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鍋の中は、神々しい光に満たされていた。
その白い光の源にある物こそ、聖なるスクール水着、すくみずアクアマリン。
かつて平凡なスクール水着であったそれは、劇的な変化を遂げていた。
背中には、銀色に輝く一対の小さな翼。
両腰に据えられたプラチナの台座には、大きな青い宝石が輝いている。
ゼッケンの「みなも」という文字は異界文字に変わっており、虹色に輝きながら刻々と形が変化している。
誰の目にも、最強クラスの魔法使い専用装備にしか見えなかった。
以上が、鍋を覗き込む前に思い浮かべていた優の幻想だ。
当然、そんな事にはならなかった。
鍋を覗き込む二人の目に映っている物は、地獄をミキサーにかけてぶちまけたような茶色い粘液と、それにまみれたスクール水着が、無残に鍋の底にへばりついている光景のみだ。
二人とも無言だった。
やがて優は、思い出したようにキッチンの収納からゴミ袋を引っ張り出した。
そしてさい箸でスクール水着をつまみあげて袋の中に捨て、いや、入れ、口をきつく縛った。
「・・・とありえず、風呂場で洗ってくるよ」
少しばかりぼうっとしていた翳は、我に返ってうなずいた。
「あ・・・はい。わかりました。・・・私もこっちを片付けておきますね」
悪質な訪問販売に全財産抜かれたような表情をしている。優も同感だった。
風呂場に行くと、優はタイル張りの床にスクール水着を広げてシャワーを浴びせ始めた。
水で冷やすと悪臭が一瞬で消えていく。
土色の粘液がどんどんはがれ、意外にも無事な生地が出てきた。
ただゼッケンだけは色が落ちず、本来の目的で使い込まれたみたいな黄色いシミが残った。
優はその汚れを複雑な表情で眺めた。
裏表とも十分に汚れを落とすと、拾い上げて軽く匂いを嗅いでみる。
うん。臭いはない。
念のためもう一度生地に鼻を当て、大きく息を吸い込む。
優は意識を失った。
*
翳は、粘液だらけになったキッチンを前に途方に暮れていた。
まだ鍋はカンカンに熱いままだったし、これが冷えるまでどうしようもない。
とりあえず、開封した材料の容器やパッケージを片付け始める。
ひととおりゴミを処分すると、さてどうしようかと腕を組む。
まずは床から掃除しよう。
というか・・・掃除道具がどこにあるか分からない。
翳は道具のありかを聞くべく、優が消えていった廊下へと歩き始めた。
その時だった。
獣のような叫び声が、行く手から聞こえてきた。
翳は驚きのあまり身を固くし、薄暗い廊下の奥を見つめた。
もう一度叫び声。優の声だ。何かを呼ぶような声に聞こえる。
・・・もしかしたら自分を呼んでいるのかもしれない。
ふと沸き上がったその考えに、抱いていた恐れは一瞬で消え去った。
翳は廊下を走り始めた。行く手にある扉から声が聞こえてくる。
ドアノブに飛びつき、勢いにまかせて引く。
そこは更衣室で、奥にある浴室の扉は開いていた。
その浴室に、スクール水着の足の穴に頭を突っ込み、全裸で絶叫している優の後ろ姿があった。
「みなもちゃああぁぁぁああん!!おほぉおおおおぉぉぉ!!!」
・・・自分の名前ではなかった。
強い焦りを浮かべていた翳の顔が、一瞬で元のダルそうな表情に戻る。
優が頭を突っ込んでいる水着の穴は本来足を通す穴であり、元のサイズが小さいこともあってどう見ても無理な試みであった。
その無理を通そうと、彼は必死に体をくねらせている。
濡れたタイルの上で目隠ししつつそんな動きをしたら、当然すっ転ぶ。
彼は足を猛烈に空転させたあと、床にビタァンと体を打ちつけた。
驚いた翳が一歩前に踏み出すが、優の激しい動きは弱まる様子もない。痛みも感じていないようだ。
翳はその姿に圧倒され、どうすべきか考えあぐねていた。
長い十秒間が過ぎる。
突然、優の動きが止まった。彼はうつ伏せのまま、身を弓なりに反らせて痙攣しはじめた。
いけない。
翳は優のもとに駆け寄り、倒れている彼の裸体を抱えあげた。
その直後に痙攣が終わり、彼は脱力した。
「優さん!優さん!!」
翳は必死に叫び、うつ伏せになっている彼の重い体をなんとか仰向けに戻す。
ぬるり。
右手に、なにやら生温かい液体が触れた。
彼女は血を想像し、慌てて右手に目を向けた。
血ではない。なんだろうこれ。
