3.神の遣い
自分が神の遣いだなんて、この期に及んでも私は信じてはいなかった。
きっと何かの間違いだろうとそう思う気持ちはやっぱり強い。
けれど自分が普通ではないのだと、将軍様の反応を見てはっきりと理解する。
「少し、情報を整理したい。君の名前は」
「リリです」
「リリさん。君は一体いつからこの力を?」
「……分かりません。初めて気づいたのは、5年前です」
「それほど前から」
将軍様は困惑したように顔を強張らせながら、それでもあくまで冷静に私に話を聞いた。
相変わらず口調は優しく、私のペースに配慮しながらだ。
狭い部屋に一つだけ用意されている椅子に私を座らせ、目の前で膝をついて目線を合わせてくれた。
「このこと、他に知る人は」
「いません。人に言ったのはこれが初めてで」
「神器を使えるということがどういうことかは、知っている? いや、知っているね。だから言わなかった」
「……はい。私にはあまりに過ぎたものだって思ったから。私も信じられなくて」
「そうか、そうだね。ひとりで抱えて辛かっただろう。よく話してくれたね」
ああ、こういう時でも将軍様は人への気遣いを忘れない。
秘密を抱えるということを特に辛いと思ったことはなかった。
自分に不思議な力があることに蓋をして、見ないふりをしていたから。
けれどこうして話してみて、気遣われるとなぜだか泣きたくなる自分がいた。
ああ、もしかすると私はずっと不安だったのかもしれない。
このまま放置して良いことなのだろうかと、知らぬ間に抱えた思いがあったのかもしれない。
初めて打ち明ける相手が将軍様で良かった。
こうして私自身の戸惑いや不安に気づき気遣ってくれる人で、良かった。
きっと孤児院の皆だって、同じように寄り添ってはくれるだろうけれど。
それでも打ち明ける私の勇気は、やっぱり足りなかっただろう。
何かの間違いだと思い直して、結局言えなかっただろう。
私はひどく臆病だから。
「この力は、将軍様のお役に立ちますか?」
そう、この気持ちがなければきっと無理だった。
私にはない強さを持った、けれどどこか隙も見えるこの人への気持ちがなければ。
将軍様は私の言葉にとても難しい顔をする。
何かを考え込むように押し黙り、視線は私の目よりも少し下を向いている。
「君はどうして会ったばかりの私にそこまで言ってくれるんだ」
ぽつりと、声が落ちる。
思わずと言ったようなその言葉に、私は苦笑した。
「分かりません」
そうとしか答えられない。
私の心の天秤がどうしてこの人に傾いたのか。
ひっそり見てしまった過去に同情してしまったのか、その過去を抱えながらも人を守る役割を担うその強さに惹かれたのか、私にだって分からない。
けれど無理やりにでも言葉にするならば、どんな言葉が浮かぶだろうか。
ああ、きっと。
「……憧れ、なのかも」
口にしたその言葉に、妙に納得した。
目の前の人は分からないとばかりにきょとんと目を丸めているけれど。
「私、ずっと自分は捨てられた子で、選ばれなかった側の人間だって思っていたんです」
「そんなことは」
「……本当は、それを言い訳にして逃げてただけだった」
色々なことに諦めた今までだったのだろう、これまでの私は。
自分で自分の道を切り開く勇気だなんて持てていなかった。
だって私は他の人が当たり前のように持っている家族に見捨てられた存在なのだからと。
思った以上にずっと引きずっていたのだ。
この孤児院に捨てられてしまったこと、家族を引き留めるものが持てなかった自分に。
当時たった2歳で記憶も残っていないくせに。
「怖くても戦う勇気がある将軍様を見て、思ったんです」
「……私は、それほど大した男ではないよ」
苦虫を潰したように将軍様が言う。
苦悩した表情にも見えて、けれど私は首を振った。
「そんなこと、ないです。少なくとも私にとっては、なかった」
「リリさん」
「どうか、私の力を使ってください。それが貴方のお役に立てるのならば」
そうして私はようやく清々しく笑えた。
今まで、あまり主体性のあることは出来ずにいた自分。
周りの似たような人たちと同じような感覚を持って同じような道を生きていくのだろうと、そう漠然と思っていた。
