9.揺らぎ
「え、お休み……ですか?」
「はい。シリクス殿下より、そのようにと。ユーグ将軍がいらっしゃるまではごゆっくりお休みください」
ユーグ兄様に醜態を晒してしまった翌日、侍女のタキさんからそう告げられた。
すぐ横で同じく侍女であるソアラさんが嬉しそうにコクコクと頷いている。
「姫様は頑張りすぎなのです! 今日は楽しんでくださいね!」
「えっと……?」
「こら、ソアラ。姫様を混乱させてはなりませんよ」
結局2人とも何も決定的なことを教えてくれることはなく笑顔のまま部屋を去っていく。
首を傾げるしかない私は、静かになった部屋でぽつんと大きすぎるソファに腰掛けたまま。
やることが何もない時間というのは、とても久しぶりのことだった。
王女教育で最近は忙しくて、思考も詰まってしまっていて、余裕がなかったのだとようやく気付く。
「……気を遣わせてしまった、かな」
そこまで思い至ったのは、数拍置いた後のことだ。
子供のように泣きじゃくり、兄様に我儘を言ってしまった。
申し訳なさそうに頭を下げたユーグ兄様の顔が脳裏に浮かぶ。
情けない自分に苦く笑って、部屋を見渡した。
「道具としては、見られていないんだよね。やっぱり」
広くて綺麗な部屋。
孤児院時代には、この部屋よりも狭いところに皆で寄せ集まって寝ていた。
本来ならば私よりもうんと偉い人達が一様に私に膝をつく。
私が王女として迎え入れられたのは、戦場に出るため。
この国の盾となり剣となるため。
私の力を利用するために、私はここにいる。
それでも、利用されるだけにしては皆優しかった。
こうしてお休みを与えられるくらいには。
そのお休みを皆が認めて見送ってくれるくらいには。
そう理解できるのにやっぱりどうしても飲み込み切れない思いが、ため息からこぼれる。
弱いな……と情けなくなって手を握りしめた時にドアが鳴った。
反射的に顔を上げて立ち上がる。
もうノックの音だけで相手が誰なのか分かってしまえるくらい、聞き慣れていた。
「失礼いたします、姫」
「おはようございます、ユーグ様」
「おはようございます」
相変わらずの綺麗な笑みでユーグ兄様は膝をつく。
昨日一瞬だけ緩めてくれた口調も、元通り。
気まずくなって苦い顔しかできない私に、ユーグ兄様の表情もまた苦笑に変わる。
昨日の我儘を聞いた後だからというのもあるだろう。
大きく息を吸って、私は無理やり気持ちを入れ替える。
いつまでも困らせてはいけない。
「あの、今日はお休みだってタキさんから聞きましたが」
「はい。約束をまだ果たしていなかったと思いまして。殿下には私からも我儘を申し上げてしまいました」
「約束……?」
「城下をいつかご案内すると申し上げましたよね」
ぱちぱちを目を瞬かせる。
必死に過去の記憶を呼び起こして、それが初めて王都に来た時のことだとようやく思い出した。
馬車の中から見えた風景に興奮してしまって、子供のようにはしゃいだ時のことがもう随分前に感じる。
「そういえば、そう言っていただいたような」
「よろしければ城下へ降りてみませんか? ご案内いたします」
よく見ると、兄様の恰好もいつもとは少し違う。
いつもよりもラフな、きっちりとはしているけれど雰囲気が違うのだ。
私の今着ている服も、いつもに比べだいぶ簡素なもの。
上質なものには変わりないけれど、それこそ初めて王都へやって来た時に窓の外にいた人たちと近いものを感じた。
もしかして、このためのお休み?
