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夜の空の向こうから、街の光に照らされた雪がまばらに吹き散らされてくる。
ツバキは、三百メートルはあろうかという鉄塔の上に立っていた。
この高さでは、真冬の風は鋭利なナイフと化す。だが彼女の髪や服はそれにまったくなびかず、らんらんと輝く双眸はしっかりと開かれていた。
見下ろす街の光、その複雑な動きが、彼女の乱れに乱れた心を紛らわしている。なんとも平和な世界だ。寿命の一秒一秒を勝ち取らねばならない地獄とは文字通り天地の差がある。あくびでもしながら和むべき光景。それが今、彼女をなんとか怒りから遠ざけている。
だが分かっている。この束の間の心の凪ぎはどうせまたすぐに荒れ模様になるのだ。
「・・・あの餓鬼が・・・」
すぐどころではなかった。早くも羞恥心と怒りで体が燃え盛っていく。
「あの餓鬼が!!汚物が詰まった皮袋めが!!!」
優の背中に回した手の感触と、近づいてくる不細工な唇。もはや心の傷と言っていい。足元の鉄塔を引っこ抜き、街に叩き付ける衝動にかられる。かつての自分ならば可能だったであろうが、この体に収まっている今では、そんな力など発揮できない。だが、これを使えば話は変わる。
彼は、胸の上で紅く輝くペンダントをきつく掴んだ。
この程度の街ならば、完全な更地に出来る。まったくの無意味な行為だが、想像すると少しだけ胸がすく思いができた。
不快な光景をなんとか思考の外に追い立てると、今度は決まって別の景色が胸をよぎる。
紫色の草原と、青く燃える太陽、隣に横たわる者。
あの時、彼は思い出していた。隣に横たわっていた人物が男性だという事を。かつて自分が激しく愛した男。だが彼を失ってからつづく数千年の苛烈な日々が、大切だった記憶を風化させ、本来の性別すら捨てさせた。その上肉体まで失っては、もはや男か女かなどには意味など無い。
「・・・余はバルルクタイル、地獄の公爵が一柱」
ツバキは立ち上がった。
「かつて数万の骸の上に胡坐を掻いた余が、かような些事に惑わされる必要などあるものか」
そして無理に笑い声を上げようとしたとたん、再びフラッシュバックに襲われる。心の中で、彼女がゲラゲラと笑っているのが分かる。忌々しい・・・あまりに忌々しい!!あの役立たずの女が奴を殺し損なったは幸いやもしれん、自分であの下等生物に手を下さねば、この屈辱は雪ぎようがない。
「今すぐにでも・・・奴の首をねじ切らねば」
ツバキは赤面した顔に陰険な笑顔を浮かべると、ポケットから携帯を取り出してラインを起動した。
「うるさい。ある道具は使わねばならんだろうが」
同居人の揶揄にそう言い捨てると、バルルクタイルは慣れない手つきでメッセージを入力しはじめた。
*
昨日から、優はカエデの屋敷に住み込みで働いている。
廻には、例のアゴの施設が多少人道的になったようなものに拉致された、勉強させられているだけなので心配しないでくれ、と伝えてあった。嘘は言ってない。
働くといっても何か労役を課されている訳ではなく、ここの住人との顔合わせや、施設の案内をしてもらう程度の事しかやっていない。優をここでの生活に慣らすべく取り計らっているようだった。
翳はまだ目を覚まさない。あと数日はかかるとのことだ。
それまでの間、ここの情報を可能な限り入手するのは悪くない。
そんな暮らしを始めてたった二日目だが、優は軍隊と一戦交えるという老婆の言葉が案外現実的だと思うようになってしまっていた。実際、これほどの戦力があればどこぞの小国などあっという間に制圧してしまうだろう。
この広大な屋敷は氷山の一角だ。地下には悪の組織ばりの、唖然とするほど巨大な施設が広がっている。そこで何をやっているかと言えば、魔法の実験やら魔獣の召喚やら、言葉にするとバカみたいだが、目の当たりにすると失禁せざるを得ない事ばかりである。
実際、優は下着を何度か濡らしてしまっていた。
鉄のようなウロコを持つ山のようにバカでかいトカゲを見て、大なり小なり漏らさない奴など絶対に居ない。そんなイカレた代物がゴマンと並んでいるのだ。こいつら相手にケンカを売っていたナギの一族の正気を疑う。
だが例え老婆の計画が絵空事ではなかったとしても、それはやはり狂っているのだ。優は彼らの暴力に対する信奉が恐ろしかった。
一つの街とも言えるこの施設には、多数の人間が往来していた。例外なく、どいつもこいつも奇人変人ばかりだった。優もどちらかと言えば彼ら寄りの人間だが、さすがにアレは行き過ぎだ。会話がキャッチボールではなくドッヂボールになるのだから意思の疎通など望むべくも無い。
そんな連中の中に、まともに会話できる相手が一人だけいた。しかも顔見知りだ。
三十槌つらら。雪山で出会い、「忘却の鉄槌」を持ち去ってしまった女の子だ。彼女は優の参入を聞き、わざわざ訪ねて来てくれた。二人はしばらく再会を祝ったあと、この場所の恐ろしさと住人のポンコツぶりについて意気投合した。例の道具は後で返してくれると請け負ってくれた。
そんな一日をなんとか終え、優は心身ともに疲れ果てていた。部屋に戻り、廻やナギ、ナミと電話することだけが楽しみだった。後からつららが遊びにくる。一緒に茶でも飲んで落ち着きたい。
そういえば。優はカエデの言葉を思い出した。今日の昼ごろ、ナギとナミが屋敷の前で抗議活動をしていたらしい。あいつら本当に懲りないな・・・。絶対に来るなと釘を刺しておこう。ここの連中は本当に物騒だ。何かの拍子であっさりこの世から消されかねない。
優はぶつぶつ言いながら私物を納めた箱箪笥の引き出しを引き、スマホを取り出す。
その画面を見た優の眠たげな目が、一瞬で大きく開かれた。
画面には、ツバキからのメッセージが表示されていた。
(どこにいる?)
優は唇を震わせながら、その文章を凝視した。
*
ツバキもとい、バルルクタイルは、夜の闇のなかで見知らぬ感情に揺さぶられていた。
本能が警告している。眼下に広がるこの屋敷に入り込んだら死ぬと。
数万の軍勢をたった一人で難なく平らげ、見上げねばならないような堅牢な要塞すら積み木のように崩し去った自分だ。
なのに、体が全身全霊でこのちっぽけな屋敷に入ることを拒んでいる。
信じられない事態だった。こんな辺境の次元に、地獄ですら見たことが無いほどの危険地帯がなぜ存在する。大きな杉の木から飛び降りると、バルルクタイルは口を尖らせながらなんとか自分に折り合いをつけた。日を改めよう。こんな時必ずバカにしてくる同居人も、どうやら心からそれを勧めている。
だが。
その決断はずいぶんと遅かった。実際にはここに来ると決めた時点で敗北していたようなものだった。背中から肩に手を置かれて乙女のような悲鳴を上げた彼は、跳びのきざま振り返った先に一人の老婆を見た。
二人は同時に悲鳴を上げた。




