昔のことだった
昔のことだった。
俺がまだ自分を僕と呼んでいた頃の話。
水場に一人で行ってはいけないよと大人は口を揃えて言っていた。
俺の住んでいた村で、水場なんて言ったら川くらいだった。
俺は大人たちの忠告を受け入れて大人しく虫取りとかで遊んでいたが、ある日ふと思い立って川に一人で行ってしまった。
「おーい、おーい、蛍さんやーい」
馬鹿なもので、昼間に蛍を見に行ったのだ。
夜しかあの幻想的な光景は見られないし、そもそも俺が幼い頃にはもう蛍なんぞ出なくなっていたというのに。
そんな時、出会った。
「はぁい」
「え?君誰?」
「貴方が呼んだのでしょう?私は蛍よ」
「え?あ、そっちじゃなくて」
「ねえ、遊びましょう?」
蛍という、不思議な雰囲気の女の子。
白い帽子に白いワンピース、少し不健康そうな白い肌。
長い黒髪も、くりくりした黒目も可愛い子だった。
そう、俺の初恋だった。
「ねえ、貴方はどうして一人で川に来てしまったの?」
「蛍が見たくて」
「あら、見れてよかったわね」
「だからそっちじゃなくて…あれ?あれはなに?」
川辺を二人で歩く。
喋ってるだけで、不思議と楽しかった。
俺は村では友達を上手く作れなくて、いじめられこそしなかったがいつも一人ぼっちだったからかもしれない。
…だとしたら、蛍はどこの子なのだろう。
こんな田舎にわざわざ遊びに来る子なんて………。
「あれは祠よ」
「祠?なんの?」
「昔はねぇ、ここら辺で龍が暴れて大変だったのよ」
「龍!?」
「そう。おかげで水害がすごくてね。だから神様を呼んで龍を鎮めようとしたのね」
なんだかとても壮大な話になったぞ…。
俺はワクワクしながら蛍の話を聞いた。
「でも呼ばれた神様はね、弱っちかったの」
「え」
「まだ生まれたばかりのカミサマでね、龍を鎮める力はなかった」
「そんな…それじゃあどうしたの?」
「カミサマはね、自ら供物になったのよ」
蛍の話は、あんまりにもあんまりなものだった。
龍に、幼いカミサマは身体を捧げたという。
頭からばっくりと食べられて、カミサマは還ったそうだ。
でもカミサマは神様だから、また肉を付けて還ってくる。
そのたびカミサマは、また身体を龍に捧げたのだと。
カミサマパワーでお腹いっぱいになった龍は、そのたび満腹で満足になって眠るのだと。
龍が目覚めるタイミングにはカミサマが還ってきているから、この川で水害は起こらなくなったそうだ。
「ただねぇ、こういう『幻想』の存在は、得てして人間の信仰ありきなのよ」
蛍は言った。
カミサマはいつしか、人々のたくさんの信仰を受けて強くなったと。
そして人々はやがて寝てばかりの龍を畏れなくなったと。
その結果龍は、その存在すら朧げになって…ついに力をつけたカミサマに倒されたそうだ。
「でもねぇ、こういう『幻想』の存在は、そう。人の信仰がなければ存在できない」
蛍は言った。
人々は龍からついに解放されて、そうして、カミサマも要らなくなったのだと。
カミサマは信仰されなくなった。
祠に手を合わせてくれる人も少なくなった。
カミサマは、寂しかったし悲しかったが人を恨むことも求めることもなかった。
「ただ…消える前に、還る前に、貴方と出会えてよかったわ」
「え」
「蛍という名前の、小さな女の子のカミサマがいたのを覚えていて。忘れないで。私はもう還るけど、幻想の存在は知っていてくれる人がいればまた還って来られる…どうか、どうか私を忘れないで。私…まだ、この世界を愛しているの」
そして蛍は、ふわりと風と共に消えた。
「…という話だ」
「お父さんカミサマとお話したの!?すごーい!」
「まあなぁ…だからお父さんは、いつもあの祠を綺麗に手入れしてるし毎日手を合わせてるんだ。だからお前にも、いつかそれを継いで欲しい…というのはお父さんのただの願望だから、押し付ける気はないが」
「えー!?やるやる!僕やるよ!」
「そうかそうか、蛍さまも喜ぶだろうな」
そう言って笑うお父さんの隣で、ワンピース姿の子がクスクス笑っている。
ずっと一緒にいるのに、感じられることすらないのは寂しくないのだろうか。
「いいのよ、この子の気持ちが嬉しいから」
「そっか」
「うん?どうした?」
「ううん、なんでもなーい」
蛍さまは、寂しくないらしいので。
僕も余計なことは言わなくていいのだろう。