そういった人生が送れればそれで良いと。
初めて自分の心が中心に来たのだ。
私や私の力が何かの役に立てるというならば、その使い先はこの人が良い。
報われてほしいと心から思うこの人だったら、少しは私も誇れるかもしれない。
私にとって将軍様はそういう人だ。
将軍様は目の前でくしゃりと顔を歪める。
私の言葉を聞いてなおのこと、その顔は苦くなった。
何かを迷っているかのように指先がせわしなく動いている。
どうしてここでこの人がここまで苦悶しているのか、私には分からない。
国の、軍部の副官ともあろう偉い人相手に思いあがったことを言ってしまっただろうか。
「……陛下と殿下に報告することになるよ。良いのかい?」
しばらく沈黙を続けた後、将軍様はそう言った。
おそらくはこの孤児院から出てもらうことになるだろうと。
これからは王都で今までと違う生活になってしまうとも。
「私の心と体は殿下に捧げている。そんな私の力になりたいということは、殿下の手足としての役割を求められるかもしれないんだよ。その意味が分かる?」
ぐっと、強く私の手が握られた。
将軍様の大きな手があまりに冷たくて驚く。
私と同じくらいに冷たくて、この人もひどく緊張しているのだと知る。
それでも将軍様は私から視線は外さなかった。
そういうところが私にはなくて強いと、そんなことを思う。
実際のところ、将軍様が一体何を懸念してこういう顔をしているのか私には理解しきれていない。
けれど私を気遣ってくれているのだということは分かる。
だから私は躊躇うことなく頷いた。
将軍様の前で神器を手にした瞬間から、私の覚悟はもう決まっていたのだ。
「全て将軍様の思うままに。私、嬉しいんですよ? こんな風に積極的になれるだなんて新しい自分に出会ったみたいで」
「……あまり迂闊なことを言わないように。君は悪い大人にすぐ騙されてしまいそうだな、純情で」
「そんなことは、ありませんが」
「自覚もなしときた」
にこりと笑えば、将軍様がやっぱり苦い顔をしたまま私を諭す。
けれど将軍様が顔を歪めていたのはそこまでだった。
考えがまとまったのだろう。
その後は元の落ち着いた表情に戻る。
「ありがとう、君の気持はよく分かった。急ぎこのこと陛下と殿下に伝えよう。この孤児院の先生にも事情を話すことになる。いいかい?」
「はい、分かりました」
「それと、私に対する要望もまとめておくように」
「……要望、ですか?」
「ああ、君にばかり負担を強いるのは気が咎める。私も君の役に立つことをしよう」
目の前でさわやかに笑った将軍様に、今度は私がきょとんとする番だ。
え、とそれしか言えなくなった私に笑い声が響く。
「大人しそうに見えて案外無鉄砲なところがあるようだ。本来はお転婆なのかな」
「お、お転婆……初めて言われました」
あまりに結びつかない私への評価に驚く。
自分で言うのもなんだけど、私はこれでもこの孤児院では比較的優等生だったのだ。
問題を起こさない大人しい子供だったと思う。
「要望、考えておくように」
私の反応に満足そうに笑うと、将軍様はそう告げて部屋を後にした。
しばらく呆けて固まっていた私が元通りに戻るのはそこから数分後のこと。
そこからは大騒ぎだった。
将軍様から知らされた先生は慌てて私のもとへとやって来てずいぶん長く話を聞かれた。
将軍様は国王様と王子様の返事を、この地域で待つのだそうだ。
まめに私のもとへ訪れるようになったから、孤児院の同年代であるキイノたちは何かを察したらしい。
何かを表立って言ってくることはなかったけれど、背中を叩いて激励されたり抱きしめられたりした。
「君はずいぶんと慕われているようだね」
今日も私のもとを訪れた将軍様が、楽し気に笑っている。
私や周囲の様子を見て、感じるものがあったらしい。
今も部屋の陰から様子をうかがう子供たちの視線を受けながらの会話だった。
「私も驚きました。あまり人の輪に入ることはしてこなかったのに」
「何人かには威嚇されたけどね、私は」
「え!? だ、誰が」
「さあ。彼らの名誉のためにそれは黙っておこうか」
少しずつ変わっていく日常。
おそらくはこの先王都に向かうことになるだろう私。
