*5*
いつの頃からだろう。
自分の体から死臭が漂っている事を自覚したのは。
周りの人間はそうは思わないようだが、自分には分かる。
目に映る景色は灰色で、まるで自分だけが曇った窓の向こうから世界を見ているような気持ちだった。私は漫然と存在しつづけていた。これからの事などは考えなかった。
きっかけは、視界に妙な文字や枠が見えるようになった日だった。以前制作した情報収集ソフトを走らせると、同じ症状に見舞われていると思しき人物の書き込みが見つかった。
その日から、私の世界に色彩が濁流となって流れ込んできた。
訳のわからない物を鍋で煮込んだあの日。
私はずっと心の中で、朗らかに笑いつづけていた。そして知った。私は誰かのために怒ることができる。
初めて家族以外とキャッチボールをした日。
それはキャッチボールというよりは球拾いだった。でも私の目は輝いていたと思う。転がる球を追いかける事がこれほど生命を実感させる行為だとは思わなかった。そして、必死に球を追っていく彼の背中。この日、命への温かな気持ちを初めて感じたのだと思う。
土手でレモネードを飲みながら川を眺めていた日。
隣に座っている人は私の気持ちなど知るはずも無い。でも私はずっと胸の中で泣き続けていた。あまりにも心が揺さぶられる。温かな日差し、甘さとレモンの味。他愛もない会話。そのどれもが胸を激しく締め付ける。
その色彩の源に立っているのが、優だった。彼の事を思うだけで、こんなにも温かな気持ちになれる。そして出会ってまだ間もないというのに、私は今、もしかしたら幸せになれるのではないかと疑い始めている。
その気持ちを揺さぶる存在が見え隠れし始めたとき、私は今までに感じたことの無い、心を焼き焦がすような感情を体験した。知らない女の子が優と忘れがたい思い出を共有している。そんな事を想像すると心が壊れてしまいそうだった。私は深く考えるのをやめ、怒ることでかろうじて踏みとどまった。
そして昨日。
彼女が優の襟元を引き寄せ、彼の耳に何かを囁く。その瞬間の胸の激しい痛み、苦しみ、怒り。今までに感じたことのない黒い奔流、その源に立つ少女。
道志ツバキ。
直接的な魔法で彼女の体を傷つけるつもりなど毛頭ない。ただその心を自分の心で粉砕したい。それは肉体を痛めつけるよりもよほど残酷な欲望だったが、私は強くそう願った。
だが彼女は屈しなかった。
私は決意を新たにする。ならば、それを超える思いを全力でぶつけるだけ。
翳は覚悟を決めると、次の召喚に向けて意識を集中し始めた。
幸いにもツバキはこちらの動きを待っている。
彼女は杖を握りなおすと、細かな砂利の上に魔方陣を描きはじめた。召喚の難度を下げる効果がある。サモンクリーチャーは恐らく下級の生物のみを召喚できる魔法なのだろうが、この魔方陣と最大の集中力を以ってすれば、より強大な存在を召喚できる見込みはあった。
彼女は、何度も行った召喚のイメージを再び練り始めた。底の知れぬ暗い穴のなかに上半身を突っ込み、手を差しのべて闇雲に叫ぶ。だが今回は、その声がより遠く、より奥底に届くよう。全身全霊を込めて。
*
つららは、ただならぬ気配が翳から暴風のように吹き出すのを感じた。もはや子供の喧嘩の領域を遥かに超えている。彼女は何度もこうした超常の闘いを目の当たりにして来たが、この圧力は今まで体感したそれを凌駕するほど大きい。彼女が見てきた最強クラスの接続者を、この翳という娘が超えようとしている事の証だった。
つららは躊躇せず方術を展開した。範囲内の生物の集中を短時間乱す術だ。全力で放てば相手を気絶させることも可能だが、問題はその効果に範囲が存在する事、発動までの時間が長い事、そして抵抗される可能性がある事だった。至近距離かつ不意打ちとなる今は、それらの問題を解決できている。つららは渾身の力を込めて術を解放した。
まずは懸命に駆け寄っていた優が、走りながら糸が切れたかのように昏倒した。
続いてツバキが膝を地面に突くが、驚くべき事に彼女は意識を断ち切られなかった。それでも影響から逃れることは出来なかったようで、その表情は朦朧としている。
そして。
翳は全く影響を受けていなかった。彼女は集中を継続している。その足元の魔方陣が赤く染まり始めていた。
つららは全身が凍るような絶望感に襲われた。より状況が悪化しただけではないか。まさか、まさか全く影響を与えられないとは!つららは覚悟した。もはや自分の命を賭してでも、彼女の術の完成を妨害せねばならない。つららは小さな体で体当たりを試みるべく、全力で翳に向かって走り始めた。
