*5*
魔法使いの儀式、とやらが何なのかは結局分からなかったが、よい休憩時間になった。
今になって体のあちこちが痛くなってくる。
40分ほど過ぎたころに、もういいですよという翳の声が外から聞こえ、優は部屋を出た。
居間に戻ると、翳は優に宣言した。
「そのキジマとかいうクソ野郎に、私も一緒に会います」
可愛らしい口から、まさかクソ野郎という言葉が転がり出てくるとは思わなかった。
いつもと同じ表情なのだが、もしかしたら怒っているのかもしれない。
「え、えええ!?ダメだよ!」
「いいえ、決めました」
いつもダルそうな翳の目が、よく見ると少しばかりやる気を湛えている。
気持ちは嬉しかったが、やはり彼女を木島に関わらせるなど言語道断だ。
優は無難な理由をひねり出した。
「・・・うれしいんだけど、やっぱり無理だよ。昼休みだったとしても、校内に勝手に入ったら問題になると思うよ」
そう言われて、翳は気勢を削がれる。
「・・・無理ですか、ジャージを借りて変装とかしたら、いけると思うんですが」
自分のブカブカなジャージを着ている翳の姿を想像し、猛烈に熱い物がこみ上げてくる。
今度着てもらおう。
「ありがとう。でも、渡す物を渡せば普通に帰れると思うから」
その言葉を聞いて翳はしばらく沈黙していたが、やがてため息をつき、口を開いた。
「では、奴にはこのバッグを渡してください」
翳は、先ほどのガラクタが詰まったバッグを優に手渡した。
「絶対に開けないでくださいよ。それをそのまんま渡して欲しいんです」
優は困惑した。ガラクタなんぞを渡せば何をされるか分からない。
しかし翳の真剣な表情を見ていると、頷かざるを得なかった。
「わかった・・・」
その言葉に、翳の雰囲気が少しばかり緩んだ。
「じゃあ、片付けをしますか」
彼女は荒れ放題の台所を何とかすべく、セーターの袖をまくった。その時だった。
「なにこれ」
台所から、涼しげな声が聞こえた。
優の全身の毛穴が閉じる。
彼はゆっくりと、台所へと視線を向けた。
妹の廻が、いつの間にか流し台を見下ろしながら、こちらに背中を向けて立っていた。
アドレナリン過多で赤みがかった長い髪。それを頭の両側から下げている。
背は優よりも高く、160cm程度。
小さな頭、流麗なカーブで形作られた長い手足、細く脆そうなウェスト。
そこに優との共通バーツは一切使われていなかった。
自分ですら、妹と自分が同じDNAから作られたという事が信じられない。
今はあちらを向いているが、背中に漂う空気から、その顔に憤怒の表情が浮かんでいることは容易に想像できた。優は隣に立つ翳の肩に手を置いた。
「逃げて」
「え・・・?」
「今から妹にお仕置きされるっぽいんで、とばっちり食わないうちに逃げて」
怯える優の表情を見て、翳は事情を察した。
「ご愁傷様です・・・。ラインのアカウント情報送っておきます」
「おねがいします」
翳は伏し目がちにコートとバッグを手に取ると、廻に会釈してそそくさと脱出していった。
高校生の不良を向こうに回すほどの度胸を以ってしても、廻が放つ危険なオーラには抗し得ないと悟ったのであろう。
廻は右の拳を左手の平に打ちつけながら、のしのしとこちらに歩いてくる。
道行く人誰もが振り返るようなその整った顔が、今は怒りにゆがんでいた。
優は目を潤ませながら覚悟を決めた。
*
半年振りに袖を通した学生服は、カビ臭くなっていた。
優はその臭いと、一日過ぎてもまだ痛む頬にウンザリしながら、昼下がりの学校への道のりをトボトボと歩いていた。
どうせ留年決定なのだから、朝から登校する必要などない。
いつも通りカツ上げ現場の自転車置き場に行き、いつもどおりカツ上げされて帰るだけだ。
木島の要求は最初の頃は金銭だったが、優に金がなくなると、今度は借りると称して優のコレクションであるアニメグッズやゲームソフトを求めるようになった。
中古で売ればかなりの値がつくものがあったらしい。木島は完全に味をしめてしまった。
その上納品が、今回は何とガラクタである。
優は、手に持ったバッグを恨めしげに見下ろした。
翳があれほど真剣に用意してくれた物だから、これを渡した結果ボコられてもいいやと思っているのだが、気が重くなることばかりは仕方がなかった。
翳は自分に、木島の言いなりになるつもりはない、と宣言させたいのだろう。
そして自分一人にそれをさせるのは酷だから、一緒に木島を説得しようとして、あんな提案をしたのだと思う。
優はため息をついた。翳は分かっていない。ああいう手合に反抗や説得は逆効果なのだ。
そんな事をしても、連中は血の匂いを嗅いだサメのように興奮して凶暴になるだけである。
ともかく、翳を木島に関わらせる事態だけは避けなければ。
それにしても。優は頬をさすった。
昨日の廻の折檻はすさまじかった。
自分でなければ病院送りになっても不思議ではない。
そのあとの台所掃除がまた大変だった。
鍋を洗っている間は、敏感すぎる爆弾を処理しているような気分だった。
うっかりガスを吸い込んで廻の前で裸踊りなどを始めた日には、本当に殺されかねない。