そう理解して、ぱちりと再び目を瞬かせる。
そのままユーグ兄様と目が合うと、苦笑で返された。
「参りましょうか、夕刻前には戻らねばなりません」
「あ、あの! けれど」
「姫。本日はお休みです。短い時間ではありますが、楽しみましょう」
ユーグ兄様が手を差し伸べてくれる。
ぽかんとただただその手を見つめる私に兄様が苦笑して「さあ」と促した。
結局訳がよく分からないまま、私は馬車に乗せられ城下へと降り立った。
「お時間になりましたら、またお迎えにあがります」
「ああ、ありがとう」
「ありがとうございます……」
「いえ。それでは私はこれで」
ざわざわと人の気配が強い。
石畳の固い感触には、馴染みがなかった。
孤児院時代は土や草の上や木目の床を歩いていたし、王女になってからは王城以外には行かず柔らかなマットが敷き詰められていた場所ばかりだったから。
ただただ状況についていけずに、足の裏の感触だけを確かめる私。
「ああ、そうだ」と近くでユーグ兄様が声を上げたのはどのくらいたってからか。
見上げれば、膝を折らずにすぐそばで立ったままのユーグ兄様が、私を見下ろし笑った。
「本日はお忍びですから、この口調もいけませんね」
「え? あの」
「行こうか、リリ」
柔らかな声に、はっとした。
敬語のない、私がユーグ兄様を「ユーグ兄様」と呼び始めた頃のような話し方。
ああ、気を遣われている。
すごくすごく、心配されている。
だからこういう機会を設けてくれたんだ。
そう理解して、申し訳ないという思いが頭をよぎる。
けれどそれ以上に正直な私の心は喜びでいっぱいだ。
どうしよう、嬉しい。嬉しい、嬉しい……!
爆発しそうになる感情を何とか必死に抑えようとして、泣き笑いのような表情が浮かんでしまう。
「あ……甘やかしすぎでは?」
思わずこぼれた素直じゃない言葉に、ユーグ兄様はふっと吹き出すよう笑った。
王城から離れているからなのか、活気のある街の空気感からか、ここでは兄様の表情も少しだけ柔らかい。
「普段無理強いしているんだ。こういう時ぐらいは甘やかすよ、“兄様”として」
……しかも兄様呼びまで許してくれるの?
いよいよパニックになって、目をパチクリする私にユーグ兄様は苦笑する。
申し訳なさそうにも見えるその笑みにはっとして、首を振った。
「ありがとうございます、兄様! 本当に、本当に嬉しい!」
悲しませたいわけではなくて、兄様が精一杯くれた誠意がとても嬉しくて、けれど現実味がなくて混乱していただけなのだ。
素直な思いを告げれば、たちまち兄様が柔く笑う。
「さあ、行こうか。何を見たい? それとも食べたいものでもあるかな」
「えっと、ですね」
ぐるぐると周囲を見渡す。
淡い色の石で覆いつくされた、城下の地面。
大きな広場があって、人々がいろんな方向に行き交っている。
荷車が至る所にあって、上には花だったり果物だったり楽器だったり多種多様な物が置かれていた。
あちこちで大きな音が上がっている。
商人たちの声だったり、広場から響く歌声だったり、誰かが奏でる楽器の音だったり。
「すごい、情報が多すぎてすぐパンクしそう……」
気になるものが多すぎて、一体何から見ればいいのか分からない。
生まれ育った地域にはこれほど華やかで賑やかな場所など無かった。
目を輝かせて見回す私に、くすくすと兄様の笑い声が聞こえる。
「それじゃあ、まずは花屋から見てみようか。君は花が好きだったね」
「好き、です。あ、あそこの屋台ですか?」
「うん、気になるなら後でそちらも行こうか。近くにね、国一番の花屋があるんだ。色んな種類の花が置いてある、店自体が植物園のようになっていてね」
「植物園……!」
「こっちだ」
先導してくれる兄様の後ろを必死についていく。
頭の中は植物園のような花屋がどのようなものなのかという想像でいっぱいだ。
人の流れに乗ることが下手な私は、兄様を見失わないように必死に見つめながら歩くばかりで足元にまで注意がいかなくなっていた。
石畳の地面、石と石の隙間に足が引っ掛かり、つんのめる。
あっと、体が傾いだ時には自分ではもうどうしようもなかった。
