*7*
ツバキの実家に帰りついた頃には、時刻は夜の八時を回っていた。
優は靴を脱ぐや否や、カエデの部屋に向かって大股で廊下を歩き出した。その目は怒りに燃え、殴り込みに近い勢いだった。
「優さん」
まだ玄関に立っている翳が背後から呼び止める。優は振り返りざまに声を上げた。
「翳ちゃん、あとで部屋に行く!」
心配げな表情だった翳の顔に明かりが灯った。彼女は胸の前で小さく手を振り、優を見送った。
カエデの部屋に続く廊下に差し掛かった優は、二人の和服姿の女性が仁王立ちで行く手を塞いでいるのを目にした。大柄で、男らしさすら漂っている。どうやらここを警護している様子だ。
優は彼女らの前に立つと、カエデに会いたい旨を伝えた。それを聞いたとたん、片方の女性の顔に険悪な表情が浮かんだ。
「・・・お前、いくらなんでも気安すぎるだろう。どれだけ長い列が順番待ちをしていると思っている」
もう一人の女性は多少同情的だった。
「カエデ様はご不在だ。しばらくお戻りにはならないと思う。まあ、今日はあきらめな。伝えてはおくから」
優はいからせていた肩を落とした。こうなっては手詰まりだ。彼は痛みすら感じる激しい焦りと苦闘しつつ、重い足取りで廊下を戻り始めた。ただの老婆だとは思っていなかったが、やはり大層な相手らしい。優は歩きながら考える。このまま何ヶ月も会えなかったらどうしたらいい。こんな苦痛にずっと耐えろってのか。
「どうした、そんな顔をして」
自分の部屋の前に差し掛かったとき、廊下の向こうから聞き慣れた声が響いた。つららがどてらを羽織って立っている。いつものように遊びに来たようだ。優は深刻な表情を振り払い、努めて明るい声を出した。
「つららか。カエデさんに会いたいんだけど、いなくってさ。参ったよ」
「あの婆さんか。あまり目にせんな。まあ、日を改めればよいではないか」
そう言いつつ先に部屋に入ろうとする。その姿を見ながら、優の脳裏に考えがひらめいた。つららを翳に紹介してやろう。自分の周りには何故かイカレた連中が寄ってくるが、皆自分とは気が合う。翳とも仲良くなってくれるはずだ。
ひどい分類をされているとも知らず、つららは彼の誘いに二つ返事で乗ってきた。
*
襖の前で、優は部屋の中の翳に呼びかけた。中から弾んだ声で返事が聞こえ、彼は襖を開いた。
優の姿を見るなり、可憐な寝巻き姿の翳がヒマワリのように顔を輝かせた。だが彼の背後から見知らぬ子供がひょっこりと現れたとたん、その表情は見る間に困惑に変わっていく。そんな・・・と顔に書いてあった。
つららもまた、困惑の表情を浮かべた。
「・・・優よ、わしは邪魔だったのではないか」
怯えたような声でそうささやく。それを聞き取った翳は慌てて笑顔を取り繕うと、部屋の奥から今日の菓子の残りを取ってきて、急いでつららに差し出した。
車座で茶を飲みながら、空気は和やかだった。翳は昼間の取り乱した姿が嘘のようだ。出会いはああだったが、つららとの会話も心から楽しんでいるように見える。やはり彼女の混乱は一時のものだろう。優はそう結論づけて安堵した。
菓子が尽きて夜も遅くなってきた頃に、二人は翳の部屋を退出した。見送る翳を背に廊下を歩きつつ、優は新しい友人を彼女に紹介できた事に満足していた。しかし当の友人は短時間でゲッソリとやつれ果てている。
「・・・お前は本っ当に最低だ。馬に蹴り殺されたあと食われたほうがよいわ」
吐き捨てるようにつららがそう言った。
あまりに心外な言葉に、優は狼狽する。
「なんだよ」
「あの娘がお前と二人きりになりたがっていた事に気づかなんだのか?もし気づいておらんのなら、お前は肥溜めから何杯かすくって頭に詰めたほうが、なんぼかマシになれるわ。途中で抜け出そうとする儂を何度も邪魔しくさりおってからに。くたばるがいいわ!!」
言いすぎだろう・・・。
だが、さすがにそれくらいは感じ取っていた。
今はだめだ。翳が冷静になるまで、少しだけ距離を保ったほうがいい。気の迷いで間違いがあっては取り返しがつかないからだ。あの様子ならば、そばに居なくてもそれほど心配はいらないだろう。
優の頭の中は、カエデを締め上げて翳の妄想を全否定させるという考えだけに支配されていた。翳を救うには、それしか方法がない。
