5.逆転する立場
遠い遠い昔、この世界には神様と人とが共存して暮らしていた。
けれど神様は人間の欲深さに呆れ、人々の前から去っている。
だからこの世界にはもう神様はいない。
神様のいなくなった世界で、けれどどうして人々は神様の存在を信じているのか。
それは神様が残したとされる証が3つも存在するからだ。
ひとつは、至るところに伝わる神々の道具、神器。
ひとつは、その神器を操ることのできる神の遣い。
そしてもうひとつは、神様の子孫である王族。
そう、この世界には神様の遠い子孫がいる。
この世界にただ一つの色を宿した神子の一族が。
人間を愛し、人間と恋をして、ついには自身も人間となった神様。
その神様が遺した血筋は、皆その神様と同じく白い髪と水色の目を持っているそうだ。
ただ一人の例外なく。
「よく来たな」
謁見の間で見上げた王様もやはりその特徴を色濃く受け継いでいた。
少し灰がかってはいるけれど、これほど色素の薄い髪は見たことがない。
目は青に近い深めの水色。
この世界には白い髪も水色の目も、他に無いのだそうだ。
唯一無二、神の血をひく者だけが持つ色。
謁見の間に通され、広い部屋の中でただ2人だけがその色を宿していた。
だからすぐに誰が王族なのかを私は知ることができたのだ。
「話は聞いておるよ。リリと言ったか」
静かな空間の最も高い位置に座すその人は、柔らかく笑んでいた。
穏やかそうな目、声も柔くて、受ける印象は優しそうな人というただ一つだけ。
けれど言葉のひとつひとつ、決して大きな声ではないというのに、重く響いて聞こえるのはどうしてだろうか。
そこにいるだけで、なぜだかずしんと空気が重く感じる。
特別な存在。
威厳というのは、こういうことをいうのだろうかと思う。
声が、思わず上ずる。
「リ、リリと申します。陛下におかれましては、拝謁の栄誉を賜り」
「はは、固い固い。そう緊張せずとも良い」
「……父上。挨拶を中断させるのは礼儀に反します」
「何だシリクス。そなたも相変わらず固いのう」
朗らかに笑う陛下の傍でシリクスと呼ばれた男性が小さく息をついた。
王様とは対称的に、人を射貫くような鋭い目つきと一切ゆるむ気配のない表情。
ユーグ兄様が忠誠を誓っているという王太子様だ。
氷のように透き通った瞳は王様よりも淡い。髪の白も鮮やかだ。
会話を目で追っていた私を王太子様が見た。
温度の感じない、けれど強い視線。
顔を真正面から受け止めた私は、一瞬呼吸を忘れる。
眼光の鋭さに怯んだからではない。
王太子様の顔に見覚えがあったからだ。
『生きて、いるな』
『よく、生きていてくれた』
ユーグ兄様のペンダントから再生された記憶が今も頭に貼りついている。
平坦な抑揚のない、けれど確かに兄様を拾い上げたあの日の声。
視線が外せなかった。
ペンダントの記憶と、目の前にいる王太子様。
また一つ兄様の過去と今が繋がった。
そうか、王太子様がユーグ兄様の命の恩人だったのか。
忠誠を誓っている理由も、それならばすんなりと理解できる。
ユーグ兄様の大事な人。
こくりと喉を鳴らせば、王太子様は小さく息をつく。
表情も何も、一切の揺らぎも感じさせない平坦さでその人は言った。
「シリクスだ」
「お、お初にお目にかかります。リリと申します」
会話など、たったのそれだけだ。
私の言葉に小さく頷く王太子様。
目はやっぱり鋭くて、表情はどこも動かなくて、何を考えているのか掴みかねる。
逃げるようにお辞儀をすることで視線を外した。
「さて、ユーグからの報告を信じぬ訳ではないが、リリよ。そなたの授かった力、私たちにも見せてはくれないか」
挨拶もそこそこに、王様は私に微笑んだ。
「リリ」
気付けばすぐ横にユーグ兄様がいる。
手に持つのは、孤児院から預かったガラスの花瓶。
