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翌日、事態は急展開を迎えることとなる。
正午を過ぎた頃、リゼラード家に王宮から使者が訪ねて来た。彼らは至極丁重な態度で用件を簡潔に伝えた。曰く、自分たちはテシウス様の使いであること。そして、そのテシウス様がリゼラード侯爵令嬢―――つまり、わたしを個人的に王宮へ招待したいと仰っている、と。
その信じがたい内容に仰天した両親が、使者に理由を訊ねると、それはテシウス様がわたしと会ってから直接説明されると言って、詳しいことは何も語らない。もしや、昨日の舞踏会で気づかない内に何か粗相をしてしまったのだろうか?
昨夜からずっと自室に引きこもり、失恋の悲しみに暮れていたわたしを、両親は慌てて小綺麗に飾り立て、迎えに来ていた王家の馬車へと無理やり押し込んだ。訳も分からず、半ば攫われるようにして連れていかれた王宮の一室でわたしを待っていたのは、昨晩お会いしたばかりのテシウス様だった。
「こんにちは。突然お呼び立てしてしまって申し訳ありません」
テシウス様は腰かけていた長椅子から優雅に立ち上がり、不作法にも扉の前で立ちつくすわたしに向かってふわりと微笑んだ。その笑顔の眩しいことといったら。
思わずくらりと眩暈がしてしまい、テシウス様に「大丈夫ですか?」と心配されてしまった。恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい。それでもテシウス様は決して笑みを崩さず、完璧なエスコートでわたしを長椅子へと導いてくださった。
それだけでも夢のような出来事なのに、てっきり向かい側の椅子に座ると思っていたテシウス様が、何故かわたしの隣に寄り添うように腰を下ろした瞬間、わたしの緊張は頂点に達した。少しでも動けば体が触れ合う距離である。
瑠璃のような美しい色を宿した瞳が、昨日よりずっと近いところからわたしを見つめている。そう思うと、今すぐこの場から消え入りたくなった。一体、テシウス様の目にわたしの姿はどんな風に映っているのだろうか。母に言われるがまま、お気に入りの清楚な若草色のドレスを着せられてきたものの、繊細なフリルとリボンでは風船のように膨らんだ体は隠しきれず、屋敷を出る前に鏡で見た姿はお世辞にも美しいと言えるものではなかった。そんな見苦しい自分を、これ以上テシウス様の目の前に晒し続けることは耐えがたい苦痛だった。
―――逃げ出したい。
そんなわたしの心を見透かしたのだろうか。不意にテシウス様の白い指がわたしの丸い手を優しく掴み、心臓が止まるほど驚いた。
「フィリエル=リゼラード嬢」
テシウス様はうっとりするようなお声でわたしの名を呼んだ。緊張のあまり声も出せないわたしに、テシウス様は続けてとんでもないことを宣った。
「僕と結婚していただけませんか?」
「―――は?」
わたしは間抜けなことにぽかんと口を開けて固まった。テシウス様は今、何と仰った?
呆然と瞬くわたしを見つめながら、テシウス様は更に追い打ちをかける。
「昨夜の舞踏会で、あなたを一目見て恋に落ちたのです。どうか、僕の妃になってくださいませんか?」
その夢のような言葉に舞い上がるほど、わたしはおめでたい女ではなかった。いや、そんなことは夢に見ることさえ畏れ多い。テシウス様に恋をしていたといっても、わたしは身の程を弁えていたし、密かに想いを募らせるだけでじゅうぶん満ち足りていた。余程の物好きでもなければ、こんなわたしを愛してくれるはずはない。ましてや、相手はこの国の王子様だ。引く手数多どころか、国中の美しい娘達が喜んで身を差し出すだろう。
「リゼラード嬢………?」
黙りこんだわたしを訝しみ、テシウス様は困ったように首を傾げた。わたしは悲しさのあまり、奥歯をぎゅっと噛みしめる。これはきっと質の悪いゲームだ。暇を持てあました悪趣味な貴族達とつるんで、わたしをからかっているに違いない。恋しい人が最低なことをする人間だったと思い知らされ、わたしは失望した。
「………酷い」
耐えきれず、ぽろりと涙が零れた。人前で泣いてはいけないという母の教えを思い出し、わたしはテシウス様の視線から逃れるように顔を背ける。
「いくらわたくしが醜いからといって、からかうのはおやめ下さい。わたくしにだって、傷つく心があるのです」
「からかう?」
テシウス様は透き通った瞳を不思議そうに瞬かせた後、わたしの頬に光る涙に気づいて目を瞠った。
「だって、そうでしょう? 冗談でもなければ、こんなわたくしに殿下のようなお方が好意を抱くなんて有り得ませんもの」
「いいえ、僕は本当にあなたのことを………」
それ以上残酷な言葉はとても聞いていられなかった。無礼だとは承知しながらも、素早く立ち上がり、逃げるように退出しようとしたわたしの手を、テシウス様が意外なほど強い力で捕らえて引き止めた。さすがに振り払うことは出来ず、けれど、振り返ることも出来ず、わたしは馬鹿みたいに立ちつくすしかなかった。
「―――フィリエル」
不意に家族にしか呼ばれたことのない名が耳元で聞こえたかと思うと、頬に柔らかな感触が触れた。
「え」
ぎょっとして振り向けば、鼻先が触れ合う距離に目を閉じたテシウス様の麗しい顔があり、頭が真っ白になった。だって、テシウス様がわたしの涙を拭ったのだ。その赤い唇で!
