2.家族と願い
私とユーグ兄様の婚約は、あっけないほどにあっさりと決まった。
城下の住民大勢が証人となった兄様の求婚は、言うまでもなくすぐに城にも伝わったのだ。
「しかしユーグ、派手にやったな」
「申し訳ございません陛下。姫を城へとお送りするまで抑えるつもりだったのですが、つい」
「はは、そなたにもそのようなところがあったとはな。構わん、周知が早まっただけだからな」
陛下にご報告に上がった時、陛下もそうやってからからと笑っていた。
おそらく事前に何らかのやり取りはしていたのだろう。
あのペンダントはユーグ兄様の記憶を吸い取りはするけれど、全てなわけではないから漏れることも当然ある。
「あの、陛下もご存じだったのですか? その、求婚のこと」
「リリ、そなたはいつまで私を陛下と呼ぶのだ。父と呼ぶように何度も言っておろう」
「う、申し訳ございません。まだ慣れなくて」
「……もうそなたを我が王家に迎えて3年も経つのだぞ、そろそろ慣れて欲しいのだがな」
「父上、仕方ありません。リリにとってはまだ3年です」
「シリクス、そなたはそれで良いのか! 兄と呼ばれたくは無いのか!」
「しかしリリは元々王家や貴族社会とは縁遠かった立場、順応しきれずとも無理はありません」
ユーグ兄様と例の密談をしていたシリクス殿下もその場にいらっしゃった。
相変わらず透明感に溢れる綺麗な容貌だと思う。
見た目だけではなく、聡明で武にも秀でていると言うのだからまさに非の打ちどころがない。
あの日……ユーグ兄様の過去を知った日、私は傀儡になると決めた。
その過去に出てきた兄様の恩人こそが、このシリクス殿下だ。
死ぬ寸前だった兄様を拾い上げ保護した方。
私が知る限りでシリクス殿下ほど頭が良く、表情が変わらない方を知らない。
殿下は最貧最弱国と言われていたこのスフィード王国を中堅国にまで立て直した。
それで現在まだ30にもなっていないというのだから、やはり天才と言われる部類の方なのだろう。
今でも不思議に思う。
そんな何もかも私とは遠い方が、今現在私の兄上様なのだから。
この力の存在をユーグ兄様に伝えた後、ほどなくして私は王家に迎え入れられた。
神の遣いという数百年に一度の存在をきっと国の中枢に置きたかったのだと思う。
平民の、さらに孤児であった私に、城の皆は優しかった。
少なくとも表立って私の出自を馬鹿にする者などいなかった。
それはこのシリクス殿下やユーグ兄様が目を光らせてくれていたからだと私は知っている。
シリクス殿下は、私という存在を国の力とするためユーグ兄様にこの結婚話を持ち掛けた。
国を立て直すほどの才覚と覚悟をお持ちの方だ。
だからこの国に何かがあった場合、迷いなく私をひとつのカードとして最前に立たせるだろうことは分かっている。そのために手厚く私をもてなし、腹心である兄様との結婚を勧めたことも。
奇跡の王太子殿下は、国のためならば残酷な決断をも出来るような方。
それでも私は殿下が嫌いではなかった。
恐れ多くて兄と呼ぶことは出来ないけれど、その威厳に満ちた雰囲気にいつも委縮してしまうけれど、それでもこの方もまたユーグ兄様と同じく人の為に自分を抑える方だと知っているから。
「結局、リリが親しく呼べるのはユーグのみか。ユーグ、そなた一体どのような手を使った。リリは念願の娘なのだ、私も親しくなりたい」
「どのような手と申されましても……、姫の護衛として最も近くにいたからではないでしょうか? それに私も元は平民の出、感覚が近いのかもしれません」
「父上、気長に待ちましょう。ユーグは私の腹心、リリが降嫁したとて近しい位置にいることは変わりありません」
「うぐ……そうだな、父はいつでも待っておるぞ、リリ」
「は、はい!」
情に厚く優しい陛下、強く理知的な殿下。
私の“家族”は、温かい。
ぬるま湯に浸かったようなこの日々は、今でも何とも言えない不思議な感覚だった。
「それじゃあ、リリ。また明日ね、ゆっくりお休み」
「はい。ユーグ兄様もちゃんと寝て下さいね」
「ふふ、ちゃんと寝ているから心配しないで」
その後、自室まで送り届けてくれたユーグ兄様は穏やかに笑った。
私を姫ではなくリリと呼び敬語でなく話してくれるのは、元はと言えば私の我儘だ。
昔は終始、陛下や殿下の前で見せるような畏まった言葉だった。
私を姫と呼び常に少し後ろで私に傅くような、そんな感じだったけれど私が耐えられなくなったのだ。