「ユーグ兄様」
思わず呟く私に、ユーグ兄様は大きく頷いた。
頷き返して花瓶を受けとる。
兄様はすぐにスッと後ろへ下がった。
けれどすぐ近くに感じる気配に安堵する。
付いていてくれるのだと分かって、大きく息を吸いなおした。
相変わらず花瓶はひんやりと冷気を纏う。
花瓶の中に渦を巻くように、冷気は手の中で動いている。
この場所に似合う花は一体なんだろうかと考えて頭に浮かんだのは王様と王太子様の綺麗な髪目の色だった。
白い髪に、水色の目。
同じような白の花びらの芯だけが青色の、そんな花が確かあったと思い出す。
王城の周りに咲いていた、この地域にしか咲かない花。
王家の花と呼ばれているらしいそれの本当の名を、私はまだ知らないけれど。
大きな花びらの綺麗な花が思い浮かぶと同時に目の前に現れた。
水の張った花瓶に、二輪咲いている。
広い室内がざわめくのが分かった。
王様は緩やかに笑っている。王太子様の表情はやっぱり変わらない。
「シリクスよ、どう思う」
「……認めるほか無いかと」
王様は大きく頷いた。
王太子様が睨みつけるように私を見ている。
「神に連なる者に相違はないようだな。会えて嬉しいぞ、同胞よ」
神の血を引く王族。
神の力を継いだらしい私。
同胞と言われればそうなのかもしれない。
けれどそれはあまりに畏れ多くて私から言える言葉ではない。
返す言葉に困り、私は固まったまま動けない。
王様はそれでもなお笑っていた。
微動だにしないその鉄壁の笑みから、感情を読み取ることが出来ない。
王太子様とは印象がまるで正反対だと思っていたけれど、案外王様と王太子様は似ているのかもしれない。
表情に仮面を付けて、内面までもを悟らせてはくれない。
そういうところが、似ている。
表情の方向性が違うだけで。
「さて、リリよ。我が国で神の遣いが現れた際の慣例を、そなたは知っているかな」
私の動揺に気付いていないわけがないだろう。
それでも王様は一切の雰囲気を変えることなく、私に問いかけた。
「はい」か「いいえ」で答えられる簡単な問いだ。
私はいいえと答えようとして、はっと止まる。
神の遣いが現れた際の慣例など私は知らない。
けれど私がこの先どうなるのかは、ユーグ兄様が教えてくれていた。
だから王様から続くであろう言葉がどういったものなのか、察してしまう。
「……いいえ、知りません」
それでも、そう答えてしまっていた。
……理解はしていても、受け入れることはまだ難しそうだ。
後ろめたさからか王様の顔を、今は上手く見ることができない。
「そうか、ならば教えよう。ここは神の愛した国、スフィードだ。そして私たちは共に神に連なる同胞。リリよ、そなたを我が王家クレンティス家の仲間として迎え入れる」
私の態度も歯切れの悪い返答も、王様は一切責めることが無かった。
ただし、逃げを許すこともしない。
高らかに宣言する。
「神の遣い、リリ。そなたは今この時より我が娘、この国の王女だ」
決定的な言葉を覆す者は誰一人いなかった。
私を鋭く見つめる王太子様ですら反論しない。
「我が決定に異を唱える者がいるなら聞こう。皆、神子を迎え入れてくれるか」
広い謁見の間に集められた人々は、おそらくはこの国の重職につく側近なのだろう。
一人ひとりまじまじと見つめることはできない。
けれど感覚として、おそらくは20人ほど。
王様の問いかけに対し、一人また一人と膝を折るのが分かった。
はっと思わず後ろを振り返る。
すぐ近くに感じるユーグ兄様の気配を辿り視線を向けた。
その人は、すでに膝をつき深く頭を垂れている。
一分の迷いも感じさせぬほど綺麗に。
室内で、私と王様と王太子様だけが立っている。
他の人が全員膝を付くまで、そう時間はかからなかった。
「決まりだな、リリ。ようこそ、クレンティス家へ」