転ぶと、思わず目を閉ざす私。
「おっと、危ない」
けれど途中で大きな力に引き留められて、私の体に感じるのはただ温かな感触。
目の前にエメラルドグリーンが見える。
はっと肩にかかる大きな手を感じて、見上げるとそこには兄様がいた。
抱き寄せてくれたのだと少し遅れて気付く。
「すまない、少し早かったかな。人の流れも増えてきた、ゆっくり行こうか」
「は、はい。ありがとうございます」
すっと離されて、1人ぶんの距離が空く。
強い力、温かい体、ユーグ兄様の胸元はこんなに固かったっけ。
あれ、おかしいな。
思い出して、照れくさくなってしまい顔が上げられない。
「リリ」
「は、はい!」
「はぐれないように手を」
「え?」
「はぐれると大変だから。少し我慢してくれる?」
そうして握られた手に、いよいよ顔が熱くなってしまった。
大きな手。ゴツゴツとしている、自分とはまるで違う手。
どうしてだろう、なぜだかものすごく緊張してしまう。
顔の熱さが体にまで移って、手が汗ばむ。
するっと抜けてしまわないか必死に力を入れる。
それでもやっぱり恥ずかしくて、今度は石畳だけ見て歩いた。
「ほら、リリ。着いたよ」
「は、はい……わあ!」
導かれるままに背の高い建物に入る。
入った瞬間に、外の景色とは一変した。
ユーグ兄様の言っていた通り、そこは植物館のような緑に溢れた場所だった。
ところどころにある値札がなければ間違えてしまいそうだ。
どうやら花だけではなく、草木も売っているらしい。
大きな窓からさす光を緑が優しく受け止めていて、空気が柔らかく感じる。
「見たことのない植物がたくさん……あ、ユリネラの花」
「ああ、ここは王家も御用達の花屋でね、“王家の花”もこうして見事に咲かせられるんだ」
「ユリネラは咲かせるのが難しいのですか?」
「そうだね、不思議なことにこの地域でしか咲かない花だし、芽を出すのも難しいと聞いたことがあるよ」
初めて王都に来た時には名前を知らなかった王家の花。
ユリネラという名のそれは、育成の難しさと咲く地域が狭いことで希少性が高いのだという。
目の前にあるのは大輪のユリネラが10本ほど。
これだけの数がまとまって咲いているのも、確かになかなか見ない。
「あら、ユーグ様?」
「こんにちは。彼女にここを紹介したくてね、お邪魔しています」
「いらっしゃいませ! 珍しいですね、わざわざここまでお越しなのも。それにご令嬢もご一緒とは」
「大事なお客人だ」
「そうでしたか。いらっしゃいませ、お会いできて光栄です」
「こ、こんにちは。初めまして」
まじまじと花を眺めていると、とある女性から声をかけられた。
長い髪をゆるく後ろに束ねて、エプロンを付けた大人の女性。
穏やかそうで綺麗な人だ。
この花屋の人だろうか。
「ふふ、ユーグ様がこんなに可愛らしい女性をお連れだなんて、多くの女性の悲鳴が聞こえそうですね」
「はは、貴女はいつも面白いことを言うね」
「あら、本気で言っていますよ? ユーグ様は無関心だからたわ言だと流してしまわれますが」
くすくすと笑み合いながら話す2人。
私よりも背の高い花屋の女性は声も雰囲気も私の数倍大人っぽくて、ユーグ兄様ととてもつり合いが取れている。
お似合いだと、そう思ってツキンと胸が痛んだ。
「……?」
その感覚の正体が掴めなくて、首を傾げる。
「リリ? どうした」
「あ、いえ。その、何でもないですよ?」
知らない間に顔が曇っていたらしい。
ユーグ兄様の声に我に返って、にこりと笑む。
一緒に私へと視線を向けていた花屋の女性が「リリ?」と私の名前をなぜだか復唱した。
「リリ様というお名前なのですか?」
会話がこちらに向いて、私は問われるままに頷く。
「リリと申します。私がお花が好きだと知ってユーグにいさ、ユーグ様が連れてきてくれたんです。素敵なお店ですね」
さっきは言えなかった言葉をようやく告げると、目の前の女性が微笑ましそうに頷く。
柔らかくて、陽だまりのような素敵な笑顔を持っている人だ。
「ありがとうございます、リリ様。実は、リリ様と同じ名前のお花もあるんですよ」
