*11*
「よう」
黒いダウンのロングコートに身を包んだ青年が、軽い調子で声をかけてくる。
二十歳くらいだろうか。生え際が黒くなったボサボサの金髪、耳には複数のピアス。痩せた顔に餓えたような瞳。優とは縁の無いタイプではあるが、さほどおかしな容貌というわけではない。
だが眼前の光景は明らかに異様だった。
その理由が、彼の視線が正常な空間を作り出していないからだと気づくのに少しだけ時間がかかった。こんな風景の中で平然と笑みを浮かべているのも理解できない。
「おい、俺の話してる事は伝わってんのか?」
呼び掛けられても、優は呆然としたまま動けない。その様子に青年の笑顔が苦笑いに変わっていく。
「おいおい・・・この国の貨幣に換算して一分あたり約一億円、民間最強クラスのスーパーコンピュータと比較しても六千倍のコストをかけてんだぜ?そんな贅沢をして折角会いに来たんだからさ、もう少し愛想よくしてくれてもいいんじゃねぇか?まぁ、どうせ金なんて、もうすぐケツすら拭けねぇ無意味なもんになるんだけどな」
青年は一気にまくし立ててくる。優は気圧されながらも、何とか口を開いた。
「・・・誰ですか」
青年の表情が改まる。彼はポケットから手を出して直立した。
「こりゃすまん。俺の名前はフレドリック・グリーン。フレッドと呼んでくれ。職業は兵隊。ここまで本当。今は中東で従軍中。これは嘘」
混乱した表情のまま優が自己紹介しようとするのを、彼は押しとどめる、
「知ってっから大丈夫」
「・・・日本人、じゃないですね」
フレッドはきょとんとした後、破顔した。
「いい質問をありがとう。俺は今アリゾナだよ。この男には悪いけど、ちょっと体を貸してもらってる。まぁ自殺する所だったらしいので、構わんよね」
フレッドはこちらに近づいてくる。優は思わず後ずさった。
「おいおい、逃げないでくれよ。試験内容が滞る」
「・・・試験?」
「うん。俺らが心血を注いで作り上げた「プロティノス」の実質的な初陣さ。君らはこの分野のパイオニアだし、常に先を行っていた。でも今日という記念すべき日に、ついに俺らがその遥か上を取ったってわけだ」
めまいがする。
何が起きてる。
どうしてこうなった。
優は唾を飲み込んでから口を開いた。
「米軍の人なんですか」
「ご明察、というわけでもないなぁ。ヒントを出しすぎた。まぁ正解だよ。君らはどうやら俺ら相手にドンパチやろうと思ってるらしい。一年前なら成算があっただろうけど、残念。今日を以て俺らは無敵だ」
フレッドは笑いながら優を指差す。
「さて。騙し討ちみたいで申し訳ないんだが、君にはこれから消えてもらう。安心するといい。お仲間もすぐに送る。・・・このセリフ、一度言ってみたかったんだよ」
微笑みながら彼は自分の腕に視線を落とし、そこに時計がない事に顔をしかめた。
「・・・時間だ。名残惜しいよ」
彼は見下ろしていた腕を持ち上げ、笑顔で手を振る。
「それじゃ」
その背後で真っ黒な丸い穴がゆっくりと開き、彼をすっぽりと飲み込んだ。
優は絶叫し、同時に気配を感じて振り返った。
完璧な闇が丸い口を広げ、自分に覆い被さっている所だった。
*
冷たい。
優は痙攣する瞼を持ち上げた。
跳ね返ってくる滴が目に飛び込んでくる。ぼやけた視界には、泥水に覆われた地面と、濡れて光る見慣れない形の植物が映っていた。
優は呻き声を上げながら上半身を起こした。
なんとか地面に座り込む形になると、彼は自分の体を抱きながら周囲を見回した。
そこは暗い森の中だった。時刻は明け方か、夕方か。
遠雷が聞こえる中、大粒の雨が頬や額を叩く。気温は低く、優の唇は寒さで紫に変色している。そこから白い息を吐き出すと、彼は両手を膝に置いて渾身の力と共に立ち上がった。
周囲を見渡すと、苦痛に顔を歪めながら当てずっぽうに歩き出す。行く手に立ち塞がる木々や低木は、今まで見たことがない奇妙なものばかりだった。歩行は困難を極めた。喘ぎながら進むが、薄暗い森の中に下生えが密集していて怪我がなくとも歩きづらい。
幸いなことに、森はすぐに切れた。
そこは小高い山の上だった。眼下には広大な草原が広がり、その更に先には鋸歯状の険しい山々が冷厳とそびえ立っていた。どう見ても関東平野ではない。そこに人間の営みは一切見当たらず、手付かずの自然が美しい敵意を湛えて横たわるのみ。
絶望にまみれそうになった優は、ポケットの中の紙片を思い出して目を大きく見開いた。彼が祈るようにポケットをまさぐると、それは確かにまだそこに収まっていた。震える手で紙片を取り出す。水に濡れたそれを苦労して広げると、優はそこに描かれている模様を必死に凝視した。
寒さに耐えながら、どれくらい過ぎただろうか。
優は苦悩に満ちた表情で目の前に掲げた紙片を折り畳み、それを破り捨てそうになる自分を必死に押し止めた。
期待せずに取り出したスマホは圏外を示していた。GPSも予想通り検出不能と出る。優はそれをポケットにしまい、諦めのため息をついて泥濘の上に座り込んだ。
結局、自分は何もできなかった。
それはまぁ、予定調和というか。そもそも自分ごときに何ができたとも思えない。
ここで終わったとしても、多分誰も自分を責めないだろう。
そこまで考えて、優は強く目を閉じた。
・・・だめだ。
部屋に引きこもっていた頃、いつ死んでもいいと思っていた。むしろ何かに巻き込まれて殺されたいという願望すらあった。
だけど、大事な人ができた。
その人の為に何がなんでも生きたいと思うくらいに。
優は血が出るほど唇を噛みしめ、再び立ち上がった。
彼は体を引きずるように、岩の転がる山の斜面を下り始めた。
その背中を、降りしきる雨が覆い隠していった。
第六話 おわり




