。探し出す術などない。
聡明なこの女の事だ、それを嫌というほど知っているはず。それでも尚、諦めようとしない。
何かが胸を押しつぶし、バルルクタイルはため息を吐かざるを得なかった。
一億の扉を調べる為には、百年単位の時間がかかる。あの男の事を忘れるに充分な時間だ。深い傷も癒えよう。百年という年月はそれほどまでに非情なものだ。
バルルクタイルの手には、いつの間にか純白の毛布が握られていた。彼女は立ち上がると、それで翳の体を優しく覆う。
ソファの傍らに立ったまま上半身を起こし、窓の外に視線を移す。彼女は無数の星の中に並んで輝く三つの星を見つけると、静寂の中でそれを見つめ続けた。