別れが近づいて初めて知ることも増えた。
私をきちんと見てくれる人がいたのだということ。
心配してくれる仲間がいたのだということ。
本当の家族の愛を知らない私ではあるけれど、きちんと家族のような絆がここにはあったのだということ。
「少し、寂しくなりますね」
自分で決めたことだ。
自分に宿った力は将軍様に捧げるのだと決めた。
けれど近づく別れに思わず言葉が漏れた。
将軍様は「そうか」と相槌を打ってそれきり黙る。
そうやって私に惜しむ時間をくれた。
王都からこの孤児院までは馬車で4日ほどかかるのだという。
けれどその4日の間に早馬は行って戻ってきた。
伝令係の騎士様が息を切らせやってくる。
私と一緒にいた将軍様の前で膝をついて、封筒を差し出した。
見たことのないような模様の蝋で閉じられた、白い封筒。
将軍様が受け取りその場で開いた。
便箋に書かれていたのは、走り書きの文字だ。
文字の読めない私には、そこに何が書かれているのか分からない。
けれど将軍様はそれを目で追い、あっという間に読み終えたようだ。
一つ頷いて、目の前でいまだ膝をつく騎士様に告げる。
「ありがとう、早く届けてくれて助かった。少し休むと良い、陛下への返事は明日以降に」
「は、恐れ入ります」
深々と頭を下げた伝令係の男性が、ちらりと私を見る。
なぜだか私に向かっても深く頭を下げ、そのまま去っていった。
「リリさん」
そうして将軍様が私に振り向き視線を合わせる。
「はい」と顔を見上げれば、表情を消した将軍様がそこにはいた。
思わず後ずさってしまいそうな、きゅっと締まった空気がその場を包む。
きっと”将軍様”としての顔は、これなのだろう。
私相手にもしかするとずいぶん優しい顔を作ってくれていたのかもしれない。
今日もそんな新しいことを知る。
「急で申し訳ないけれど、明日出発するよ」
張り詰めた空気にのまれるよう頷いた。
内容を理解するのは一拍置いた後だ。
「あ、明日?」
「そう、明日。陛下も殿下もぜひ君に会ってみたいと」
「え」
「国王陛下直々のご命令だ。君は今後、王家の庇護下に入る。少しでも早く安全な場所に身を置くようにと」
「お、王家……」
覚悟は決めていたけれど、王家という言葉にはどうしても反応してしまう。
この国で最も偉い人、国の行く末を決める権限を持った人。
ただの孤児だった私にそれはあまりに大きな存在に思えたから。
普通会うことすら叶わないような天と地ほども立場の違う存在。
そんな王族に庇護される。今までの自分とあまりに馴染みのない変化だ。
具体的に自分がどういう立場になるのか、まるで想像ができなかった。
けれど王家まで出てきたとなると、いよいよ大事だ。
「リリさん」
「は、はい」
「陛下のもとへは私が責任もって連れていくから大丈夫だ。これから生活が大きく変わって大変だろうが、一人ではないから安心しなさい」
張り詰めた空気を少しだけ緩めて将軍様が言う。
私の緊張を感じ取ったのだろう、口調はいつもよりも少し優しかった。
すでに頭がいっぱいいっぱいで頭の中をぐるぐるといろんな言葉が舞っている。
けれどこんな時でも気遣いを忘れない将軍様に私は何とか笑い返した。
私の決めた覚悟なんて、将軍様がこうしてここにいる覚悟と比べればとても小さいというのに。
こんなこと一つとってもいちいち動揺してしまう自分が情けない。
これからはもっとしっかりしないと。
そんなことを思う。
「だ、大丈夫です。頑張ります」
動揺を隠しきれずにぎこちなく頷いた私に、将軍様は苦笑していた。
その顔に何かを憂いて影が差していたことに、私は気づくことができない。
おそらくこの頃にはもう将軍様も察していたのだろう。
今のスフィード国において神の遣いがどのような存在となるのか。
戦の色が少しずつ見え始めたこの時に、神の存在を信じない王太子がここまで積極的に動く理由を理解していたのだと思う。
私の王家入りは、この後あまりにも早く実現することとなったのだから。
明朝、私たちはひっそりと荷造りを終え孤児院を出る。
送ってくれたのは先生と数名の、わりと接点のあった子供たちだけだ。
「護衛の数も心もとないからね、あまり大事には出来ない」
