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「・・・名前を消すとどうなるんですか」
予想していなかった展開に優は身を乗り出した。それを見て気をよくしたスミレが薄い胸を張って言う。
「幽霊になる。優君だけにな」
優は目を細め、口を引き結んだ。なるほど似非関西人だ。
カエデが呆れたように説明を引き継いだ。
「優君の名前が電話帳から無くなると、この宇宙を動かしているシステムは優君の存在に気づけなくなります。何をやっているのか、どこにいるのか分からなくなってしまうんです」
彼女は優に思い出させる。
「優君、翳さんと話したことを覚えていますか」
あんなキテレツな話、そうそう忘れられるものではない。
翳の説明では、この宇宙はコンピュータゲームのように手抜きをしながら動いているらしい。
たとえば一人で部屋の机に向かっているとき、その背後にはいつもの部屋ではなく、ガランとした空間がある。誰も見ていないので細部を維持するだけ無駄だからだ。だが勉強に疲れてベッドに寝転がろうと振り向くと、そこにはベッドや漫画本が何事もなく存在している・・・詳しくは覚えていないが、大体そんな話だった。
到底受け入れられる話ではない。
翳の口から出た言葉でなければ、相手を哀れんで終わるような内容だ。
そもそも、誰も見ていない時だけ起きる事をどうやって確かめるというのだ。
そう考えたとき、優は息を飲んだ。
「・・・名前を消せば、気付かれずに見られるんですね」
カエデはうなずいた。
「その光景は衝撃的なものです。世界への信頼や愛情が失われるほどの」
「それに危険もある。システムが把握していないデータなんぞ有害なもんでしかない。増え続ければシステム自体が崩壊するねんからな。だから掃除屋がおる。あたしらはプログラミング用語を借りて、そいつらをガベージコレクタと呼んどる」
スミレは周囲に指を巡らせた。
「今もこの辺りを徘徊しとるかもしれん。システムの名簿に名前がある人間には存在を認識でけんが、名前を消したら嫌でも会えるようになる。そいつは野良データを見つけては処分していく。こういう人口密集地ではそこそこの頻度でゴミが出よるから、遭遇する率も高い」
「・・・そいつに見つかるとどうなるんですか」
「わからん。少なくとも、この宇宙からは存在が消える」
二人は口を閉ざし、優に視線を向ける。
だが、優は迷わずに彼女らに告げる。
「危険があっても構わないです。僕にそれを見せて下さい。お願いします」
*
スミレに別れを告げ、二人は再び電車で座間駅に戻った。
二人は夕闇が迫る駅前のロータリーに立っていた。
老婆の姿に戻ったカエデは、本当にらしくもなく落ち着きを失っていた。そわそわと視線を走らせ、時折祈るような視線を優に向ける。
「自分から提案しておいてなんですが・・・優君、考え直す訳にはいきませんか」
優は真剣な眼差しでその問いを受け止めた。
「考えは変わりません」
自分の目で見なければ、カエデたちと、何より翳と前に進めない。
だが実の所、優はもう半分以上はカエデたちを信じていた。ゴミのような自分をここまで時間と手間をかけて騙す理由が無いからだ。まぁ逆に説得する理由も無いんだが。
優は疑問を素直に言葉にした。
「カエデさん、なぜ僕みたいなつまらない奴にここまでしてくれるんですか」
カエデは目に見えて動揺した。
彼女はしばらくの間躊躇していたが、やがて意を決して告げた。
「・・・正直に話します。あなたが私の死んだ旦那にそっくりだからです。初めて会った時は名前を呼びそうでした。性格までそっくり。・・・もちろん、それが全てというわけではありませんよ。今は別の期待もしています」
彼女はぎこちない笑みを浮かべた。
「こんな老婆から聞いて気分のいい話じゃないでしょう。ごめんなさい。でも、きっかけはそんなつまらない理由でした。孫の好みはどうやら遺伝のようですね」
*
人口密集地は危険であり、また人の視線が多ければ世界が手を抜いている光景になかなか巡り会えない。
そういう意味では、座間という町は打ってつけだった。
優は開始の合図を受け、人の姿のない住宅街を歩いていた。
既に、周囲の光景は狂っていた。
優を取り囲んでいるのは家々ではなく、細かな部分が全て省略された直方体だ。どうやら音や光を反射する為に必要な物だけを存在させているらしい。直方体の各面は単色に塗りつぶされ、夕日が当たる部分はオレンジ色、陰の部分は濃い藍色だった。
現代美術のような風景の中を急ぎ足で歩きながら思い出す。
スミレは、5分が限度と言った。
システムの名簿から名前が消されると、スミレたちのシステムからも優を見つけることが出来なくなる。更に厄介な事に、優の名前が書かれていた欄の位置は刻々と変化する。
そのため、この世界から帰還するには、優からスミレたちに自分の欄・・・つまり、システムの中での優の居場所がどこにあるのかを教える必要があった。
方法自体は簡単だ。優はポケットの中の紙切れの存在を確かめた。それはスミレが渡してきたメモ用紙で、何やら妙な模様が描かれている。これを広げて見ると、優の精神はシステムの中で特異なパターンを作り出す。スミレたちは膨大なマシンパワーを投じてそのパターンの出現を探し続ける。
5分は、それにかかるコストやハードウェア的な限界から
導かれた時間だ。
同時に、例のガベージコレクタという危険も存在する。
聞くところによると、不法侵入者が主人格となったツバキもシステムの名簿から名前を失い、ガベージコレクタに回収される対象なのだそうだ。だが彼女の同居人は幾つもの世界に何度も不法侵入しているらしいから、あしらい方を知っているのだろう。
優はそうもいかない。見つかったら誰の助けも期待できない。逃走に失敗したら終わりだ。
ガベージコレクタの姿形はその時々で変わるらしい。厄介な話だ。だが一目で分かるはずだとスミレが太鼓判を押してくれていた。それを信じて、注意するしかない。
そんなことを考えつつ公園らしい広場に差し掛かった優は、短い叫びを上げて立ち止まった。自分の周囲に唐突に正常な領域が現れたからだ。まるで闇夜の中で強烈なサーチライトを向けられたかのようだった。
その現象の源には、薄汚れたコートと帽子姿の壮年の男性がいた。さっきまで誰も居なかったはずだ。それが証拠に正常な空間も今まで無かった。
男性は公園のベンチに座り、入り込んできた優につまらなそうな視線を向けている。
優が愕然とした表情で見返してくるので、彼は怪訝な表情で居心地が悪そうに視線を外すと、ベンチに深くもたれ掛かって帽子を目深に被った。
それと同時だった。男性の姿が、彼が照らし出した公園の一部と共に何の前触れもなく消えた。
優の心が急激に冷えていく。
彼は翳の孤独をはっきりと理解した。
立っていられず、彼は青ざめながらしゃがみ込んだ。
どれ位そうしていただろうか。唐突に背後で気配がした。
我に返った優は弾かれたかのように起き上がり、慌てて振り返った。
そこには一人の青年が立っていた。




