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ストーブの上でヤカンが蒸気を吐いている。
質素な和室に響く音は他にない。
ツバキは、こたつを前にして借りてきた猫のように座っていた。
その正面にはカエデが座っている。
彼は困り果てていた。
目の前の老婆は今の自分より確実に弱い。なんならこれが一千人襲い掛かってきても勝てる自信がある。だが、どうしても強く出られない。怯えという感情を忘れている彼はその正体がわからず、ただただ不快だった。
「おかえり、ツバキ」
老婆は満面の笑みを浮かべて言った。
「もう会えないと覚悟していた。だから、本当に嬉しいよ。優君のおかけだ」
老婆の目尻がわずかに濡れて光っている。同居人が激しく動揺し、それが彼にも伝染した。二人は恐れのあまり身じろぎした。
「・・・余はバルルクタイル、かつて地獄の十分の一を支配した公爵である。その名以外で余を呼ぶことは許さぬ」
「いいえ。他人がどう呼ぼうと、あなたは私の孫のツバキです」
精一杯の虚勢を張って命じたバルルクタイルに、老婆は平然とそう答えた。苛立ちと羞恥心が膨れ上がっていく。
「確かにツバキという娘は我が身に共に宿っておる。だがこの体は余の物である!そう契約が成されたのだ」
「けっこう。ですが私にとってあなたがツバキである事に変わりありません。あなたとツバキ、いずれお互いの境界がなくなり、一つになる日が来るでしょう。今はすこしばかり具合を悪くしている。それだけの話です」
老婆の豪胆な言葉が、彼の怒気を抜いてしまった。
「・・・ずいぶんと乱暴な考えではないか。そうなれば、もはや別人とは思わぬのか」
「あなたから少しばかり強い影響を受けただけです。世間では中二病と呼ぶらしいですよ」
「なんだそれは」
「軽い病気です」
「は!余はこの娘の病気だと申すか」
カエデは朗らかに笑った。
「地獄の公爵を自称する中学生ですものね。病気でしょう。しかし、あなたは私の孫と印象がそっくりです。今も、あまり変わっていないと思いますよ」
老婆はどうやら本気で大したことではないと思っているらしい。
妙な次元に来てしまった。羊の群れに狼として君臨したつもりだったが、どうやらこの羊は狼を恐れぬばかりか、軽く狩って毛皮に加工するくらいのようだ。
「・・・汝は何者なのだ。余を前にして動じもせん。説明が必要か?」
「あなたの事はもちろん存じておりますし、ここの居候に、あなたの同郷の者もおりますよ」
カエデは茶をすすり、嘆きともとれる息を吐いた。
「あなた方の宇宙は混沌に傾きすぎてもはや形を保てなくなってしまった。私達の宇宙はその逆で、理に傾きすぎて硬直を目前にしている。幸い、この宇宙が生き残る算段はまだ残っています。せっかくここにたどり着いたのに、あと200日とちょっとしか楽しめないでは、残念ではありませんか?」
バルルクタイルは嘲りの表情をツバキの顔に浮かべた。
「は!余を篭絡しようとか。汝はまことに恐れを知らぬわ。あの醜い餓鬼を抱き込んだのもそれが目的か」
「いいえ。優君を大事に思っているのは本当です。孫が本気で好いておるのですからね。婿にと考えておるほどですよ」
その言葉を聞いたとたん、バルルクタイルは目の前が真っ白になった。動悸が爆発的に高まり、顔が燃え上がるように熱くなる。
「鎮まらんか!!」
叫んでみても効果が無い。
身に覚えの無い幸福感や興奮ほど不快なものはない。彼はあらゆる喜びの混ぜ物を強制的に浴びせられ続けた。汚物を投げつけられるほうがマシだ。
「篭絡などせずとも、汝は既に余の命を手中に収めておろうが!望みのまま弄ぶがよいわ!!」
彼は老婆に白々しいとばかりに怒鳴った。それに全く動じぬまま、老婆は湯飲みを口に運んで一息つく。
「・・・孫を束縛したりはしませんよ。もちろん、好きな時に出て行ってかまいません。本当は門限を守って欲しいんですが、反抗期のようですし。まあ、いつでも好きな時に帰ってきなさい。優君には手出し無用ですよ。そういうのは結婚してからです」
同居人が結婚という単語にまたぞろ過剰反応している。
やっておれぬ。
バルルクタイルはすっくと立ち上がった。
「・・・最後にもう一度聞く。汝は何者だ」
カエデはしばらく口を閉ざしていたが、やがて彼を見上げながら言った。
「・・・私も、あなたと同い年くらいだと思います。百年単位でですが。思い出話は、また来た時に聞かせてあげますよ」
*
優とつららは、カエデの部屋に押しかけていた。あんなメッセージを送ってきたのだ。優の返事に従い、ツバキはここに来たに違いない。
「ええ、来ましたよ。すぐに帰ってしまいましたが」
優はなんで自分を呼んでくれないんだと叫びそうになり、なんとか自制した。家族でもない自分にそんな権利など無い。
「なんで呼んでくれんのじゃ!!」
かわりにつららがそう叫んでしまった。複雑な気分だ。
「あなたはともかく、優君をここに呼んだら荒事になりそうでしたからね。私も孫を叩き伏せたくはありませんから」
そう言って老婆は笑う。その表情は明るく、昨日まで背負っていた陰鬱さや悲痛さは影も形もなかった。
「・・・元気そうだったみたいですね」
「ええ、あなたのお陰です」
彼女は和やかな笑顔を浮かべた。
常に心に大きな影を落としている心配が、少しばかり軽くなる。優もいつの間にか笑顔になっていた。
「そういえば、優君。翳さんを目覚めさせる作業が明日の夕方には終わるという連絡がありました。全て順調です。あなたが再会する前に、私の方から彼女に状況を説明したいのですが、かまいませんか?」
「僕も同席してよいですか?」
老婆は少しばかり考えてから、申し訳なさそうに首を振った。
「いえ、彼女の事を考えれば、私一人で話したほうがよいでしょう。あなたに聞かれたいとは限らない事もあるでしょうし。必要だと思ったなら、自分からあなたに話すと思います」
そう言われては、引き下がらざるを得なかった。




