*5*
翳との面会が許されたのは、すっかり暗くなった夜の事だった。
もたつく手で襖を開けると、その向こうの部屋では浴衣姿の翳が布団の上で身を起こしていた。背中を丸めた彼女の表情は虚ろで、視線はもつれた指に落ちている。
だが喜びのあまり、優の目にはその異変が映っていなかった。彼は畳の上を走って翳の隣に膝をつくと、何も考えずに彼女の体を力一杯抱き寄せてしまっていた。
「翳ちゃん!よかった、ほんとに」
優の涙と鼻水で翳の浴衣がどんどん濡れていく。その温かさが命を吹き込んだかのように、翳の瞳に光が戻り始めた。
「・・・優さん、息ができません」
翳は微笑みながら優の腕に手を置いた。優は慌てて体を離すと、彼女の両肩を掴んだまま泣き顔とも笑顔とも取れる表情を浮かべた。
その顔を儚げな笑顔で見つめながら、翳はつぶやく。
「・・・やっぱり、あなたがいないとダメみたい。さっきまで消えてしまいたかったのに、今はずっと生きていたいもの」
優の表情が一瞬で強ばった。
「カエデさんが何か言ったのか?あんな馬鹿げた話、僕たちには関係ないだろ。野球に勉強に、あと町を散歩して写真を撮ったり、これから二人でやることいっぱいだ。そんなの忙しくて関わってられるか」
その言葉に目を丸くすると、翳は抑えた笑い声を上げた。
やがて二人の笑い声がひとしきり収まると、翳は優をまっすぐに見つめながら口を開いた。
「優さん、お願いがあります」
*
ヤビツ峠に向かうバスは、なんと日に二本しか無い。しかも到着時刻が午前九時と午後三時という何とも微妙な時間だ。その午前の便に、二人は並んで乗り込んでいた。平日なのに登山客らしき同乗者が結構な人数おり、車内はそこそこ騒がしかった。
カエデは二人が外出することを物凄く渋った。だが優の熱意に根負けし、結局は許してくれた。目的地は翳の実家だ。聞くところによると、一年ほど帰っていないらしい。
優は隣を見た。窓越しに曇り空を眺める翳の表情は固かった。時々優が差し出す菓子類を受け取っては無理に笑顔を作るが、何も口に運ばずただ苦痛に耐えるような視線を流れ行く景色に向けるばかりだった。
「ツバキさんのこと・・・」
ふと翳がつぶやき、優は視線を向けた。
彼女はこちらに向き直っていた。
「ツバキさんのこと、なんとか償いたいと思ってます」
バスの騒音にかき消されそうな声だった。優はしばらく黙っていたが、考えをまとめると口を開いた。
「あいつ、地獄の公爵を自称するイカレた奴に取りつかれてるらしいけど、ツバキはそいつと結構うまくやってるらしい。ほんと変な奴だよ」
優は短く笑い声を上げた。
「・・・翳ちゃん、あいつが困ってたら、精一杯助けよう。僕は一生、そうしようと思ってる」
バスが急な坂に差し掛かり、騒音がひときわ激しくなった。
席のなかで揺すられている翳の表情はますます苦痛に満ちていったが、ややあって大きく頷いた。
やがて終着点に到着する旨のアナウンスが響き、バスは重々しく停車した。二人が降り立った場所は、森の中に作られた駐車場だった。登山客たちが三々五々と歩き去っていく。
「行きましょう」
翳は緊張に満ちた表情で歩きはじめた。
実家に戻るだけだというのに、なぜだろう。優は不安が高まるのを感じながら彼女を追った。
アスファルトの道をかなりの時間歩いた後、翳は一本の脇道で進路を変えた。そこは今までとは打って変わって、白とベージュ色のタイルが模様を作るタイル張りの道になっていた。だが色褪せたタイルの殆どは砕け、かなりの枚数が失われている。
前を行く翳の表情は見えないが、その背中から緊張が強く漂ってくる。優は何度か声を掛けようとして思い止まっていた。やがて道は野生に戻る直前の生け垣を回り込み、家の敷地に入っていく。
目の前に現れた家は、完全に廃墟だった。
人が住まなくなってかなりの年月が過ぎている事が伺える。扉が失われた入り口を、干からびた背の高い雑草が完全に塞いでしまっていた。優は枯れたススキを掻き分け、ぽっかりと口を開けた縁側から家のなかを覗き込んだ。
天井の板が落ち、畳のない床板には穴が開いている。
少なくとも十年単位で人が住んでいない気配だ。
「・・・優さん、手を握ってください」
消え入りそうな声に振り返った優は、真っ青な顔をした翳を目のあたりにした。彼は急いで彼女の許へと駆け寄ると、その肩を引き寄せた。
二人はしばらくそのまま動かなかった。遠くで鳥が鳴き、風の音が山鳴りのように響いている。翳の息が荒い。優はそれを鎮めるかのように、彼女を引き寄せる力を強めた。
「・・・そこまでしろとは言ってないです」
翳が疲れはてた笑顔で優を見上げていた。鼻と鼻がつきそうな距離だ。優はゆっくりと身を離した。
「つまらないことにつき合わせてしまいました。帰りましょう、優さん」
翳は踵を返すと歩きはじめた。
*
バス停の所まで戻ってきた。次のバスは四時間後だ。
「折角来たのだし、ハイキングがてら歩いて帰りませんか」
翳が無理矢理な笑顔でそう言った。優も何とか笑顔を作って頷く。
雲の合間から太陽が覗き始めた。
山々に光の柱が落ち、くっきりと光の円を山肌に描いている。二人は長い間無言で歩いていた。
このまま、なにも話さずに日常に戻って行きたかった。
だが、その願いは叶わなかった。翳が口を開き、聞きたくない事を淡々と語り始めたからだった。