将軍様はそう理由を説明してくれる。
そもそもただの孤児である私に護衛だなんてと思うけれど、王命を受け庇護下に入る身の上と決まった以上はそういった人員も必要なのだという。
神の遣いというものは、それほど大きな存在だと。
「まあ私もこう見えて武術には心得があるんだ、君が危険にさらされることは無いよ」
将軍様がとても謙虚にそんなことを言うものだから、周囲の人々が「どの口が」とでも言いたげにこちらを見つめている。
そんな将軍様の部下の方々は、私と目が合うと一様に頭を下げていた。
「……あの、私にまで頭を下げる必要は」
「畏れ多いことにございます。どうぞ我々のことはお気になさらず」
とても丁寧な言葉を、何歳も年上だろう男性が私に使う。
どうすればいいのか分からず固まる私に、孤児院の先生が近づいた。
「リリ」
「あ、先生。私」
「……そうだったわ、もうこう話しかけてはいけないのだったわね。貴女は神の遣い様」
「先生?」
「リリ様」
いつも私達を導いてくれた先生がゆっくりと膝をつく。
私の名を様付けで呼びなおし、目の前で跪いて頭を下げた。
「先生、一体なにを」
「貴女はもう、そういうお立場になられるのです。神子様」
「神子、様……って」
先生は戸惑う私をよそに箱を差し出してきた。
両手で持てばすっぽりと収まるくらいの、木箱。
その中に何が入っているかは、この中身をずっと守ってきた私には分かる。
私にだけ花を溢れさせることができる神器の花瓶。
「これも何かの運命でございましょう。神子様、こちらは貴女様が」
先生はあくまで態度を変えてはくれない。
恭しく私の前に首を垂れて、私が花瓶を受け取ることを待っている。
「リリさん」と将軍様に促され、なんとか受け取った。
「先、生……私。今まで通りのままお別れを」
「……この先、多くの困難がございましょう。神子様は多くを分け与える尊き役目を担いしお方。だからこそ人々は跪き祈る」
私の話を先生にさえぎられるのは初めてだった。
これほど強く意思を表す先生を見るのは初めてのこと。
私はもう言葉も出せない。
変わり始めた自分の人生を、自分で決めておきながら覚悟が足りていなかったのだと自覚する。
「神子様の旅立ちにまずは私から敬愛を。神の遣い様として、愛し愛され実りある日々を送られますようお祈り申し上げます」
先生の言葉に、ようやく私ははっとした。
一緒にいた子供たちも何かを感じたのかもしれない、先生に習うようにその場で膝を付き頭を下げる。今まで一緒に過ごしご飯を食べて過ごしてきた仲間たちが。
自分の力を将軍様のために使うと決めた私。
神の遣いとして、王都に行くと納得して選んだのは私だ。
先生はその道を理解し認めて、こうして目に見える形として背を押してくれたのだ。
私のことを神の遣いと信じ。
家族と聞かれれば、きっとこの先も私が思い出すのはこの孤児院なのだろう。
けれどもう今までと同じとはいかない。
「……ありがとう、ございます。先生。みんなも」
覚悟を決めなさいと、そう諭されているように思った。
振り向かずに前に進みなさいと、そういう言葉に聞こえたのだ。
受け取った花瓶入りの木箱をぐっと強く抱きしめる。
もう先生たちの姿勢や言葉遣いを直すことは出来なかった。
気持ちを受け取ってしまった以上、それを捻じ曲げることは出来ない。
お礼を言うのがやっとだ。
肩に触れたのは、すぐ近くで見守ってくれていた将軍様だった。
「様々な急な申し出に応えてくれ感謝している。西部のもてなしや懸命な努力は陛下にもお伝えしよう」
「将軍様もどうぞお気を付けて。……なにとぞよろしくお願い申し上げます」
「……ああ。大事にお連れする、安心してくれ」
孤児院の皆と言葉をかわすのはこれで最後だった。
将軍様が私に向き、「さあ、リリさん」と促す。
頷いて向かう先は、大きな馬。
この田舎で馬車は目立ちすぎるから、馬車が目立たなくなる場所までは将軍様の乗る馬に乗せていただくのだという。
人目のつかない早朝に出るのはそのためだ。
馬の上に乗せられ、馬が駆け出す。
頭を下げたままの先生たちの顔は見ることが出来なかった。
顔の判別がつかなくなったころようやく上がった顔。
