マシュマロ・エクスプロージョン!
3月14日は円周率の日でもあるんだっけ?
俺はぼんやりと天井のシミを見つめ、すでになんの意味もなくなりつつある数字の羅列を呟き、そう思った。
3.141592653……
身一つ世一つ生くに無意味……
語呂合わせで覚えているのはここまでだ。
あとはデタラメ。
161782354912748233112345678902……
とにかく数字を並べ立てる。
なるべく寝転がった床の、フローリングの硬さに意識を集中させて……肩とか頭とか。
間違っても首元をくすぐる猫っ毛の髪とか、胸のちょっと下あたりに感じる弾力ある柔らかな何かとか、足に絡みつく重さとかを堪能してはいけない。
心頭滅却すれば、理性を無視した自然現象も止まるはず…………ってムリムリムリムリムリっ!!
俺の上にのしかかるそれは、荒い息を吐きながら身じろぎした。
「ゴメン、洋くん。いま退くから」
「そ、うして貰えるとありがたいけど、大丈夫か?」
俺は今、幼馴染の佳代に押し倒されていた。
佳代が俺の上で気だるげに顔を上げる。
潤んだ瞳と合い、慌てて逸らす。
どうしてこうなった。
俺は少し前のことを思い出した。
バレンタインの日、俺と佳代は付き合うことになった。
それから1か月、もともとお互いの家に行き来することは多く、だらだらとテレビを一緒に眺めることもあった俺たち。
そんな生活から新たに加わったのが、放課後にファストフードに寄ったり、土日に映画館に一緒に行ったりなど学生同士のカップルらしい習慣だった。
はじめはお互い、気恥ずかしいばかりだった。けれどそれ以上の楽しさとワクワク感もあった。
そして3月14日。
世間一般でいうホワイトデー。
バレンタインにプレゼントをもらったやつがお返しをする日。
俺たちにとっては付き合って1か月記念日だ。
俺たちは学生で金もないし、佳代も俺もバレンタインのチョコは贈った贈られたという感覚がない。
そのため14日は佳代の家で2人、チョコフォンデュをすることにした。
チョコフォンデュの器やロウソクは佳代の家にあったので、材料だけを買う。
バナナ、いちご、クッキー、マシュマロ……もちろん板チョコ、生クリーム、牛乳も忘れない。
材料費は折半……っと、佳代は言ったがそこは俺の方が多めに払う。
まぁそれくらいは彼氏っぽいことをしたいし。
二人で近所のスーパーで買い物をし、佳代の家に行き、台所に立ってチョコフォンデュの準備をした。
準備、と言っても板チョコと適量の生クリーム、牛乳をレンジであたため、混ぜるだけだ。
思えばこの時から佳代の様子はおかしかったのだ。
チョコを混ぜ合わせる手がおろそかになったり、中空を見つめたり。
それに気がつかず俺は出来上がったフォンデュを居間へと運び「マシュマロは温めると上手いらしい」とか言いながら電子レンジであたため、ピーッというレンジ独特の電子音が鳴って、マシュマロの皿を取り出そうとしたところ、俺の後をついて来た佳代が倒れ掛かってきたのだ。
突然のことだったので、俺は佳代がぶつかってきた拍子に熱いマシュマロを落としかけてバランスを崩した。
で、こうなったわけなんだよな。
俺を下敷きに佳代が倒れた。
とっさに佳代がけがをしないよう俺が下になったのは褒めてほしい……いや、すみません、偶然です。
しかしこの状況は非常にまずい。
健全な男子としてこの体勢が続くことは、とんでもなくまずい。
とりあえず気を紛らわせるために円周率もどきなんかを唱えてみたが、その呪文も効果がなくなりつつある。
それに俺よりももっと、佳代の方がやばそうだった。
呼吸の速さが尋常じゃない。
身体も熱いし、ぶるぶると震え始めている。
今日は3月とはいえ、天気は雨で寒の戻りなのか、春とは思えないほど寒かった。
佳代が震えているのはそれだけじゃないだろう。
「お前、もしかして、熱とか出てない?」
「わかんない……でも、さむい」
それ、悪寒だから。熱出てるから。
相手は弱っている。理性よ、勝つんだ! 今弱みに付け込んだら佳代との関係もすべて終わるぞ!
