*2*
次の日。
翳から出された宿題をやりきる事は、結局できなかった。
優と数字の戦いは、数学を斜めに飛び越えて、認知心理学の体験学習へと戦場を移していた。
夜中の三時を越えたあたりから、優は数字を数字として認識できなくなった。
朝方には文字も含めて教科書のページはミミズの集合体と化した。
ミミズの集合体相手に何ができるかといえば、それを見つめながら目を回すことくらいである。
こんな状態に陥れば普通は諦めるものだが、翳を失望させたくない優は、驚異的な根性を発揮して無意味な努力を注ぎ続けた。
昼頃。
突っ伏した机で目を覚ますと、ノートは優のヨダレによって空き地に捨てられたエロ本のようになっていた。何とか文字を読むことは可能であったが、その内容の解読は不可能だった。数学の問題集だというのに、解答に「たぶん」「おそらく」などの単語が含まれている様には戦慄すら覚える。
賢さが2に向上していたのは数少ない収穫だった。それが無ければノートも教科書も灰にしていたかもしれない。
以上の学習内容を自宅に来てくれた翳に怯えつつ報告したのだが、意外にも彼女は全く怒らなかった。彼女はノートから顔を上げると、座卓の向こうで笑顔を見せた。
「えらいですね、優さん。朝まで頑張ったんですから。賢さも2になったし、幸先いいですよ」
さすがにノートを検分しているときは困惑していたが、彼女はそこに刻まれた努力を評価してくれたようだった。
「じゃあ、改めて順番にやっていきましょう」
翳は野球を教えてくれた時のように、段階を踏みつつ優に問題の解き方を説明をする。彼女は優が理解したと思うまで絶対に次の段階に進まず、また覚えるべき事を常に一つだけに限定してくれた。
おかげで優は、少ない脳の容量でも何とか授業についていくことができた。この順調さを思うと、昨晩なぜ自分がミミズ地獄に落ちていたのか不思議に思う。
「優さんは多分、いま読んでいる所をちゃんと理解しないままどんどん文章を読み進めてしまったんじゃないですかね。そういう進め方をすると、分からないことだらけの文章に圧倒されて、脳が考えること自体を諦めちゃいますよ」
確かに、取り敢えず読んでみて、ワケわからんで終わっていた気がする。
「文章の読み方だけじゃなく、解き方を覚える方法だってそうです。段階を踏んで手順を覚えるんです。その時、覚えることや考えることは一つに絞るのがコツです。なんでこんな解き方なんだろう、みたいな疑問は取り敢えず脇に置いてください」
優は希望が沸いてくるのを感じた。難しいことを考えずに愚直にやれば良いというのは自分に合っている。それと同時に、ツバキの怒り顔が脳裏に鮮明に浮かぶ。
「僕の友達は、基礎を練習する時はそうする理由をとにかく考えながらやれって怒るんだよ。滅茶苦茶だよね」
優が苦笑しながらそう言うと、彼が気づかない程度に翳の表情が曇る。
「例のツバキさんという女の子ですか」
「そう。アホなんだけど、剣を持たせたら本当に凄い奴なんだ。そうだ、一度会ってみない?同じ境遇の仲間だし」
翳の顔を見て、優は自分の失敗を悟った。
「いや、無理にとは言わないよ」
翳は尖らせていた口を開いた。
「私だって、優さんに考えながら練習して欲しいとは思っていますよ。でもツバキさんの言うとおりに頭を働かせながら練習して、うまく行きましたか?」
「無理無理!うまく行くわけ無いよ」
翳は座卓の向こうから体を乗り出した。
「でしょう!?そんなの、教える相手を過信・・・」
翳はそこまで言ってから、ハッとした表情で口を閉じた。
優はその様子を不思議そうに見ている。
翳はゆっくりと座卓の向こうに腰を下ろし直し、うつむいた。
「翳ちゃん?」
心配になった優が声を掛けるが反応はない。
彼女は打ちひしがれたようにしばらく黙り込んでいたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「・・・ツバキさん、会ってみてもいいです」
*
ツバキはベッドに放り出したスマホを睨みつけながら、怒りに満たされていた。
昨年末、12月31日は彼女の誕生日だった。
その日が誕生日であることは、優の姉である廻と自分の会話を注意深く聞いていれば優にも把握できているはずだ。わざとらしいほど大きな声で連呼までしたのだ。
しかし、優からは祝いの言葉一つすらない。四日経った今もこうしてラインへの投稿をひたすら待ち続けているが、焼きつきが発生しそうなほど画面には変化がなかった。
三賀日だから忙しいんだろう。そう言い聞かせつつ一日千秋の思いで待っていたが、もう限界だ。
彼女は自分の胸に手を置いた。その顔が怒りで燃え上がり始める。つまり。奴は自分に全く興味がないのだ。あれだけの事を・・・しておきながら!
彼女は運動靴を履いて家を飛び出し、全力疾走を開始した。
ああ嫌だ嫌だ!!少し前までは剣を振る事だけを考えて生きてきた。それで充実していたのに、なんで!こんな下らない事に頭の中を占拠されないといけないんだ?
誰が誰を好きだとか嫌いだとか本当に下らない!世の中にはもっと大事で意義深い事が沢山ある。こんな馬鹿馬鹿しいことで修行が疎かになるのは愚の骨頂だ!
いつもの展望台にたどり着くと、彼女は息を鎮めてから眼下に絶叫した。
「バカヤロォーー!!」
一時間後。浴室から出て部屋に戻った彼女は、惚れた腫れたなど馬鹿馬鹿しいと本気で感じられるまでになっていた。だが一応はラインのチェックはしておくべきだろう。これが最後のつもりで、彼女は視線をスマホに向けた。
そこには新しいメッセージが表示されていた。
ツバキは一瞬硬直したあと、声にならない叫びを上げて文字通りスマホに飛び付いた。そして眩しいほど顔を輝かせながらメッセージを読み、直後闇のなかに沈んだ。
こいつ・・・もしかしてオレの気持ちを全て知った上で弄んでいるんじゃねーか?
メッセージには、明日会わせたい女の子がいるから、どこかで会えないかと書かれていた。