遠目で子供たちが手を振っているのが分かる。
「あれ、おかしいな」
あまり感情が大きく揺れ動く性格ではなかったと思うのに。
私の目からこぼれたのは、間違いなく涙だ。
前向きな気持ちで決めたはずの今が、なぜだかとても悲しい。
「家族との別れだ、仕方ないよ」
将軍様に宥められ、やっとその感情を受け入れた。
親しい人との初めての別離。
どうやら私は思った以上にあの場に心を預けていたらしい。
「また会いに来ると良い。生きている限り、会えるさ」
そうして馬の速度は少し上がった。
生きている限り。
その言葉を将軍様が口にすると、とても重い。
頷いて、そこからはしばらく無言だった。
「ようこそおいで下さいました、ユーグ将軍様。国の守護神様にお目通り叶い大変光栄にございます」
「ありがとう、世話になる」
「万事準備整えましてございます。お客様ともども精一杯務めさせていただきます」
「助かるよ。まずは彼女を頼む」
「お任せくださいませ。お嬢様、どうぞこちらへ」
「は、はい」
「リリさん、今日は疲れただろう。ゆっくり休むと良い」
そこから私に対する扱いは大きく変わった。
一体どこからどういう話が流れたのか分からない。
けれど将軍様以外の人々が皆私に膝をつき頭をさげ、丁寧な言葉を使う。
身の回りのことも何も、全て人が付き添い私はお世話を焼かれる側になった。
先生が私に初めて示してくれたように。
立場が変わるのだと、そう教えてくれたように。
「……本当に、私で大丈夫なのかな」
不安ばかりが増幅していた。
私はやっぱり自分がそんな大層な存在には思えない。
私は選ばれなかった側の人間のはずなのだから。
この力だって、確かに普通ではないかもしれないけれど、これだけで本当に将軍様のお役に立てるのか。
今だって私は将軍様に全て任せきりだ。
何一つ将軍様のためになることなど出来ていない。
結局頼らなければ、何もできていないというのに。
ひとりになると途端に萎んでしまう気持ち。
広すぎる部屋はどうにも慣れなくて綺麗に整えられた部屋を汚すのも怖い。
伸ばされたシーツの皺ひとつ崩すのも躊躇ってしまう。
落ち着いて座っていることは出来なくて、窓際に立ち尽くしたまま外を眺めた。
窓を少し開けて空気を吸い込む。
コンコンと、部屋がノックされたのは次の瞬間だ。
「はい」と返事して振り返れば、やってきたのは将軍様だった。
「急にすまない、どうにも気になって。今大丈夫かい?」
部屋に通されてそのまま立ち尽くしていた私。
言われるがまま頷けば、ある程度予想はついていたのか将軍様は苦笑している。
「慣れないこと尽くしで疲れただろう、大丈夫だからまずは座らないか」
「えっと、将軍様。その」
「ほら、こっちに座りなさい」
肩を押され近くのソファに座らされる。
将軍様は目の前で膝をついて目線を下げてくれた。
「急に事が大きく動いたから戸惑っているのではないかと思ってね。表情もずっと晴れていないし」
「あ……えっと」
「心配事があるなら遠慮なく言いなさい。こちらの事情で無理をさせているのだから、君には文句を言う権利がある」
「そ、そんな文句なんて」
優しい言葉をかけられて、泣きそうになる自分が情けない。
将軍様のお役に立ちたくてここにいるはずなのに、変わる環境に順応できずこうして手間をかける。
「……ごめんなさい、こんなんで」
「うん?」
「全然、将軍様のお役に立てていないから。こうやって面倒ばかりかけて」
「……先ほども言っただろう、こちらの事情で無理をさせていると。君は文句も言わずこちらに合わせようと頑張ってくれているよ」
握りしめた手に将軍様の手が重なった。
前に触れたときはとても冷たかったその手が、今は温かい。
なおさら自分が情けなく思えて、やっぱり泣きそうになった。
「君の置かれる立場はこれから大きく変わる、今は慣れることに集中する時間だ。人に世話されること、頭を下げられること、膝をつかれること、それが当たり前となるのだから」
「そんな、私はそんなに大層な人ではないのに」
「神の遣い、神子様とはそういう存在なんだよ。君には君にしかできないことがある、誰もが持たない唯一無二の力を持っている。頑張って自覚していかないとね」
