第8話 名前が戻る
数週間後。与党本部ビルの会議室では、次期政策発表会の準備が進んでいた。
長机の上には、登壇者の名前が印刷されたプレートが並べられている。
若手議員の一人が、「高城恒一」と書かれたプレートを手に取り、隣のスタッフに小声で尋ねる。
「これ、本当に出すんですか?」
「いや、さっき急に変更が入った。『若手枠』は別の人に差し替えだってさ」
スタッフは、無造作にプレートをひっくり返し、新しい名前が印刷された紙を上から重ねる。
「理由は?」
「さあな。『総合的判断』だろ」
「総合的判断」という言葉は、政治の世界では「もう推さない」の婉曲表現だ。
プレートが静かに片付けられ、別の名前が並ぶ。
そこにはもう、彼の席はなかった。
同じ日、凛は内閣官房の会議室にいた。
テーブルの上には「政策企画スタッフ正式採用内定」と書かれた書類が置かれている。
「ここに、署名をお願いします」
担当者が差し出したペンを受け取り、凛は自分の名前を丁寧に書いた。
「白石凛」
九条ではない。だが、その名前だけで、この席に座れている。
「これまで、政務秘書としてのご経験が豊富とのことですが、
今回は党所属ではなく、内閣のスタッフとしての採用になります。
政治的中立性が求められますが、その点は問題ありませんか」
「問題ありません」
凛は、迷いなく答える。
「元々、特定の政治家の『応援団』でいるつもりはありませんでした。
政策の履歴が、正しく残る場所で仕事ができれば、それで十分です」
担当者は、安心したように頷いた。
「例の『披露宴』の件は、こちらでも報告書を拝見しました。大変だったでしょう」
「私は、履歴を揃えただけです」
「むしろ、『履歴を揃えてくれる人材』は貴重です。
ここでは、その能力を正面から評価させていただきます」
数日後、凛と麗華は再び「ルーチェ」で向かい合った。前回よりも、少しだけリラックスしていた。
「改めて、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
麗華はコーヒーカップを持ち上げる。
「党の中で、あれだけ名前を出さずに動いてきた方が、ようやく『名前あり』で仕事をされる。
私としても、嬉しいです」
「まだ、『名前が出すぎないように』気をつけないといけませんけど」
凛は、少しだけ冗談めかして言う。
「でも、『クレジット』は、ちゃんと残ります」
麗華は真剣な表情に戻る。
「披露宴の後、九条家の中でも、だいぶ議論がありました。
『あそこまでしなくても良かったのではないか』という意見もありましたし」
「当然でしょうね」
「でも、最終的には、『名前を消さなかった』ことだけは評価してもらえました。
祖父も、『あれでいい』と」
麗華の視線には、迷いがない。
「それで、あなたが言葉にしたかったこと、というのは?」
問いかけに、凛は一度だけ息を整えた。
「披露宴の席で、あなたが言ったことです」
凛は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「『女性同士は敵ではありません』」
必須の一文が、静かにテーブルの上に置かれる。
「私も、その通りだと思います。
少なくとも、あの場で、あなたは私を『彼の元恋人』としてではなく、
『名前を消された一人の仕事人』として見てくれました」
麗華は、頷く。
「それが、嬉しかった?」
「はい」
凛は、躊躇なく認める。
麗華は立ち上がり、手を差し出した。凛もそれに応える。
握手を交わした二人の手のひらの温度は、対等だった。
翌週、凛は初めての政策会議に参加した。
「白石さん、この案件の履歴、確認してもらえますか」
課長が資料を渡してくる。凛は画面を開き、ファイルのプロパティを確認する。
「作成者が三名、更新履歴が十七回。最初の提案者は田中主任ですね」
「そうか。じゃあ田中の名前も報告書に入れておこう」
「承知しました」
会議が終わり、若い女性職員が凛のデスクに近づいてきた。
「白石さん、さっきの『作成者確認』って、いつもやるんですか」
「はい。記録は大切ですから」
「なるほど……私も、そうします」
女性職員は小さく頷いて戻っていく。
凛は新しい政策原案のファイルを開いた。作成者欄にカーソルを合わせ、迷いなく入力する。
≪Rin Shiraishi≫
保存ボタンを押す。バージョン履歴に、その名前が刻まれる。
凛は画面を閉じた。
窓の外では、霞ヶ関の朝が静かに動き始めている。
復讐じゃない。
ただ、名前を戻しただけ。
【完】
本作は復讐劇ではありません。
消された名前を、正しい場所に戻す物語です。
奪ったのではない――見なかっただけ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




