0.ユーグ兄様と私
「貴女を愛し守る栄誉を、どうかこの私にいただけないでしょうか」
その言葉は一切の淀みなく綺麗に響き渡った。
王都城下の、この国で最も人が行き交うはずの中央広場。
その中心で綺麗な蜜色の髪が揺れている。
いつもなら隣人の話声ですら聞き取りにくいこの場所で、今この瞬間言葉を発する人間はいなかった。
王太子殿下の右腕でもある将軍様が3年前までただの孤児にすぎなかった私に愛を乞うこの光景。
自然と民衆たちの距離と私達との距離は開き、さながら舞踏会の主役のように私達は目立っていた。
目の端に映るだけでも、皆一様に驚きの表情で私たちを見つめている。
差し出された花束は、深い赤のリクリスだ。
愛を伝える赤と幸福を示すリクリスの花。
その組み合わせの意味は、この国の人間ならば誰もが知っている。
古くから身分問わず何度も繰り返されてきた求婚の風景。
ぴたりと固まったままの私に、彼、ユーグ兄様は綺麗に笑う。
「突然のことで驚かせてしまったね。けれど、どうか考えてくれないかな」
軍部のナンバー2にはとても見えないほど穏やかな笑みを浮かべるユーグ兄様。
落ち着き払ったその言葉に、私はやっと我に返ることができた。
刺さるような視線の中、震えそうになる手を必死に押しとどめそっと私はその花束を受け取る。
胸に湧いてきた感情が歓喜なのか悲哀なのかもはや私には分からない。
想像していた展開だというのに、情けなくも動揺した私の口から出てきたのは少々意地悪な問いで。
「ユーグ兄様、私……夢でも見ているのですか? だって、ユーグ兄様は私のこと妹としてしか見ていないのだと」
その答えは、私自身が誰よりも知っていた。
それでも聞いてしまったのはほんの少しの希望に縋りたかったのかもしれない。
けれど現実というのは残酷なもので、私の想像と違わず兄様は一瞬だけ目元を歪ませる。
罪悪感に染まった色を宿して。
……ああやっぱりかと、自分勝手に落胆する自分を情けなく思った。
自然と視線が真下を向いてしまうのは、私がまだまだ未熟だからなんだろう。
花束を持つ手の力を強めることで何とかそんな自分を押し込めて、視線を無理やり持ち上げる。
そのわずかな間で、兄様の顔はすっかりいつもの見慣れた綺麗な表情に戻っていた。
やはり綺麗な表情のまま緩く苦笑を作ってみせた兄様の手が、そっと私の手に触れる。
その華奢な体と爽やかな顔にはとても似つかないゴツゴツとして硬い武人の手。
私の大好きな、温かくて大きな手。
「貴女を愛しています。どうか、私を生涯の伴侶として選んでほしい」
はっきりと言葉にされた瞬間、取り巻く民衆がざわざわと騒がしくなった。
そうしてほどなくして再び静寂に包まれたこの空間の中心で、私はゆっくり息を吸う。
「……はい、喜んで」
ポロリと流れてきた涙と共に、私はただ一言そう告げる。
リクリスの花をぎゅっと抱き込み兄様に向けたその表情は、ちゃんと世界で一番幸せな少女のそれになっているだろうか?
私の本心をうまく隠してくれてはいるだろうか?
兄様が望むような表情になれている?
それすら分からない私だけれど、確認する前に私達を取り囲んでいた人々からわあっという歓声が上がった。
おめでとう! と心からの笑みを無邪気に私たちに向けてくれる。
その声に応えるように、兄様は立ち上がって周囲に優しい笑みを向けた。
「大切にするよ」
その言葉と共に、彼は私を優しく抱きしめる。
言葉の意味そのままに壊れ物でも扱うかのような手つきで。
拘束は限りなく緩く、けれどその温もりも匂いもいつも以上に身近に感じて勝手に高鳴る心臓。
大切にするというその言葉だけは本心のような気がして、私はやっぱり嬉しくて悲しくなった。
今日もユーグ兄様の胸元には綺麗なエメラルドグリーンのペンダントが揺れている。
そっと身を寄せれば、ちょうど頬のあたりに触れた。
『殿下、先日の件ですがお受けしようと思います』
『そう、か。決心してくれたか』
『はい。……リリに求婚いたします』
『お前の忠誠と献身に心から感謝する。我が国にはリリの力が必要だ。リリはお前をよく慕っている、頼むぞユーグ』
『はっ』
……脳内に直接流れ込む事実は今日も容赦なく私を傷つける。
どんなに願っても、私の想いとこの人の想いは中々同じ方向を見ない。
ユーグ兄様は優しく温かで、そして誰よりも残酷な人。
分かっていたって、好きという言葉しか思い浮かべられない私は滑稽なのだろうか。
本来ならば私の耳に届くはずもない言葉たち。
秘密裏に交わされたであろう会話。
盗聴するような真似は私だってしたくない。
自分にとって優しくない現実ならなおさらそうで。
『私は私の都合でリリを利用します。ですが、利用する以上は誰よりもリリの盾となり支えとなり大事に守りたい。……せめて、あの笑みが絶望に染まることの無いよう』
『ああ、私も出来る限りの協力はしよう』
『どうかよろしくお願いいたします。あの子は、私にとっても可愛い妹のような存在、ですから』
けれど、こんなに不器用で優しい人を放っておくことなんてできない。
いつだって自分のためより人のために傷つく兄様を、守りたいのだ。
たとえ兄様の求めるものが、私の愛ではなくて私の身に宿ったこの力なのだとしても。
それでも構わないと思えるほど人を好きになれたのは初めてのことだったから。
「兄様、大好きです」
「……ああ、私もだよ」
「ずっと、ずっと傍にいさせて下さい。……兄様が、その言葉を私に届けてくれる限り」
「こちらこそ」
だから、たとえ兄様の口から出てくる言葉のその大半が偽りであろうとも構わない。
どんなに滑稽に見えようとも、私はもう兄様の傀儡として生きるのだと心に決めたのだ。
兄様が私を必要としなくなるその瞬間まで。
それは、後にこの国で広く語り継がれる愛の物語。
その中心で実は2人揃って壮絶な覚悟を決めていたことなど、この国で知る者はまだ私以外にいない。