その体が、閃光と共に弾きとばされた。
つららは尻もちを突きながら、目の前で立ち上がったものを見上げた。
それは一糸まとわぬ姿の少年だった。見る者の脳が一瞬で蜜に浸されるほど美しい、一目で超常と分かる何か。
少年はしばらくの間微動だにしなかったが、やがて周囲を睥睨した。その視線が僅かでも視界をよぎった瞬間、精神の全てが劇烈な喜びに満たされる。つららは喜悦の表情を浮かべて五体を大地に投げ出した。その幸福感たるや。この世のあらゆる安寧をすべて一まとめにして、脳に無理矢理ねじ込まれたかのようだった。つららの目は地面をすぐそこに置いたまま大きく見開かれ、瞳孔は開きっぱなしになった。その口もだらしなく開かれ、唾液が溢れ出るに任されている。
朦朧としていることが幸いしたのか、それとも仇となったのか、ツバキは少年の影響を受けなかった。彼女は彼の前で片膝を突いたまま、未だ意識を完全に取り戻せていない。
少年の背後に立つ翳は、自分が恐るべき過ちを犯してしまったと感じていた。それは振り返った少年の目を見た瞬間に確信に変わった。
「余に跪かぬ者を目にするは久しぶりだ」
少年の声もまた、天上の音楽のように頭の芯を痺れさせる。
翳は黒い幸福感の濁流のなか、自分のすべきことを何とか意識に繋ぎ止めていた。彼女は震える唇を開き、言葉を押し出した。
「み・・・自らの住処に戻りなさい」
少年の声は苦笑の色を帯びていた。
「弁えよ」
彼は翳に背を向けると、彼女の命など全く意に介さず魔方陣から一歩踏み出した。自分はこの存在をその小指の先ほどもコントロール出来ていない。それの意味するところが彼女の心臓を潰さんばかりに握りしめる。
「地獄の公爵を迎えるに、かつては数万の魂が捧げられたものだ。それを定命の者どころか骸ごときが気安く呼び立て、あまつさえ用が無いから去れとは。いかにこの次元での余が卑小であれど、考えられぬ非礼である」
少年は再び翳へと振り返った。彼女は暴風の中で翻弄される枯れ葉のように心を揺さぶられた。集中力が弱まり、少年の影響が心を侵し始めている。
「とはいえ、とうの昔に生け贄など流行っておらぬのも知っておる。代わりに余は協力者が欲しい。この身をこの世に繋ぎ止めるための依り代が。余の体は長く形を保てぬ」
少年の顔は、その細部を見ることができない。見る前に美しさに圧倒され、それでも見続ければ恐らく精神は焼き切れてしまうだろう。だがそれでも、彼が笑みを浮かべていることは伝わってくる。
「お断りします、帰りなさい」
翳はそう言いたかった。だが無理だ。こうして立っているだけでも人を超越した努力が必要だった。並の人間ならば瞬時に意識が侵略され尽くすだろう。彼女は膝をガクガクと震わせながら屈し始めた。
「わた・・・わた・・・」
翳は必死に精神を繋ぎ止め、これだけは言わねばという言葉を何とか送り出す。
「わたしを・・・」
少年は肩を震わせ、喉の奥で笑い声を上げた。
「益体もない骸などいらぬ。・・・そうだな、そこに跪いておる娘。そやつにするとしよう。無論余は混沌の守護者として、魂の自主性を重んじておる。契約には同意が必要だ。だがもし同意を得ること無かりせば、腹いせに幾ばくかの流血を以て手土産としよう」
*
ツバキは、何もない真っ暗な荒野に立っていた。
目の前には底の見えない巨大な裂け目が果てしなく横断している。彼女は呆然とその闇を見つめていた。
精一杯強がっていた心は、もう跡形もなかった。
何もない。自分には。何も。
ただ毎日を生きてきた。剣に打ち込んだのも、気がついたら身近にそれがあったというだけだ。けれど、打ち込んでいて良かったと思えるようになった。優を守ることが出来たからだ。今まで頑張った事が無駄にならなかった。そしてこれからも、彼と並んで立ち続けるという目標ができた。
そんな自分が可笑しくて仕方ない。そして、哀れで仕方ない。
彼女は荒野に崩れ落ちた。
剣はたった一つの自分の取り柄。他に寄る辺などない。それがあっさりと折られ、優の隣には自分ではない者が立っている。
この荒野が、今の自分だ。
「ならば、より強くある他ない。何者をも凌駕するほどに強く」
声が頭上から響き、ツバキはゆっくりと頭を巡らせた。見えるのは闇だけだ。
「我が力を与えよう。余とそなたは一つとなり、その存在は比類無きものとなろう」
*
「契約は成された」
少年の声が厳かに響き、翳は絶望で心が砕けるのを感じた。
彼女は地面に両手を着き、つららと同じく完全な平伏の姿勢になった。
その意識は、甘い幸福感に溺れていった。




