6.国を統べる人
ユーグ兄様の私への接し方は、それからも過剰なほどに丁寧だった。
顔を合わせればすぐに膝を付き、私がどこかへ行くときはすぐ後ろに控えて歩く。
ここに来るまではユーグ兄様が私を連れて先を歩いてくれていたのに、今は私がユーグ兄様を連れる形だ。私の横ですら、立とうとしない。
目の前で跪くか、後ろに控えるか、どちらかだ。
誰がどう見ても主従なのだと分かる距離感。
立場の逆転は、決して居心地のいいものではなかった。
人の上に立つという経験をまるで持っていなかった私には、主体性がまるで備わっていないのだ。
自分の意思を表に出すこと、人に指示を出すこと、それらは今までの暮らしから最も縁遠いものだった。
だからどうしたって言葉も態度もから回ってしまう。
私の価値なんて私が一番理解していない。
私は家族にだって捨てられた存在だ。
こんな、人々に跪かれるような価値なんてあるわけがない。
どうしたってその思いは消えてなくならない。
けれど。
「言い訳にしないって決めた。役に立つって決めたんだから」
これ以上足を引っ張れない。
早く相応しい立ち振る舞いを覚えて、支える側に回るんだ。
ただただその思いが私を突き動かしていた。
私への心配そうなユーグ兄様の表情が頭に思い浮かぶ。
ぱんっと自分の頬を叩いて深呼吸した。
「失礼いたします、姫」
「おはようございます。ユーグにい、ユーグ様」
「私に様は」
「……ユーグ“様”でも問題ないと侍女の方々が教えてくれました、お許しください」
今日も臣下に徹するユーグ兄様に苦笑する。
多分、兄様がここまで徹底的に膝を折るのは私を守るためなんだろう。
身寄りのない私がきちんと周囲からも王女として敬われるように、どんな時でもこうして敬ってくれる。
……何も思わないわけではないけれど。
ほんの少しの我儘に本音を乗せて、何とか自分を納得させる。
ユーグ兄様は、そんな私に苦笑を返してやはりそれ以上咎めることがなかった。
そうして1日ずつ、何とか積んでいく。
国王陛下に呼ばれたのは、ようやく1日の流れを掴み始めてきたそんな頃だ。
「どうだ、リリ。新しい暮らしには慣れてきたか」
「はい、皆様には良くしていただいています。陛下」
「それは何よりだ。私のことも気兼ねなく父と呼ぶが良い」
相変わらずの鉄壁の笑み。
隙のひとつも見えない、けれど柔和には違いない雰囲気の王様。
いかに家族になったからといえど、公の場では陛下と呼ぶのだと聞いた。
王様は陛下、王太子様は殿下。
私に教養を教えてくれる先生が、言葉遣いの細かなところまで教えてくれている。
文字はいまだに読めない。
けれどこうした部分は少しずつ覚えてきた。
「あまり多く構ってやれなんですまなかったな」
「とんでもございません。常日頃よりお心遣いいただきありがとうございます」
「はは、言葉も随分と淀みなくなった。そなたは賢いのだな、これは嬉しい誤算だ」
「……もったいないお言葉です」
すぐ近くでユーグ兄様が控えている。
目の前で父となった陛下が柔く笑う。
慣れることは、やはりどうしても難しい。
いまだに私が浮かべられるのはぎこちない笑みだけ。
かけられた言葉に儀礼的に応えるだけ。
以後続いてしまった沈黙に、どう話を切り出せばいいのか分からない。
今の立場になお慣れない私には、この場で声を上げる度胸もまた無かった。
ユーグ兄様に助けを求めに振り返りたくなるのを何とか抑える。
きっと助けてくれるだろうと分かるから、我慢する。
笑んだままの陛下は私の様子に何を思ったのか。「ふむ」と一声上げた。
「ユーグよ、少し外してくれぬか。娘と2人で話したくてな」
そうして提案されたその内容に、思わず私はユーグ兄様を向いてしまう。
困り果てた私の顔、ユーグ兄様はじっと私を伺うように見つめていた。
いつでも即答するユーグ兄様が少し間を開ける。
「なに、別にリリを取って食ったりはせんぞ」
冗談のような軽快な言葉にぎょっとしたのはきっと私だけではないだろう。
「いえ、そのような。申し訳ございません」とユーグ兄様が頭を下げる。
はっと我に返って、顔を引き締めた。