「私と、同じ名前……ですか?」
「はい。少々お待ちくださいね、持ってまいります」
明らかに年下の私にも丁寧に接してくれる女性。
ふわりと笑って頭を下げ、去っていく。
横でユーグ兄様が笑っている。
「彼女は本当に花が好きでね、人に似合う花を見繕うのも得意なんだよ。私も初めて来たときには大量の花を勧められたかな」
「兄様もですか? 兄様はどのようなお花を勧められたのですか?」
「さあ、何だったかな。ここでこれを言うのも失礼な話だけど、私は花には詳しくなくてね。名前は忘れてしまった、綺麗な花だったことは覚えているけど」
バツが悪そうに笑う兄様に苦笑した。
意外な一面を見たと思って。
私の知る兄様は何事にも丁寧で、私が忘れているようなことでも覚えていて、こういう女性が喜びそうなものにも詳しいと思っていたから。
案外大らかな面もあるようだ。
「ああ、けれど安心してくれ。若い女性が喜びそうなものは事前に侍女たちから聞いて情報収集済みだ。きっと案内は問題無くできるよ」
きりっと言う雰囲気が面白くて、思わず笑ってしまう。
恋愛事や女性関係はあまり器用ではなさそうだなんて、そんなことを思う。
私だって全く経験値がないけれど。
だけど、なぜだかほっと安心する自分がいた。
「お待たせいたしました、こちらがリリの花ですよ」
先ほどの女性が戻ってくる。
手に持っていたのは、ユリネラの花とはまるで違う小ぶりな花だ。
少しくすんだ淡い赤色に芯が黄色の花。
「可愛い花ですね。私と同じ名前だなんて勿体ないくらい」
「まあ、そんなことありませんよ。可憐な雰囲気がそっくりです」
ふふっと笑いながら女性が差し出してくれる。
一輪だけ手にもつ。力を入れればすぐ潰れてしまいそうな小ささだ。
けれど色合いが穏やかで、見ているとホッと落ち着く。
「見た目の可憐さとは裏腹にとてもたくましく、どんな環境でも咲くことのできる花なのですよ。この国にまだ来たばかりの品種ですが、この強さならばいずれ国中に広がるかもしれませんね。ああ、そうそう花言葉も意外性があってですね」
「はは、店長。少し待ってくれ、リリが話についていけなくなっているから」
「あら、すみませんつい。植物のこととなるとどうにも、私は」
店長と呼ばれた女性が照れたように笑う。
つられて私は笑って、花に視線を落とす。
見た目と同じく優しい香りがした。
「気に入ったかい?」
じっと花を眺める私にユーグ兄様が笑って尋ねる。
頷くと、頷き返された。
「店長、記念にこの花をつかった花束をもらえるかな」
「まあ、あのユーグ様が女性に花束だなんて! お任せください、リリ様にぴったりの花を見繕いましょう」
「ああ、頼むよ」
「ではあちらへ。ユーグ様、他にもご希望をお聞きしたいので奥へとよろしいですか? リリ様はあちらに座る場所がございますのでお待ちください。いまお茶をお持ちします」
「あ、ありがとうございます。ユーグ兄様、良いんですか?」
「君が何かに強く惹かれているところをみるのは初めてだからね、これくらいさせてくれ」
「ありがとうございます」
にこりと笑んで兄様が去っていく。
それにしても、本当に鳥の声でも聞こえてきそうな場所だ。
うっかり室内であることを忘れそうになる。
案内された椅子に腰掛け、お茶を飲む。
この空間にぴったりの優しい味がした。
手元に残ったリリの花を再び眺める。
「秘めた愛」
急に届いた声にパッと顔を上げた。
気付けばそこには店長さんがいる。
「リリの花の花言葉です。この花にこの言葉をこめた方は、一体どのような方なのでしょうね」
穏やかに笑んで私を見つめる店長さん。
「驚きました、あれほど穏やかに微笑むユーグ様は初めて見ましたから」
「それは……、ユーグ様は優しい方ですから。本当に」
「ええ。そう心から言うことのできる貴女だから、なのでしょうね」
うまく意図を掴めなくて首を傾げてしまう。
店長さんの表情は変わらない。柔く優しく穏やかな笑み。
そのままそっと私の目の前にしゃがみこんで小声で教えてくれた。
