14.恐れていたもの(side ユーグ)
『どうか、兄様が幸せに満ちた夢をみることができますように』
そんな声が耳の奥まで響いたのは、クルク軍挙兵の報せを耳にする直前のことだった。
いつまで経っても消えることのないあの地獄のような悪夢に魘され苦しんでいた時、唐突に響いてきた婚約者の声。
……婚約者。
あの控えめな笑顔を思い浮かべれば、口から洩れるのは自分に対する嘲笑で。
愛どころか平穏な場所すら与えられない自分が婚約者など、酷すぎて吐き気がする。
リリはその身に特殊な力を宿していようとも、いたって普通の子だ。
嬉しい時には喜び、悲しい時には静かに泣いて、驚いた時は固まり、不安な時には目を彷徨わせる……そんな当たり前の感情を当たり前に表に出す普通の少女。
それでもいつだって人の身を案じられるような、そんな優しい子だった。
孤児から王女となり環境が激変する中でも文句ひとつ言わず淡々と受け入れて見せた彼女。
陛下や殿下を畏れながらもそれでも恥をかかせたくないと黙々と努力を重ねてきたことを私は知っている。
私が寝不足だと気づけばそっと癒し効果のある薬草を摘んで匂い袋にしてくれたこともある。
どれもこれも日常の些細なことではあったが、それでも彼女はよく気付きよく動いた。
ああ、いい子だなと思う。
人のことを大事にできる優しい子だと。
純粋に慕ってくれていると分かるとむずがゆい気持ちになり、傍で楽し気に笑う顔を見れば温かくなれる、そんな可愛い妹分のような存在……それが私がリリに抱く正直な感想だった。
そんな少女をあの残虐な戦場に送り込む自分はどれほど外道なのか。
どのような理由があろうとも、人の感情を利用しその生命を脅かす行為など許されて良いものではない。
それが、戦場の過酷さを誰よりも知るはずの自分ならば尚更。
戦の残忍さを知っている。
目の前で命が潰れていく様を、命の価値が鈍るほどのあの恐怖を、生き残るためにどこまでも残虐になれる人間の醜さを、嫌というほど。
当たり前のように人が死に、仮に生き残ったとしてもこうして10年以上寝ることすらまともに出来ない。
それが戦というものだ。
私から全てを奪った、この世で何よりも嫌悪し憎い……。
その中へ、ただ稀有な能力を持っているからという理由だけで私は彼女を放り込む。
リリのそのひたむきな好意を利用するという最悪の方法で。
ごめんで済むような話ではない。おそらく私は許しを請う資格すら持ちえない最悪の婚約者だ。
それ、なのに。
『力になりたい』
『報われてほしい』
『特別なんかじゃなくていいから』
ある時を境に突然響いてくるようになった彼女の声は、いつだって私に真っすぐと届いた。
それが私にだけ届くリリの心の声だと気付いたのはいつのことだったか。
リリ自身も気付いてはいない様子だが、何らかの神器が発動しているのかもしれない。
その力を通して私はリリの本心とその覚悟を知った。
『傀儡でいい、たとえ兄様の求めるものが私の愛ではなくて私の身に宿ったこの力なのだとしても構わない』
……そう、その衝撃的な事実を。
私がリリを愛してなどいなかったこと。
神の遣いという存在をこの国に留めたいが為にその心を利用したこと。
そして、私のあの忌まわしい過去すらも。
全てを承知の上で、それでも力になりたいと彼女はその場に留まり続けた。
私達が望む王女であろうと本音をひたすらに隠し続け。
恐怖に震える体を無理やりにも叱咤し続け。
「……すまない。本当に、すまない、リリ……っ」
どれほどの覚悟だったのだろうか。
自分の未来が決して優しくないものだと知りながら、自分の縋る相手が決して信頼に値する人物ではないと理解しながら、それでも傀儡であろうと一人心に決めた彼女はどれほど苦しんで……。
「この力、スフィード王国のため喜んで捧げましょう」
それでもリリは、淀みなくそう言い切った。
綺麗な笑みすら浮かべて、震える手を見事に隠し、皆の前で堂々と。
『兄様の役に立ちたい』
そんな全てを投げ出すほどの価値など微塵もない私の為に、必死に。
……特別な存在など、殿下以外にはもう作れないと思っていた。
どうしたって人との関りが深くなればなるほど、それを残虐に失った記憶が蘇る。
常に失うことに怯え続ける生活は気が狂うだけだと予防線を張り続けていた自分。
そんな存在を作ることにすら嫌悪していた。
……それなのに。
「この国の王女でありユーグ兄様の傍にいることこそが私の生きる意味」
恐怖に駆られようともそう言ってしまえる彼女の強さに。
「大丈夫です、兄様。私はずっと傍にいます、から」
こんな時でも私の身を案じてしまうような、そんな彼女の心に。
「……相応しい自分になりたい」
そう思う自分がいた。
この小さくて誇り高い少女に誇ってもらえるような自分になりたいと、そう。
いつの間にか、こんなにも私は彼女を。
「…………てめえの醜さを認め、しでかした事を省み、それでも望むのかコイツの傍を」
救世主のごとく現れクルクを追い返した第二の神の遣いは私に問いかける。
私に鋭く視線を向け、憎悪を隠しもしない声色で。
「そう、だな。私にそれを望む権利は、ないだろう」
「ハッ」
「しかし」
「……あ?」
「もう、私は嘘はつけない。この子に対しては、絶対に」
口から出てきたのは心の奥底から湧いた感情だった。
「……生きていきたい、この子の隣で」
“死にたくない”という理由ではなく。
殿下の為に、でもなく。
前でも後ろでも上でも下でもなく。
……兄として、でもなく。
「そのためにこいつに許せとでも言うつもりか?」
「いいや、そのようなことは言わない。……言えない。だが、努力を惜しむつもりはもう、ないんだ。諦められないというのならば、示し続けるしかないだろうから」
「……そうか」
目を閉ざしたまま眠るリリは、私の腕の中でしっかりと脈を打っている。
それを見つめ続ける私を、シュリ国の若き王は結局引き離すことはしなかった。