駄目だ、私が不安だからと言って引き留めていいものではない。
どれほど適性がなかったとしても私が主である以上、私が引っ張らないといけないんだ。
そう思い出したのだ。
「陛下、申し訳ございません。私が今ユーグ様を引き留めてしまったのです。ユーグ様、私のことはどうかお気になさらず、陛下の言う通……お、仰せのままにしていただけますか」
半ばどもりながら、慌てて軌道修正をはかる。
ユーグ兄様を見つめて大きく頷いた。
謝らせてしまってごめんなさい。
不出来な主でごめんなさい。
心配かけてごめんなさい。
そんな思いを乗せて見つめ続ければ、やがて視界の先でユーグ兄様がゆるく息を吐き出し頷き返してくれた。
「お心遣いありがとうございます、姫。陛下、返答が遅れまして大変申し訳ございません。控えておりますので御用の際は何なりとお申し付けください」
「ありがとう、ユーグ。ああ、そうだ。シリクスがそなたと話したいと言っておった。良い機だ、向かってくれるか」
「……ありがとうございます。そう致します」
陛下は責めることなく、やはりいつもと変わらない笑みでユーグ兄様と言葉を交わす。
優しい人の雰囲気を纏っているけれど、優しいだけの人ではない。
初めて会ったときから感じていたけれど、そこには強い意志と決断力が見える。
私などが簡単に推し量れる人ではなさそうだ。
綺麗な礼をとってこの場を後にするユーグ兄様を私は見届けるしかできなかった。
本当は傍にいてくれれば心強かったけれど、この状況で付き合ってもらうわけにはいかない。
不安な気持ちを抱えながら、何を言われるのだろうかとどうしても疑心暗鬼だ。
背後で陛下が朗らかに笑った。
「そなたは本当にユーグに懐いているのだな」
はっと視線を元に戻して陛下を見上げた。
愉快そうに笑って目の前の椅子に座る。
「そなたも座るが良い」と促され、恐る恐る向かいに座せばその笑みは深くなった。
「すまぬな、不安であろう。私と2人きりというのも気が張るであろうが、そなたのことを知りたいと思ってな。せっかく家族になったのだ」
心中を読まれたかのような言葉にぎくりと肩を揺らす。
首を振るのが精一杯な私は、言葉を返すことを忘れてしまった。
陛下はやはり責めはしない。
「私の子はシリクス1人だった故、姫の扱いはよく分かっておらぬ。どうか父にも色々と教えてくれ」
「そんな、と、とんでもないです」
動揺してしまって言葉が素に近いものになってしまう。
しまったと思うものの、どう取り返せば良いのかが分からない。
ああ、ユーグ兄様が傍にいないだけで私はこんなに脆い。
1人では何一つまともにできない自分が情けなかった。
「焦らず良い。共に初心者同士、学んでゆけば良かろう」
陛下の言葉はいつどんな時でも前向きなものばかりだと、ここで初めて気づく。
後ろ向きな言葉にばかり引きずられる私とは対称的だ。だから気付く。
顔を上げれば、やっぱり陛下の笑みは鉄壁のまま崩れる気配すらない。
それでも今度は顔をしっかり見返すことに成功した。
そういう雰囲気を陛下が作ってくれているのかもしれない。
「実はそなたに見せたいものがあってな」
「これは……ペン、ですか」
「ああ。亡き妻がずいぶん前にくれた贈り物なのだ」
「王妃様が」
そうして手渡されたのは、年季の入った羽ペン。
羽はところどころ薄くて、軸も手で握った痕がうっすら残っている。
大事そうにケースにしまわれたそれを、陛下は愛しそうに撫でる。
「触れてみてくれるか」
差し出され、恐る恐る手を伸ばした。
白い、けれど少し灰や茶色に染まり色褪せたそれは、なぜだかほのかに光っている。
ところどころ欠けてしまっている羽が、ほんのり淡く青く。
神器だと、気付いたのは触れた瞬間だ。
吸い込まれるような指先の感覚に覚えがあったから。
次の瞬間、声が届く。
どこからともなく、私の耳の奥に直接聞こえた。
『どうかあの方の届けたいと願う言葉が、ひとりでも多くの方に届きますように』
優しい女性の声だった。
柔らかく、温かく、落ち着いた声。
視線をペンに向けると、持ったペンの上のあたり空気中に文字が浮かぶ。
一体何が書かれているのか、文字の読めない私には分からない。