怪訝な表情を浮かべ、手の臭いを嗅ぐ。
しばらくの間、彼女は動きを止めたまま思考をめぐらせていたが、
やがてその顔が真っ赤に染まり始めた。
*
台所の隣にある居間で、ジャージ姿に戻った優が土下座していた。
手足のつま先がピッシリと揃っている、美しい土下座だった。
優と向かい合って正座している翳の顔は未だに真っ赤だったが、彼をなだめている顔に怒りはなかった。
「打ち身くらいで済んでよかったですよ、頭を打っても不思議じゃなかったんですから」
優は無言で肩を震わせている。だがよく耳を澄ますと、
「・・・死にたい・・・」
と、何度も繰り返し囁いているのが聞こえる。
翳は困り顔をするが、やがてため息をついてやさしく優の頭を撫でた。
「水着に興奮する人が居てもおかしいとは思いません。何ら恥じる必要はないんですよ。それに、ああいうのも・・・男子なら仕方ない事だと聞きます」
後半は自分に言い聞かせている様子だった。
「いや違うから!そうだけど、違うから!!」
顔を上げた優は必死だった。
「冗談ですよ。何か有ったんだろうなと思ってます。浴室での出来事を聞かせてくれますか」
その言葉にうなずくと、優は身振りを交えて説明をはじめた。
翳は黙ってそれを聞いていたが、説明が終わると、その顔には困惑した表情が浮かんでいた。
「媚薬、とか、興奮剤の類なんでしょうかね。でも私達、あれを作っている間にさんざん臭いを吸い込んでましたよ」
「浴室で水をかけると、それまですごい臭いだったのに無臭になったんだ。じつはその時から、何かこう、こみ上げてくるものがあったというか・・・。で、思わず力一杯嗅いでしまったんだけど・・・」
「そしたら意識がなくなってしまった、と。冷えることで、反応が完了したのかもしれませんね」
翳はゴミ袋に厳重に封印されているスクール水着を指差した。
「妙な力を持つ物を作ってしまったという点では成功ですが、いずれにせよ、私にはどうしてもこれが目的の物だとは思えません」
優も、何を以て完成品とすべきか分からない事を脇に置いても、これが成功には思えなかった。
そこで二人は、製作の手順に間違いがなかったかを探し始めた。
間違いは意外な・・・しかし知ってみれば納得な所にあった。
メニューウィンドウに表示されている手順を紙ナプキンに書き写す際に、優は三箇所も写し間違いをしていたのだった。
優は再び土下座した。
「本当に・・・ごめん・・・」
ほとんど泣いていた。翳はその言葉に怒る様子もなく答えた。
「気にしないでください、実験には失敗がつきものですから」
「それじゃ僕の気がすまない・・・!!なにか罰を与えるなり、命令するなりしてよ」
翳は困った顔でその言葉に考えをめぐらせていたが、何かを思いついた表情を浮かべた。
「じゃあ、薬局で優さんが死にそうな顔をしてた理由を教えてもらえますか?」
「え・・・」
「パイプクリーナー買いに薬局に行った時ですよ。真っ青な顔をしてましたよ」
あまりに意外な要求に、優は顔を上げた。
「実はですね、私、今まで男性とまともに会話できた経験がないんですよ。ものすごく怖くて、吐きそうになるくらいだったんです。触れるのなんてもってのほかだったし」
翳の顔が再び赤くなってくる。
「で、でもほら、今は普通どころか、元気に会話できてるじゃないですか。それに、こんな奇妙な事に一緒に巻き込まれたのは、偶然じゃない気がするんです」
「・・・うん」
「だから私、優さんと友達になりたいと思っています。友達になりたいと思っている人があんな表情してたら、放っておくのはおかしいでしょう?」
優の涙腺が決壊した。
彼は人目にはばからず号泣した。
*
優の話が終わると、翳は優が引くくらい鬼のような形相をしていた。
いつもはダルそうな目が、今は冷酷な眼光を湛えている。
彼女は押し殺した声で優に告げた。
「優さん。いらないバッグに物を詰めて持ってきてください。詰めるものはゴミでいいです」
優はそれに対して口を開きかけたが、翳の有無を言わせぬ表情に気おされて頷いた。
数分後、優はどうでもよいグッズやら、壊れたゲーム機やらをバッグに入れて持ってきた。
翳はそれを手に取ると、厳かに宣言した。
「私はこれから、魔法使いの儀式を行ないます。しばらく席を外してください」
優は完全にビビッて言われるがままである。
彼は何度もうなずき、自室へと急ぎ足で向かった。




