5.兄様の苦しみ
『バン! ユーグ!! きゃあああっ』
『に……げろ、ユーグ』
「……っ、兄、様?」
夜中、突然頭に流れ込んできた悲鳴に目が覚めた。
バッと起き上がり思わず心臓辺りを手で覆ってしまう。
何度見ても慣れることのない、人の命が終わる瞬間の記憶。
ドクドクとうるさいくらいに鳴り響く心を落ち着けようと息を繰り返しながら、何事かと周囲を見回す。
そうすれば、暗闇の中でただひとつだけ異様な光り方をしているものがあった。
あまりに濃い赤で、一瞬今まさに聞いた声のこともあって血のように思えてゾッとする。
寝ぼけた頭から少しずつ回復した私は、やっとそれが今日手に取った神器であることを思い出した。
人の思考回路の一切を鮮明に読み取る石。
上手に扱えるように置いておいてほしいとお願いをしたから、この部屋に残しておいてくれたのだろう。
そっと近づいてテーブルの上に置かれたそれに触れる。
そうすると眩しく感じるほどの光は私の手に吸い込まれるかのようにして鈍くなった。
私の体の中に少しずつ何かが流れ込んでくる感覚、けれど嫌な感じはしない。
まるで私の体調を気遣うようにゆっくりとその石は力を発現させた。
『助けてくれ……助、けて』
流れてきたのは、初めて聞くような弱弱しいユーグ兄様の声だった。
泣きたくなるような、何かに縋りたくなるような、そんな声。
……兄様がなぜ頑なに休もうとしないのか、私は知っている。
どうして、人を頑なに頼ろうとしないのか、いつだって綺麗な笑みを浮かべられるその意味を。
殿下に命を救われた兄様は、その後も苦労続きだった。
身よりも何もない中で、精神的に受けた傷と向き合い続けなければいけなかった。
近隣の村とは言え国が違ったため常識や言語、生活習慣だって違うことが多く、それが理由で引き取られた孤児院でも遠巻きにされている。中には直接暴言を吐いてくる子供達もいて。
その中で体の傷を癒し精神的にも辛いリハビリ生活を送っていたのだから苦労しないわけがない。
兄様のトラウマを癒してくれる存在は、いなかった。
遠巻きに見られることが多かったのもそうだったけれど、兄様自身も人と接することを極端に恐れたのだ。
自分の大事な人が目の前で死んでいく光景が何度も頭によぎって、特別を作ることが怖かったのだと思う。
そうすると尚更他者との距離は開いて、結局兄様の本当の叫びはかき消された。
そんな兄様を唯一拾い上げてくれた存在は殿下だったんだろう。
ロキアの悲劇の後も、殿下はたびたび兄様を気にかけ訪れた。
傷の癒えが遅れたときも、トラウマに負け大柄な男性に近寄られて恐怖のあまり気絶したときも、殿下は動じない。その姿を見て、何度も兄様は疑問に思っていたのだろう。
一度だけ、兄様は殿下に尋ねたことがある。あんな惨状を目にしても戦うのが怖くないのかと。
けれど殿下はその問いかけにすら動じず、きっぱりと即答した。
『国を導く立場にいる私が動じてどうする、弱小国などと揶揄されているがな、それでも守るべき民は多い。怖がっている暇などない』
強い人だと、そう兄様は思った。
この人は敵に攻め入られても簡単には死なないような、そんな強い人だと。
これだけ強い人ならば、自分の特別になっても目の前からいなくなることはないのではないか?