そんなことを考えている内に、校門にたどり着いてしまった。
昼休みのグラウンドでは、元気を余らせた学生たちが体を動かしている。
優はため息をまた一つつくと、しぶしぶ校門をくぐった。
*
校舎の日陰にある自転車置き場は、古びたトタン屋根に覆われていた。
自転車は乱雑に並び、粗大ゴミ置き場と言われても違和感がない。
木島は、その最奥にウンコ座りしていた。
優が近づいてくる事に気付くと木島は無言で立ち上がり、右手を無造作に差しだした。
握手したいわけではない。さっさと寄越せと言っているのだ。
優は木島の前まで歩くと、半ばヤケクソになってバッグを差しだした。
ぎっしり詰まったガラクタを見て、木島は間違いなく怒り狂うだろう。
もしかしたら家に押しかけ、妹に目を付ける可能性すらある。
優は手を引っ込める衝動に駆られるが、木島はそれより早くバッグをひったくっていた。
木島がバッグのジッパーを開いていく。その片眉がつり上がった。
彼はバッグの中に手を入れると、そこに入っていた布切れを引きずり出した。
すくみずアクアマリンだった。
そういや、こんなのあったな。
「なんだこりゃ」
邪悪な笑みが、木島の顔に浮かんだ。
優は体を固くした。こういう時の木島は、限度の無い残忍さを発揮する。
優の脳裏に、青いタイルのトイレや便器の中の水面、ホッチキスの針、シャープペンシルの先端などの映像が閃光のように現れては消えていく。
生存本能が、彼の足を激しく震わせ始めた。
木島が一歩、こちらに踏み出した。優は小さく悲鳴を上げた。
「おい、こりゃどういう・・・」
そういい掛けた木島の顔面で、突然に液体が炸裂した。
優は呆然とした。その背後で土を踏む音が聞こえ、彼は振り返った。
そこには、他校のジャージに身を包み、ドヤ顔でピッチングモーションを終えている翳がいた。
彼女は地面に置いた大きなバッグに手を突っ込み、液体の詰まった風船を取り出す。そして大きく振りかぶると、小さな体からは想像もできない豪快な投球モーションで木島にそれを投げつけた。
直後、水が炸裂する音がする。
「ストライッ!!」
翳は嬉しそうにそう宣言してから、首から提げていた不相応にどデカいカメラを構えた。
優は恐る恐る木島を振り返った。
翳が投げた二個目の水爆弾は、スクール水着に命中したようだ。ポタポタと液体が滴っている。
木島はそれを手に持ったまま、動きを止めていた。
時間の流れが異様に遅く感じる。数秒間が数分に感じるほどだ。
翳が切ったシャッターの音が、長く引き伸ばされて聞こえる。
優はそんなスローモーションの世界の中で、翳と共にすぐにでもここから逃走すべきだと判断した。彼は翳の方へ向き直ろうとした。
その時だった。
「母なる海に輝くみなも!オーシャンストリーム!すくみず!アクアマリン!!」
やけに良い声が響いた。
優は耳を疑った。木島の声だったからだ。
それは、すくみずブルーが変身するときに叫ぶお約束のセリフ。
本物のファンでなければ、ここまで完璧にコールできないはずだ。
その直後、翳のカメラが猛烈な連写を開始した。
シャッター音を浴びながら木島が学生服を華麗に脱ぎ、流れるようにスクール水着に収まる。
それが完了すると、木島はポーズを取った。
木島じゃなかったら本当に可愛いと思えるほど完成度が高い。
翳のカメラが、場をさらに盛り上げるように盛大なフラッシュを焚き始めた。
反射する光を浴びながら、優は、知らない間に尻もちをついていた。
彼は理解した。木島は同類・・・同じ趣味を共有していたのだと。
優から奪っていたグッズは、恐らく売られること無く木島の部屋に飾られているに違いない。
そんな悟りに優が愕然としている間も、翳はカメラマンがヌードモデルをなめ回すように、あらゆる角度から木島を撮りまくっていた。
ポーズの時間が終了したのだろうか。突然、木島は猛スピードで走り始めた。
体力テストの時は、あんなに速くなかったはずだ。
木島は未だシャッターを切り続ける翳の脇を通り抜け、グラウンドの方へと走っていく。
翳はカメラを下ろしてバッグの中をゴソゴソ探ると、バズーカ砲のように巨大な白いレンズを取り出し、素早くカメラに装着した。
彼女は地面に伏せると、またも雨あられとシャッターを切り始めた。
「・・・おお・・・おおお・・・」
翳が感嘆の声を上げながらレンズを覗いている。
優の目では、遠すぎて何が起きているのかわからない。
「おおお・・・あ、男子生徒を押し倒して・・・あ、あああ!!これはいけない!!」
そう言いながら連写を止めない。
「ああああ~~~!!ダメです!ほんとにダメ!!」
「あ、他の生徒達に取り押さえられた」
翳はシャッターボタンから指を離した。
彼女は急にすっくと立ち上がると、ジャージについた土をパンパンと払った。
そしてバズーカ砲をカメラから外して悠々とバッグに納めると、落ち着き払って優に言った。
「帰りましょう」
優は彼女が差し出した手をとり、生まれたての小鹿のように足を震わせながら立ち上がった。