この期に及んで動揺する私に、将軍様は決して嫌な顔をしない。
丁寧に私と目線を合わせ、説明してくれる。
ただの孤児にすぎなかった私に、きちんと膝を折って話してくれる。
「私……、王家に保護されるようになるんですよね」
「ああ、そうだね」
「王家は、この国で一番偉い方々ですよね」
「ああ、もちろん」
「……将軍様も、変わってしまいますか? 私に頭を下げるようになる?」
それなのに、口から出てくるのは不安ばかり。
将軍様が優しく私の心をほぐすものだから、ついにはそんな子供っぽい質問さえしてしまった。
将軍様はきょとんと目を丸め、そのあと苦笑する。
「ところどころで感じてはいたが、君は賢いね。察しも良いようだ」
「違います。何も分からないからここでぐずるしか出来ないんです」
不満そうにそっぽを向いた私に将軍様が笑う。
将軍様は19歳と言っていたから、私よりも4歳だけ上だ。
そう、たったの4歳。
けれどこれではまるで大人と子供だ。
私が4年後こうした落ち着きを持てるだろうかと聞かれれば、とても自信がない。
「問いに答えようか。君の立場が私よりも上になる日は、おそらく来るだろう」
そうして将軍様はきっぱりとそう答えた。
横に向いた顔を将軍様に戻せば、その顔は相変わらず優しく笑んでいる。
私の手に重ねられた将軍様の手はやっぱり温かい。
視線は外れていなかった。
「この国がどういう成り立ちかは知っている?」
「え? は、はい。先生から教えられました。この国は人に恋した神様が作った国だって」
「そう。至る所に神器や神話が残り、孤児院や教会が多くて聖職者も多いのは、だからだ」
スフィード王国では常識の話だ。
いつだって神様の存在は教えられてきたし、神の遣いという存在を知らない人はいない。
もっとも目に見えない神話を心から信じる人なんて半分いるかどうかだろうけれど。
話だけならば皆が知っている。
だから神の遣いという存在がこの国にとってどれほど影響力のある存在かは、私なりに分かっているつもりだ。
私が自分を神の遣いだと信じられなかったのは、こういう面もあったから。
「王族は神様の遠い子孫だ。王城には数多くの神器が残っているし、王家の方々は神話で語られる外見を受け継いで今も生を繋いでいらっしゃる」
「はい」
「神の子たる神の遣いは、この国でとても大きな存在だ。王家と同じほどに神の影響を受けた存在。おそらく庇護という言葉はつまり」
「……家族として迎え入れられるということ、ですか」
問えば、将軍様は「そうだ」と頷いた。
そして私が王家に迎え入れられれば、当然立場は私のほうが上だと。
王太子様の側近で王家に忠誠を誓う将軍様は、王族に恭順を示す。
私が王族になれば、当然将軍様との関係性は主従だと。
「将軍様は、きっとその時躊躇わず膝をつきそうですね」
誰よりも深々と頭を下げて私を敬うのだろう。
この少ない期間の間に、将軍様のそういう誠実な面を多く目にした。
王命を受けただけに過ぎないだろうに、私にこうして寄り添ってくれるような人なのだ。
将軍様はやっぱり苦笑して、答えは言わなかった。
それが何よりの回答だ。
立場がどんどん変わっていく。
ただただ将軍様のお役に立ちたいという思いだけでここに来たけれど、その将軍様より立場が上になる日が来る。
今ですら追いつけていないのに、受け入れられるだろうか。
そしてその中で将軍様を手助けできる方法を自分で見つけられるのだろうか。
守られるだけでは、決意してここに来た意味がないというのに。
……ダメだ、何もかも不安になりすぎて思考がから回っている。
こうして時間を割いてくれる将軍様にこれ以上の不安を押し付けては迷惑になる。
頭を振って、無理やり笑った。
「私、家族って初めてです。家族ってどんな感じなんだろう」
「……教えてあげたいところだけど、私ももともと孤児だからね」
きっと歪な笑顔であることは将軍様も気づいているんだろう。
それでも苦笑しながら私に話を合わせてくれる。
しっかりしないと。
このままでは役に立つどころか足手まといだ。
不安にのまれ後ろ向きになりかける自分の気持ちを引き締めた。