俺は気合を入れて……
両手で持ったマシュマロの皿を床に置いた。
ヘタレと呼ぶな。
熱に浮かされ、うっすらと汗をかく佳代は色っぽい。俺の理性なんて吹けば飛ぶ紙のようなものだった。
そこを何とか膨れ上がる本能を抑え込み、佳代に声をかける。
「悪い、ちょっと起こすよ」
「うー」
恐る恐る佳代の腕をつかみ、わきへ退かした。
本当は抱きながら上体を起こす、という恰好良いことをしたかったのだが、重くて無理だった。
佳代が床にゴロンと転がる。
よし、ここはお姫様抱っこだ、と佳代の背に腕を回すも、朦朧とした意識の人間を抱き上げることは難しくすぐにへたり込んでしまった。
情けない。
仕方がないので佳代に自力で歩いてもらうことにする。
「佳代、苦しいかもしれないけど。部屋に行ってベッドで寝よう。歩ける?」
「でも、チョコフォンデュ、まだ食べてない」
「あれは中止だ。また今度食べよう」
「え……」
佳代が悲しそうな顔をした。
「楽しみにしてたのに」
そうか、楽しみにしてたのか。
そうだよな、熱が出てもそれを隠して、俺と一緒に食べようとしたんだよな。
「無理するなよ。今度、一緒に食べよう」
一緒に、という言葉を強調して言う。
佳代はやっと納得してコクリと頷いた。
ふらふらと立ち上がり、歩き出す。
佳代が歩きやすいよう、腕につかまらせ歩調を合わせたが階段で二人、よろけてしまう。
なんとか登り切り、佳代の部屋のベッドに寝かせた。
「ありがとう、洋くん」
佳代に感謝の言葉を述べられ、息苦しくなった。
「佳代、何か欲しい物とかないか?」
「うん、あのね、ココアが飲みたい」
「ココア?」
「うん、マシュマロ入りのココア」
「わかった」
苦しそうな佳代に肩まで布団を掛けてやり、俺は部屋を後にした。
戸が完全にしまったところで息を吐く。
早くココアを作らなくては。
さっきは二人でよろけた階段を、唇を噛みながら下りていき、台所に立つ。
倒れたとき持っていたマシュマロの皿が、床に置いてあった。
拾い上げる。
マシュマロは膨れた状態のまま固まっていた。
なんだか焦げ臭い。
スプーンを拝借して、マシュマロを突いてみると、マシュマロの内部は茶色く焦げていて、ところどころ皿にこびりついていた。
熱を掛けすぎたのだ。
見た目は美味しそうに膨れ上がり、白くきれいな形をしていたのに、内部は無残なものだった。
マシュマロは爆発しない。
電子レンジの中で熱を掛けられ膨れるだけ膨れる。
パンと派手な音を立てて破裂することも、プシューと空気を吐きながらしぼむこともない。
ただ静かに焦げる。苦くなる。
それに気がつかなかった自分が情けない。
気付いた後も、しっかり彼女を支えてあげられなかった自分が情けない。
マシュマロの皿をシンクで洗いながら、俺は込み上げるものをかみ殺した。
早くココアを作らなくては。
市販のココアの粉を4杯、カップに入れ少量のお湯を注ぐ。
かき混ぜている間、牛乳を別のカップでレンジで温める。
牛乳が温まったら、ココアの入ったカップと合わせ混ぜる。
マシュマロは皿に入れてレンジへ。
今度は熱をかけ過ぎないよう、じっと見つめる。
膨らんできたところで、電子音が鳴るより先に扉を開け、マシュマロを取り出した。
膨らみすぎることなく、ちょっとトロッとしたマシュマロ。
今度はうまくいったみたいだ。
形を崩さないようスプーンですくってカップに浮かべる。
俺はそれを持って、佳代の部屋をノックした。
「佳代、入るよ」
返事がないので、無断で入った。
佳代は寝息を立ててすやすやと眠っていた。
やはり無理をしていたのだ。
佳代はあまり、自分の状態を口にしない。
あれが欲しいとかこれが好きとかもあまり言わない。
だからすぐ無理をする。
俺は勉強机の上にココアを置き、椅子をベッドまで引き寄せ座った。
ここ最近、学校では受験に向けてのテストが続き、俺も佳代も疲労はたまっていた。
3日前は春の陽気で、暖かったのに昨日の夜あたりから冬に逆戻り。
もしかしたら昨日から佳代は体調が悪かったのかもしれない。
もっと注意して見ていれば、佳代にこんなに無理させることはなかったはずだ。
マシュマロは爆発しない。
佳代も内に言葉を押し込めて、自分のことは言わない。
マシュマロが内部で焦げてしまったように、佳代もいつか今日よりもひどいことになりはしないだろうか。
それが例えば、命につながるようなことだったり。気づかずに手遅れになってしまったら。
勘弁してくれ。
ベッドに頭を預ける。
「洋ちゃん?」
佳代が目覚めた。
俺は体勢をそのままに、目だけで佳代を見た。
「佳代、つらいならいってくれよ。びっくりしたよ」
「ご、ごめん」
「言わなきゃ分かんないんだよ」
「でも、ずっと今日のチョコフォンデュ楽しみだったの。だから、無理してでも食べたきゃって」
「無理なんてするなよ」
手を伸ばし、佳代の猫っ毛をわしゃわしゃとかき回す。
「今日じゃなくても。何ならやりたいなら夏だって、佳代が食べたきゃチョコフォンデュなんていくらでも作るよ。だから、勝手に内にためて潰れないでくれ」
「う、心配かけてごめんなさい」
眉間にしわを寄せる佳代に、俺はココアのカップを差し出した。マシュマロがぷかりと浮いたそれは、なかなか自分の思いを口にしない彼女の、珍しくご所望した品だ。
「気持ち悪かったら無理して飲まなくていいからな」
「ん、大丈夫。なんだか小さなチョコフォンデュみたいね」
茶色のココアに浮いた白いマシュマロを見つめる佳代。
そんな彼女を見つめる俺。
ずっと見ていよう。
爆発しないマシュマロを見張るように。
彼女が弱る前に助けられるように。
「さ、それ飲んだら寝ろよ。何かあっても大丈夫なように俺もそばにいるからさ」