あの地獄のような瞬間の再来を恐れずとも良い人なのではないか。
もしかすると、自分のこのトラウマを断ち切ってくれる存在になるのかもしれない。
兄様の心は次第にそう感じるようになっていく。
そして、まるでその思いに縋るようにリハビリに耐え、体を鍛えた。
何とか自分の弱い部分を乗り越えようと、絶望にしか染まらない世界に少しでも希望が差し込むようにしたいと、その一心で。
そうして今の兄様は出来上がっていく。
始まりこそ自分の人生を繋ぐための行為だったそれらは、やがて殿下の人となりを知り多くの人と接するようになることで少しずつ形を変えていく。
殿下以外に特別だと思うような存在を作ることはやはり出来なかったけれど、それでも国民を切り捨てられない程度の情が湧いた。
軍人となった兄様は強くあることに固執した。
強くなければ訪れるのがあの地獄絵図だと理解していたから。
もはや自分の弱さを見せることなど彼にはできなくなっていた。
それは自ら地獄を呼び起こす行為だとまで思っていたから。あの鉄壁の微笑みが生まれたのは自然な話だ。
そうして持って生まれた才能や頭の良さ、異常とも思えるほどの努力も手伝ってメキメキと頭角を現した兄様。殿下の右腕として軍事副長官に抜擢されたのは今から4年前のことだ。
私が兄様に出会ったのはそこから1年経った時期。
自分と4歳しか違わない兄様の壮絶な決意を、その時私は全て知ってしまった。
自分の力を人に知らせることすら恐れていた私とは正反対に、恐れに打ち勝とうと必死にもがくこの強くて脆い人を。
力になりたいと思った。
こんなに必死で誠実な人こそが報われてほしいと。
その想いは今だって変わらない。
未だに寝る度昔を思い出しうなされ、休むことすら恐怖に支配されてしまう兄様。
頼り縋れる相手を失うことを、誰よりも恐れるどこか危うい人。
だから、ひたすらに私は願う。
「どうか、兄様が幸せに満ちた夢をみることができますように」
そのためならば、私は彼の特別になれずとも良い。
希望よりも不安の方が圧倒的に多い兄様に私を愛してくれだなどと、あまりに酷な話すぎて言えない。
可愛い妹という線引きをして、大戦から自国を守るための貴重なカードだと言い聞かせて、そうやってこの婚約を受け入れた兄様を責めることはできない。
そんな私の想いを受けてなのか、手の内にあった真紅の石が柔い光へと姿を変える。
その光を怖いとは、もう思わなかった。
「おはよう、リリ。体調はどうだい?」
「おはようございます、ユーグ兄様。もうばっちりです、ご心配おかけしました」
「そう、良かった」
「……兄様も、少しは寝れました?」
「ああ、久しぶりにゆっくりさせてもらったよ。もう大丈夫」
「そう、ですか。良かったです」
私に見せる兄様の表情は今日も変わらず穏やかそのものだ。
何も知らない人から見れば、何の苦労もせず育ってきたようにすら見える綺麗な笑顔。
いつか、素のままでもこの表情が出てきてくれるようになれば良いと密かに願う。
「そうだ、リリ。これを」
「え?」
「今朝散歩していたら見つけたんだよ、リリの花。少しだけもらってきた」
「う、わあ、いい匂い。ありがとうございます」
「ふふ、リリはその花が本当に好きだね」
「はい。何だか同じ名前だからか親近感が湧いちゃって」
「でも確かにリリに似て可愛いらしい花だよね」
「そ、そういう口説き文句さらっと言っちゃう兄様ずるいです」
笑いながら私と同じ名の花を顔に近づける。
優しく淡い匂いのするその花言葉は「秘めた愛」。
何だか自分みたいだと思って私はこの花が好きだった。
『ユーグ将軍と神子姫様の仲は本当良いよな』
『ああ、いつも笑い合ってて癒されんだよ俺。理想だよなあ』
『素敵……! 私もあんな恋愛したい』
ちらほらとそんな声が届くようになり始めたこの頃。
切ない気持ちになりながらも、それでも何だかんだ兄様の傍にいられて幸せな日常。
「将軍様! いらっしゃいますか!」
「どうした」
「クルクが挙兵したとの情報が……っ、あ、み、神子姫様」
「クルク、が……リリごめん、今日は部屋で休んでてくれるかな。昨日も倒れたことだし念のため安静にしておいた方が良い」
「……はい、兄様こそ無理しないでくださいね」
「ありがとう、じゃあ」
現実というのはやっぱり優しくない。
ずっと危惧されてきた大戦が始まるのはここから1か月後のこと。
傀儡としての真価が試される時はすぐそこまで迫っていた。