石のように硬直したわたしの手を、テシウス様は両手で恭しく引き寄せると、ご自身の白い頬へひたりと当てた。
「柔らかいですね」
「―――!?」
わたしは驚愕のあまり、声も出せなかった。
「あなたを初めて見たときから、ずっと触れてみたかったんです」
わたしのふくふくとした丸い指の形を確かめるように撫でながら、テシウス様はそれは嬉しそうにあどけない微笑みを浮かべて言った。
「な、な、な………!」
わたしはこれ以上ないというほど赤面した。こちらを見つめるテシウス様の瞳の奥に、見覚えのある感情を見つけてしまったから。それは鏡を見る度、わたしの瞳の中に常に潜んでいた、テシウス様を愛しいと思う気持ちと全く同じ真摯な色をしていた。信じられないことに、テシウス様は恋をしているのだ。このわたしに!
テシウス様はわたしの手に頬を寄せたまま、ゆっくりと話を続けた。
「ご存知とは思いますが、僕は幼い頃からずっと病で伏せっていて。恥ずかしながら、この年になるまでほとんど城から出たこともないのです。ですから、あなたのようなふっくらした方にお会いするのは初めてで………」
それはそうだろう。王宮に勤める者は例え一介のメイドであろうと、採用条件に多少の容姿の美醜が関係すると聞く。王子に仕える者達ならば尚更器量の整った女性が揃えられていることだろう。太った女など論外だ。
「昨夜の舞踏会で、沢山の女性にお会いしました。皆さんとても美しい方達ばかりでしたけれど、今にも折れてしまいそうなほどに細くて恐ろしくて………。その中で、あなただけ異彩を放っていて、僕は目を奪われました」
「そ、それは………単に悪目立ちしていただけで………」
わたしは目を逸らし、今にも消え入りそうな声で反論した。
「いいえ。僕は一目であなたの存在に惹かれました。その腕に抱かれたら、どんなに安心できるだろうかと想像して、昨夜は眠れませんでした」
白皙の頬を染め、うっとりと高揚した瞳で語るテシウス様。思いがけない展開に混乱するわたしを、テシウス様はこれ以上ないほどの真剣な眼差しで見つめた。
「ねえ、フィリエル。僕のことがお嫌いですか」
「まさかっ」
思わず本音を叫んでしまい、自分の迂闊さに頭を抱えたくなった。一方、テシウス様はぱっと目を輝かせた。
「では、結婚を承諾してくださるのですね!」
「………で、でも、きっと陛下がお許しになりませんわ」
テシウス様のお気持ちは純粋に嬉しい。だが、それだけではすまされない。王家の婚姻には様々な事情が絡むものだ。わたし達の個人的な感情で決められることではない。あまつさえ、わたしはこの通りの容姿だ。周囲から猛反対されるのが目に見えている。けれど、テシウス様はにっこり笑って言った。
「その点は全く心配要りません。昨夜、舞踏会が終わってすぐ、父上と母上にあなたとのことをお話したのです。そうしたら、今まで我儘一つ口にしたことのなかった僕が、初めてお願いをしてくれたととても喜んでくれて。すぐにでも式の準備をしてくれるそうです」
「ええ?」
「今頃きっとこの件について、僕の両親からリゼラード侯爵宛に手紙が届いていると思います」
「――――」
それからのことは、まるで嵐のようだった。あれよあれよという間に事が進み、気がつけばわたしは純白の花嫁衣装を着てテシウス様の隣に立っていた。結婚式までに少しでも見苦しい姿を改めようと足掻くわたしを、テシウス様が「そのままのあなたが好きですよ」といって優しく引きとめてくれたおかげで、それはそれは滑稽な花嫁姿であったわけだが。横に並んだテシウス様がとても幸せそうに微笑んでいたので、わたしは何だかどうでも良くなってしまい、最後にはすっかり開き直ってしまった。
―――そうして、現在に至る。
すぐそばには相変わらず輝かんばかりに美しいテシウス様がいて、目の前にはわたしが大好きな菓子がたくさん並んでいる。
「はい、あーん」
この甘い誘惑に、わたしはきっと一生逆らえない。