「実は私は昔王城にいたことがあるのです、庭師の駆け出し時代ですが。きっとユーグ様は覚えてはいないでしょうが」
「そうなのですか、ですからユリネラの花もあれほど綺麗に」
「ふふ、ですからユーグ様がわざわざお連れするほどの貴女様がどのようなご身分か、分かります」
「……っ、あの。ごめんなさい、まだまだ私は未熟で」
「いいえ、何を謝ることがございましょうか」
店長さんが頷く。
そっと私の手に手を重ねた。
「困難もたくさんございましょう。ですが、どうかそのお心を忘れずに。私はこの花は貴女様にぴったりだと心から思いますよ」
「リリの花が、ですか?」
「ええ。その強さも柔らかさも、包み込む愛情も」
応援しています、と微笑まれる。
ああ、すごく大人の女性だ。
心も何もかも。
「……ありがとうございます。また頑張れそうです」
支えられながらでないと、前に進めない私。
けれど今は心から笑える気がした。
城下に来れてよかった。
シリクス殿下が守ろうとしているものに触れることができた。
ユーグ兄様が忠誠を誓うシリクス殿下の、大事なもの。
やっぱりユーグ兄様にお願いしたあの我儘は私には必要なものだ。
私はシリクス殿下を知らなければいけない。
「リリ、お待たせ」
ほどなくして戻ってきた兄様の手には、小ぶりで可愛らしい花籠があった。
竹籠に埋まるリリの花が可愛らしい。
「店長に力説されてね。これならば持ち歩きやすいし帰ってからも飾りやすいと」
「わあ、素敵!」
「ほら、リリ」
目の前に膝をついて私に持たせてくれる。
きゅっと握りしめると、目の前でユーグ兄様が優しく笑う。
至近距離での笑み、渡されたのは私の名前と同じ花籠。
ドキドキと心なしか心臓がうるさく感じた。
「ぜひまたお越しくださいませ、お待ちしております」
「ありがとうございました! 大事に飾ります」
見送られてお店を後にする。
勇気をたくさんもらってしまった。
「さて、次は」
「兄様」
「うん?」
時刻はお昼過ぎ。人の行き交う街の中。
自然と私は兄様に向き合えた。
「ありがとうございます、ここに連れてきてくれて。すごく楽しいです、本当に」
「はは、まだ来たばかりだよ?」
「けれど、もうお釣りか来るくらい。本当ですよ? 約束を守ってくれたことも、私を気遣ってくれたことも、全部嬉しかったから」
素直な気持ちがここでは言える。
私の言葉にやっぱり兄様は苦い顔をするけれど。
その表情を見て、脳裏によぎるのはシリクス殿下と2人で交わされたであろうあの会話。
私を利用し戦場に立たせると決めた2人の会話だ。
それでも、疑う気持ちはもう湧いてはこなかった。
もとから薄々とは感じていたことだ。
シリクス殿下もユーグ兄様も決して薄情な人ではないのだと。
こうして利用するはずの私を気遣い、人として扱ってくれる。
もう、それで良いのかも。
手に持った自分と同じ名前のこの花が、私にそう思わせてくれた。
「……君は、本当に」
ぽつりと兄様が呟く。
呆れたような、そんな声にも聞こえて、けれどその後に見えたのは兄様の柔らかな笑み。
「本当はもう少ししてから聞こうと思ったけど」
「はい?」
「殿下が、今日の夜ならば時間が取れると仰っている。急な話になってしまうけど、会うかい?」
告げられた言葉に、苦笑する。
きっともう少し私の緊張を解してから聞こうとしてくれたのだろう。
もしくは城下にいる間は王城でのことを忘れて楽しませようとしてくれたのかもしれない。
「ありがとうございます。お会いしたいです」
「分かった、それではそれまでは目いっぱい楽しもうか」
「はい!」
元気の取り戻した私の手をユーグ兄様が取る。
「忘れたかな? はぐれると大変だから」
「は、はい!」
そうして再び手を繋いで広い城下を歩いていく。
案外鈍感らしい兄様と、経験のない私。
とても色気のない手の繋ぎ方をして、歩いていく。
それなのに、ドキドキと心臓がうるさい。
今まで知らなかった兄様を見たからだろうか。
少しだけ距離の近くなった位置で過ごしているからだろうか。
また熱くなっていく体の感覚を、花籠を握る手の力でごまかし封じ込めた。