私は言葉を返せなかった。
理解していたはずのことだ。
私はきっとこの国の王族として象徴になるのだろうと。
多くの人に膝を付かれることに慣れなさいと言われていたはずだ。
けれど覚悟まではまだ決まっていなかったらしい。
私よりもうんと年上の、孤児には畏れ多いほど偉い方々が一同膝を付いている。
何よりも目の前で、兄と呼べるただ一人が私に頭を下げている。
予想通り何の躊躇いもない様子で。
……慣れるには、まだ時間がかかりそうだ。
受け入れることも、やっぱり今は無理そうだ。
どんなに自分に言い聞かせても、私の表情は明るくはなってくれない。
「案ずるな。そなたが王女として不安なく振舞えるよう、私たちも支えていこう。環境もすぐに整える。思うところがあるならば、遠慮なく言うが良い」
「ありがとう、ございます」
何とか返事をするものの、私の顔は困惑一色だろう。
王様はそれでもやっぱり朗らかな笑みを崩すことがなかった。
一方その近くで小さく息をついたのは王太子様の方。
「ユーグ。当面の間、リリの護衛を命じる。常にその者と行動を共にし、心身を守るように」
「は、誠心誠意お仕え致します」
弾かれるように顔を上げた。
今まで何かを自発的に言うことのなかった王太子様。
私の視線を受けても表情はやっぱり一切変わらない。
けれど王太子様からの提案は間違いなく私が望むもので、王太子様が少なからず私の状況を察して言ってくれたことなのだろうとは分かった。
真意は分からないけれど。
でもこの人は案外、見た目に反して情のある人なのかもしれない。
そう思うのは、甘い考えなんだろうか。
何もかも私にとっては曖昧だ。
「ありがとうございます、王太子様……じゃなくて、で、殿下」
「……早く慣れることだ」
とにかく私は頷くしか出来なかった。
他の選択肢など知らない。
「何じゃシリクス。そなたも妹ができて嬉しいのか。はは、素直ではないな」
「……陛下」
「まあ良い、兄妹の絆を深めるもよかろう。リリ、父でも兄でも遠慮なく頼れ」
「……ありがとうございます」
目の前で目まぐるしく変わっていく。
王様の一言で私の立場がぐるりとひっくり返った。
ただの孤児が王女。
聞いていた話だというのに、まるで実感がわかない。
ただただ、すぐ近くで膝を付き頭を下げているユーグ兄様に苦い気持ちになった。
跪いてほしくてここに来たわけではないのに。
力になりたくて、報われてほしくて、そんな強い気持ちを持ったのは初めてだった。
だから私はここにいるはずだ。
けれど今のところ何一つこの人のためになることが出来ていない。
支えられて、守られて、そればかりだ。
「とにもかくにもそなたも長旅のあとで疲れているだろう。今日はゆっくり休むのだ。ユーグ、案内を」
「は。ご案内いたします、……姫」
「…………はい」
ユーグ兄様の言葉遣いが変わった。
立場が変わったのだと否応なしに理解する。
ああ、やっぱり寂しい。
この人に跪かれるのは、敬われるのは、とても寂しい。
躊躇いなく私を姫と呼ぶユーグ兄様。
私は躊躇いばかりだ。
何とか返事をするのがやっと。
無言のまま、促されるまま広い廊下を歩く。
つい先日、兄様と呼べるようになったばかりの人。
けれど今は兄様と呼べない。
ならばどう呼べば良いのか、分からない。
将軍様と、そう呼び戻すことはとても嫌だ。
だから言葉が続かない。
「こちらがこれからお過ごしいただく部屋になります、姫」
私の気持ちを知ってか知らずか、ユーグ兄様の方はなんとも簡単に私への態度を変化させた。
姫と、一度も呼ばれたことのない呼び名で私を呼ぶ。
案内されたままに部屋に入ろうとすれば、膝をついて恭しく頭を垂れた。
苦い気持ちで見つめるしか、私には出来ない。
嫌だ、やめて。
