第2話 招待状
クリーム色の封筒は、明らかに特別な紙質だった。
手に載せると、わずかに指に吸いつく感触がある。差出人住所は港区の高台。九条家の本邸だ。
凛は自宅のダイニングテーブルで、その封筒を慎重に観察した。
宛名は万年筆で書かれている。「白石凛様」という文字は、ブルーブラックのインクで記されていた。
筆圧は最初から最後まで一定で、迷いがない。
曲線も払いも、速度が崩れていないことから、普段から手紙を書き慣れていると分かる。
住所表記には、「ヶ」や「崎」などの字にわずかに旧字体の癖が混じっている。
おそらく、家で使っている住所録のフォーマットが古いのだろう。形式にうるさい家。
けれど、最初から最後まで他人任せではない。
「九条からね」
母の白石志乃が、キッチンから顔を出して封筒を覗き込みながら言った。
「麗華さんから?」
「たぶん」
凛はペーパーナイフで封を切る。中から出てきたのは、結婚披露宴の招待状と、小さなカードが一枚。
印刷文面は、ほとんど典型的だ。敬語も構成も見慣れた定型。だが、文末だけが少し柔らかい。
「——ささやかではございますが、両家のささやかな門出をお見守りいただけましたら幸いに存じます。」
「ささやか」が二度繰り返されている。財閥本家の令嬢が、あえてそう書く必要はないはずだ。
おそらく、ここだけ本人が書き換えた。定型の中で、わずかに自分の言葉を残そうとする人だ。
同封の小さなカードには、手書きで一行、添えられている。
「突然のご連絡、失礼いたします。可能であれば、一度お会いしてお話を伺いたく存じます。九条麗華」
丁寧な文字。定型の敬語の中に、わずかに個人の温度がある。
「麗華ちゃんね」
志乃がダイニングテーブルに座り、湯呑みを置きながら穏やかに言った。
「会ったことがあるんですか」
「小さい頃に一度だけ。礼儀正しくて、でもはっきりした子だったわ」
志乃は少し遠い目をした後、表情を引き締める。
「高城さんは、九条の縁を選んだのね」
その一言で、凛は説明が省略されていく感覚を覚えた。母は状況を、既に把握している。
「……そうなるみたい」
それ以上、細かい経緯を説明する必要はない。志乃は娘の仕事も、感情も、大枠では理解している。
「責めてるわけじゃないのよ」
志乃は、微笑みながらも声の温度を少しだけ下げる。
「政治家が家を選ぶのは、昔からある話だから。
でも、あなたが自分の名前を安売りしなかったことは、私は誇りに思ってる」
「お母さんも九条の出身でしたね」
「そうよ。でも、あの家の窮屈さが嫌で出てきた。
あなたは九条姓を名乗ったことはないし、資産にも関わっていない。それでいいと思っているわ」
凛は頷いた。九条の名前を使って楽をするつもりは毛頭ない。
自分の足で積み上げた履歴こそが、真の財産だ。
胸の中に、別の一行が静かに浮かんでいた。
奪われたとは思っていない。ただ、消されるのは違う。
高城恒一は、九条家との縁を選んだ。それは戦略として、理解できる。
問題は、選ばなかった方の名前を、なかったことにすることだ。
「行ってみます」
「そうね。麗華さんが『話を伺いたい』と言っているなら、そこには何か、筋を通そうとする意思がある」
部屋に戻った凛は、机に招待状とカードを広げ、ノートパソコンを開いた。
まず、招待状とメッセージカードをスキャンし、「Kujo_Contact_01」というファイル名で保存する。
新規メール作成画面を開き、宛先にカードに記されていたアドレスを入力する。
「件名:ご連絡ありがとうございます(白石凛)」
本文は簡潔にした。
「九条麗華様
このたびはご丁寧なご連絡をいただき、ありがとうございます。 白石凛と申します。
ぜひ一度、お話の機会を頂けましたら幸いです。 日程につきましては、下記の候補日であれば調整可能です。
——」
候補日を三つ挙げ、最後に「場所につきましては、都内であれば麗華様のご都合に合わせます」と添える。
送信前に、宛先と件名と本文をもう一度確認する。ccなし。
文面の敬語を、少しだけ軽くするために「頂戴」ではなく「頂けましたら」を選んだ。
念のため、同じ文面を「下書き」フォルダにも保存しておく。
送信ボタンを押す。送信済みフォルダにログが残る。記録がある。それで十分だ。
十分も経たないうちに、返信が届いた。
「ご連絡ありがとうございます。披露宴の前に一度、お話の機会を頂けますと幸いです。
場所はそちらのご都合に合わせます。九条麗華」
「披露宴の前に」というタイミング指定が、はっきりとした意志を示している。
凛は、霞ヶ関近くの落ち着いた喫茶店を提案することにした。
『政治家の出入りがあっても不自然ではなく、かつ、完全な密室ではない場所』
返信メールを書きながらも、送信前に下書きを保存し、宛先と引用部に誤りがないかを確認する。
送信後、そのメールを「交渉記録」というサブフォルダに移動させる。
その夜、凛は書斎で資料箱の鍵を一度だけ確かめ、灯りを落とした。箱はまだ閉じたまま。
だが、その存在感は昨日よりも重くなっている。
数日後の約束の日。
凛は「ルーチェ」の個室に、時間ちょうどに到着した。
ドアを開けると、先客がすでに待っていた。
九条麗華。
写真よりもずっと意志の強い人に見えた。
凛が入室すると、彼女はすぐに立ち上がり、こちらに向き直る。
凛は、その視線から目を逸らさなかった。
令嬢と、元秘書。立場は違う。
だが、凛はここで卑屈になるつもりも、同情を乞うつもりもなかった。
ただの「事実を知る者」として、対等に立つ。
席に着くまでの数秒間、二人の間には言葉以上の「査定」のような視線が交錯していた。
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