けれど滑らかで、やはり柔い文字に、きっとこれを残したのは今聞こえた声の主なのだろうと、そう思う。
「……まったく、ジレットは」
重なるよう、陛下の声が届いた。
今まで聞いたどの声よりも柔らかい声に見上げれば、その目じりを下げ笑んでいる。
少しだけ寂しそうに。何かを懐かしむように。
ジレット。
ずいぶん前に亡くなったという、この国の王妃様。
陛下のお妃様で、殿下のお母さま。
今も、愛しているのだろう。
疑いもなくそれが分かった。
だって今の陛下からは感情が読み取れるから。
いつも浮かべる笑みとはどこか違うと分かるから。
なぜだろうか。
私の頭の裏に、ユーグ兄様の顔が浮かぶ。
「ありがとう、リリ。突然すまなかったな。妃の痕跡を一つでも見つけたかったのだ。これが神器かもしれぬとは生前のジレットから聞いていたからな」
私から羽ペンを受け取った陛下は、大事そうに手の内に包み込み再度ケースに丁寧にしまう。
夫婦というものを、私は初めて目の当たりにしたような気がした。
片方が死してなお、断たれることのない絆があるのだろう。
「お妃様のお声が聞きたくなったら、文字に触れたくなったら、またお呼び下さい。……いつでも」
気付けばそんなことを言っていた。
私にも伝わるその絆、思いを壊したくないとそんなことを思う。
陛下へ感じていた畏れ多さよりも、今は勝った。
「……ありがとう。そなたは優しいな」
陛下の表情がいつもの鉄壁な笑みに戻る。
柔和な、けれど感情の見えない笑顔に。
けれど私はもう視線を受けても、そこまで動揺はしなかった。
「そなたはどうなのだ」
「私、ですか? どう、とは」
「ユーグのことだ。出会った当初よりユーグには随分と心を砕いていたと聞く。何がそこまでそなたを惹きつけたのだ、ユーグは」
そして問われたその言葉に、直感で悟った。
きっと陛下が一番知りたかった本題はこのことなのだろうと。
ご自身の内側を私に見せてまで、どうして私にそれを聞いたのか真意は分からない。
けれど陛下には私には見えない何かが見えているのかもしれない。
私は答えに詰まることがなく、すんなり答えることが出来た。
「ずっと、戦っていたから。私には無い強さがあったのです。目を背けてばかりいた私とは反対に。どんなに苦しくても、向き合える強さがあった」
「強さ、か」
「はい。報われて欲しいんです、ユーグ兄様に」
陛下の目の前で兄様と、そう呼んでいることにすら私は気付かなかった。
この王城にやってきて、初めて心からの本心を口にした気がする。
この思いを、きっと陛下は笑ったりなどしないと感じたのだ。
お妃様への思いを知ったからこそ、そう思う。
「強さとは、脆さだ」
私の言葉を受け取り、陛下が一言つぶやく。
視線を向ければ、陛下は真剣に私の目を見つめていた。
初めて目にする、笑みのない真剣な表情。
「相反するものほど近しいものもある。リリ、そなたがあの者の脆さを補ってやれるか」
「え……?」
「……武や結果ではなく藻掻くことを強いと言えるそなたならば」
言葉の意味を理解することは出来なかった。
私は訝し気に陛下を見つめるしかできない。
何を求められているのか、それが分からず戸惑う。
陛下はやがてふっと息を吐き出し一度だけ首を振った。
「改めて、よくぞここまで来てくれたリリ。ようこそ、我が王家へ」
表情はいつもの笑みに。
あの日あの時、皆の前で言われた言葉を再びいただく。
陛下から差し出された手をしばらく見つめ、私は首をかしげながらも握り返す。
「これをそなたに託そう」
そうして手渡されたのは、ブローチだった。
青と白の……神に連なる者の象徴とされるあの花が刻印された、ブローチ。
「そなたが我が王家の人間である証だ。そなたならば、上手く使えるだろう」
使うとは一体何をなのか、陛下は教えてはくれなかった。
それきり口を閉ざし柔らかな笑みに隠して私を見守る。
私にできることなど、受け取り礼をいうくらいのことだ。
「……覚悟、か。これから試されるであろうが、あの者ならば。その時は私も覚悟を決めよう」
私が去った後の陛下の言葉を拾った者は、誰もいない。