*
丸二日もかかってしまった。
ようやく捕まえたカエデは、のんきな表情を浮かべてコタツの向こうに座っている。面会を果たすまでの二日間、優は翳と適度な距離を保つように神経を尖らせ、このところあまり眠れていなかった。
「お忙しいところ、すみません」
寝不足で荒んだ表情の優は、深々と頭を下げた。二日空けたのは結果的によかったかもしれない。彼はだいぶ冷静になっていた。
「将来の義理の孫が会いたいと言うのです。多少の無理は聞きますよ」
カエデは笑顔を浮かべた。
そういえば、そんな話を人づてに耳にしたことがある。自分をツバキの婿にという事らしいが、どうしてそうなった。
優の表情が曇る。彼は言いにくそうに話し始めた。
「カエデさんが全部冗談で言ってたのなら恥ずかしいんですけど・・・僕はもう決めた人がいます。だから婿入りはできないです」
老婆はうなずいた。
「相手は翳さん」
優は体を起こし、はっきりと首を縦に振った。
「はい」
「・・・翳さんから話は聞きましたか」
優は体を前に乗り出した。
「僕が会いたいとお願いしたのは、その話をするためです。翳は妙な思い込みで苦しんでます」
言いながら怒りが湧き上がってきた。優はなんとか震える体を鎮めつつ、言葉を継いだ。
「なんで、あんな滅茶苦茶な事を翳に吹き込んだりしたんですか。いくら敵だと思っているにしてもあまりに酷すぎる!今すぐ嘘だと伝えて、あいつを苦しみから解放してやってください」
穏やかだったカエデの表情が、優の言葉を聞きながら見る間に固くなっていく。彼女は丸めていた背中をまっすぐに伸ばして侘ずまいを正すと、優をしっかと見据えた。
「優君。翳さんはどの程度まであなたに話をしたのですか」
優は翳との会話を、覚えている範囲で全てツバキに話して聞かせた。その口調は刺々しく、話しているというよりも、なじっているという方が近い。
その全てを聞き終わったツバキの顔には、一切の表情が無かった。
彼女はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「・・・あなたを見損ないました、優君。いい加減、逃げるのをやめなさい」
部屋に響いた老婆の声は、冷たいなどというものではなかった。それはまるで刃物のように優の体を萎縮させた。優は辛うじて彼女の目から視線を外さずに済んだが、怯えのためだろうか、反論のための声が出せない。
「自分に与えられた能力から。そして、この世の終わりから。君はいずれも受け止められずに逃げ続けている。それは仕方がない。誰にも責める事はできません。ですが、絶対に逃げてはならない事があるのです」
カエデの瞳は怒りに満ちていた。彼女はそれをまっすぐ優に据え、容赦なく言葉を浴びせ続ける。
「しかし、あなたはそれから逃げている。向き合うべき事から目を背け、私に騙されているという都合のいい願望に逃げ込んで」
老婆は立ち上がった。その圧力はこちらに転がってくる巨石のようだ。
「あなたは翳さんと将来を約束したようですが、彼女の抱える苦しみを深く理解した上で決断したのですか?違う!!それどころか理解した先に辿りつく絶望を恐れ、頭から否定するだけ。翳さんのためではない。何もかも自分のため。我が身を守るためにです」
怒りのあまりそこで言葉を切り、彼女は一見して分かるほど努力して気持ちを鎮め始めた。
しばらくの沈黙のあと、凍りつく優を前にして彼女は言葉を続けた。
「そんな男が、あの娘の残りわずかな人生を幸せなものにできると思いますか。伴侶の苦難から目を反らし、自分への優しさを他者への愛と履き違えている男に、何ができるというのです」
老婆は呆然とする優を横目に部屋を横切ると、襖の前に立った。
「私はこう見えても女です。だから翳さんの心が裏切られている有り様に、本当に我慢なりません。これでは彼女があまりに不憫です」
彼女の背中からは、らしくない迷いが感じ取られた。しばらくの沈黙のあと、彼女は決心したように振り返り、優に視線を定めた。
「こんな事に使うのは本当に愚かですが・・・ついて来なさい。あなたの逃げ道を完全に塞いで差し上げます」
老婆は怒りを叩きつけるようにそう宣言すると、襖を勢い良く開け放った。