いくら力を宿しているからと言えど、孤児院生活が長かった私が将軍様に傅かれるのはどうにも慣れない。
泣きそうになりながら懇願すれば、苦笑しながら徐々に今のような話し方に変えてくれた。
そういう柔軟さに、困ったように笑いながらも極力私の我儘を叶えてくれようとするその優しさに、この想いが変化していったのはいつのことだろうか。
気付いた時には、ユーグ兄様の過去なんか関係なく傍にいたいと思ってしまった。
兄様の役に立ちたいという気持ちは変わらずとも、その理由が変わってしまっている自覚はある。
「リリ?」
「え、あ」
「どうした? 何かあった?」
ぼんやりと考え事をしていた私は兄様の声でハッと我に返る。
パッと見上げれば、至近距離で兄様が私を覗き込むようにして心配していた。
……兄様の目が近くて一気に顔に熱がともる。
「に、にに、兄様、ち、近いっ」
「え? あはは、リリは初心だなあ」
「だ、だっ……て」
「私達は婚約者なのだから、少しずつ慣れていかなければね」
悪戯っぽく笑ってそっと私の頬を撫でる兄様。
思わず耐えきれなくなって、手に持っていたリクリスの花束をバサッと上げる。
それは必然的に私の顔と兄様の顔の間を隔てる壁になってくれた。
「徐々に、じょじょに、ねっ! 今日はここまでです!」
「……ずいぶん遠慮なく振り上げたね、私の求婚の花束」
「そ、れは……ご、ごめんなさい。でも、今のは兄様も悪いです!」
「ええ? 酷いな」
いっぱいいっぱいになりながら言葉を発する私だけれど、兄様はこんな時でも余裕しゃくしゃくだ。
……こんな軽口ですら切ない気持ちになってしまう自分も大概だと思う。
それでも兄様のその笑い声が途絶えるのは嫌で、私もへにゃっと情けない笑みを浮かべる。
少しでも綺麗な笑みを浮かべたいところだけれど、そこまでの余裕はないみたいだ。
そろそろと花束を下ろしてジッと兄様の様子をうかがう私。
苦笑しながら私を見る兄様との距離が、少し開いた。
そしてポンッと私の頭に兄様の大きな手が乗る。
「ごめんごめん、少しからかいすぎたかな。もういたずらしないから安心しなさい」
「う、私もごめんなさい。私も少しでも慣れるよう、頑張ります」
「うん、偉いえらい」
完全に幼い子を相手するような仕草に少し落ち込む。
実のところ、傀儡になると覚悟を決めながらもこうして面倒をかけてしまうことの方が大抵だ。
いくら私に人とは違う力が宿っていたところで、年齢や経験値、本来持った人としての能力値はどうにもならない。兄様と私とでは天地の差があるのだ。
……もっと役に立ちたいのに。
そう思いながら、それでも余計なことをすれば余計な手間をかけることも知っているので、私はそんな思いを引っ込めて兄様を見上げる。
「兄様、本当にちゃんとお休み下さいね」
「ん?」
「目の下のクマ、隠したって無駄です。私、兄様のことはよく見てるんですから」
「……君は本当によく気付くね、そういうところ」
今はこうして心配するしかできない私だけれど。
それでも、兄様やこの国の切り札になる日はおそらく遠くはない。
『……今年は兵の動くペースが早い。もしかしたら世が動くかもしれん』
『アギリアとクルク、ですか?』
『他にもどうやらシュリ国が不穏な動きを見せている、らしい』
『シュリ……? 聞いたことがありませんが』
『ここ1年で急速に力をつけた新興国だ、どこの国とも交流がないせいで思考が読めん』
『な……、他国との交流を持たぬなどあり得るのですか』
『ごく稀にだが存在するぞ。……ロキアのようなどの国にも属さぬ村があったように、な』
『……そう、ですね。あり得ぬと考える方が危険でした』
『……すまない』
『どうか謝らないでください、殿下。私は大丈夫ですから。それよりも、手を打たねば』
なぜ私たちの婚約が急がれたのか、その理由を私はもう知っている。
兄様のクマが一向に薄くならない理由が何なのかも知っている。
私の役割を果たさなければ。
グッと花束を抱える手の力を強める私。
「私に出来ることなら、何でもしますから。だから、兄様もご自身を労わってください」
「……ん、ありがとうリリ」
私を見つめる兄様の笑顔は相変わらず綺麗だった。
隙のない、素でもない、完璧な笑顔。
……いつか、その仮面を取り去れる日が来てくれればいい。
過去の記憶に引きずられることなく穏やかに笑える日が来てくれれば。
そう密かに願いながら、私はこの部屋を去る兄様の背中を見つめた。