そんな言葉が出かかって、けれど抑えたのは他にも人がいたからだ。
「姫、紹介いたします。本日より姫の身の回りを務めます、侍女達です」
「お初にお目にかかります、姫様。タキと申します」
「このような機会をいただき光栄にございます、姫様。ソアラと申します」
「以下姫様におかれましては、10名の専属侍女と30名の王族付侍女が付きます。姫様に快適にお過ごしいただけますよう、精一杯務めさせていただきます。なにとぞよろしくお願い申し上げます」
部屋にいた女性たちが一斉に膝を付く。
ユーグ兄様も変わらず膝をついたまま。
「……こちらこそよろしくお願いします」
そう返すしか私には出来なかった。
姫になったばかりの私には、どの反応が正しいのか相応しい振舞いが分からない。
ついこの間まで孤児だった私に、やっぱりこの扱いは重すぎる。
通された部屋はこれまで泊まった豪華すぎる部屋よりもさらに広い。
孤児院時代はこの部屋よりも狭い空間に皆で寄せ集まって寝ていたというのに。
自分の状況に自分自身が追いつけていなかった。
ひとつひとつユーグ兄様は気付いて寄り添ってくれていたのに。
そうやって私がどうなるのかを教えてくれていたのに。
私の覚悟だけが、まるで足りていない。
「……本日はお疲れでしょう。明日またお迎えにあがります。それまではゆっくりとお休みください」
静かにユーグ兄様が言う。
少し眉の下がった表情、静かな声色にようやくハッと我に返った。
このユーグ兄様に覚えがあったから。
前にも自分の扱いに慣れなくて不安に駆られていた時、私の元まで来てくれた兄様の顔と同じ。
言葉が変わって、私に対する扱いも変わって、だけど当然この人の芯が変わるわけではない。
私を心配してくれているのだと、やっとはっきり理解できた。
「はい、ありがとうございます。……ユーグ、様」
ぎこちなく作った笑みに、ユーグ兄様も苦笑している。
「私に様は不要にございます」
「……そうすぐには」
「どうかお慣れ下さい」
兄様と呼ばずに留めただけでも褒めてほしい。
そんな我儘な思いが出て、きっとそれをユーグ兄様は察したのだろう。
深く私に注意することはなく、苦笑したままだ。
いつもの調子に少しずつ戻り始めた私に、少しは安心してくれるだろうか。
……足を引っ張っていてはダメだ。
神の力だけじゃなくて、立場でも兄様の役に立てるなら良いことじゃないか。
私はこの国で一番偉い王族になったのだから。
そんな傲慢な思いで無理やり自分を納得させる。
「今日もありがとうございました。そちらもゆっくり休んでくださいね」
「お心遣い感謝いたします。それでは私はこれで」
「はい」
私は大丈夫、だから安心してくださいと視線にこめる。
ユーグ兄様はそんな私に確かに頷いた。
そうして今度は迷いなく立ち上がり去っていく。
「さあ、姫様。こちらへどうぞ。御身を清めましょう」
「え、えっと……、お、お風呂、ですか?」
「左様にございます。全て準備整えて御座います」
「え? あ、あの私一人で」
「ご遠慮なさらず私達にお任せくださいませ。さあさ、こちらへ」
慣れるには、まだかかりそうだ。
何もかも、日常のどれをとっても今までとは違う。
それでもこくりと頷いて視線を上げる。
私付きになるのだという侍女達を見つめた。
顔を、きちんと覚えられるように。
戸惑いながら、覚束ない足取りで、言葉もたどたどしいまま、王族としての人生が始まる。
少しだけ覚悟を決めた。
この時、王様が何を考えていたのか分からないまま。
王太子様とユーグ兄様の間でどのようなやり取りが交わされたのかも知らないまま。
私の覚悟が本当の意味で試されるのは、この後のことだとまだ理解していなかった。
私の覚悟はまだまだ、足りていなかったとすぐに思い知らされることとなる。