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第06話 心の炎_03

『パパ。なにしてるの?』


『こらこら、書斎に入ってきてはいけないよ。パパの仕事道具がいっぱいあるからね』


『え~?』



 ──父の書斎に入ることは昔から禁止されていた。

 でも禁止とは名ばかりで、仕事中の父にどうしても遊んでほしくてシアはよく部屋に入り込んでいた。

 父も口では注意するけれど無理矢理追い出そうとはしなかった。そんな父の横から顔を突っ込み、よく分からない書類仕事を覗き込んでいたものだ。



『シア。悪いけどお料理運ぶの手伝ってくれない?』


『うん! なに作ったの?』


『今日はなんと……シアの大好きなカレー! 使用人の子たちと色々試してみたから、どれがママのお料理か当ててみて』


『そんなの簡単だよ。わたし、ママの料理が一番大好きだもん!』



 母はよく調理担当の使用人たちに混ざってキッチンに立つことがあった。

 料理が趣味というのもあったが、使用人たちとそれだけ友好的な関係を築いていたのだ。

 アレンジや味付けは自由に、全員で同じ料理を作って料理勝負……なんてことも珍しくなった。

 シアは父と共によく審査員をやらされたのだ。二人とも母を贔屓してしまうからあまり勝負にはならなかったけど、みんな笑っていた。



『今日は文字を書く練習だ。ほら、パパが上げた万年筆は持ってきたかい?』


『うぅー、お勉強やだ……』


『我儘を言っちゃいけない。シアだって15歳になったら学院に通うんだ。周りに置いていかれないよう、今からちゃんと勉強しておかないとね』


『でもお庭で遊んでた方が楽しいよ?』


『うーん……ではこうしよう。勉強が終わったら今日は一日中パパと遊ぼう。シアの好きなことに何でも付き合ってあげるよ』


『ほんと!? じゃあ頑張る!』



 シアの勉強は基本的に父が面倒を見てくれていた。

 仕事の合間を縫って、文字の読み書きから簡単な計算などを根気強く教えてくれた。

 シアは物覚えが良い方ではなかったが、いつか王都の学院に入った際にシア自身が困らないよう、父は優しく指導してくれた。

 好きな時間ではなかった。

 でも一日の中で父と最も会話できる時間だから、何とか勉強から話を逸らせないかとシアの方から関係ない話をよく振ったものだ。



『自分を卑下してはダメよ、シア。誰だって最初はうまくいかないんだから』


『でも……ママにずっと魔法教えてもらってるのに、まだ一度も成功したことない……』


『今後も成功しないとは限らない。いつも言ってるでしょう?』


『……』


『……シア。神様はね、平等なのよ。一人の人間に10個の宝石を渡す。でも平等だから宝石の色を選んだりはしない。もしシアが今後も魔法を使えなくたって、それはつまり、魔法以外の宝石をシアは持っているということなの』


『魔法以外?』


『そうね……例えばシアは、誰よりも思いやりがあって優しい子。笑顔が素敵で、まるでお日様みたい。あなたみたいに周囲を明るく照らす子は誰よりも貴族に相応しいのよ』


『なんで? 魔法を使えないのに……』


『あなたにもいずれ分かるわ。人は魔法の有無じゃない。その人の背中を見て、ついていきたいって思うの。大きくなりなさい。情熱を抱いて青空に咲く、向日葵のように』



 『魔法を使えることが貴族の証ではない。大事なのは、人の上に立つ貴族として端然とした振る舞いであること』。

 父からの日頃の教え。そして、母からの愛情を受け、シアはヴァレンスの家訓を掲げた。

 ──太陽のように咲き誇る向日葵の花。

 母にそう褒められたから、シアは花の中でも向日葵が特に大好きだった。それは大切な思い出であり、魔法が使えない自分を支える心の支柱でもある。

 向日葵に負けないよう、いつか立派な貴族となってヴァレンス家を継ぐ。

 それがシアの『夢』だった。


 ……だけど。

 ノイズが走る。

 ()()()、目の前で披露された光彩を放つ魔法の輝き。

 美しい光景なのに、それはノイズとなってシアの思い出に覆い被さってくる。



『……はぁ。あなたは本当に無能ね』


『まったくだ。私たちの娘でありながらこの様とは……いや、本当の娘ではなかったか』


『それに比べてリムルはなんて素晴らしい子なの。ああ、あの子と再会できて本当によかった! リムルさえいればこの子はもういいわ』


『ごく潰しめ。ヴァレンス家は正当な後継者であるリムルに継がせる。お前は落ちこぼれらしく、あの子の影でひっそりと生きていればいい』



 ──なんで?

 パパ、ママ。なんでそんなことを言うの?

 今までずっと頑張ってきたのに。二人のことが心から大好きだったのに。

 二人はわたしのことがずっと嫌いだったの? あの言葉は嘘だったの?

 

 なんで……なんで……。



   ◇◇◇



「───っ、はっ……! ぅ、ぁあ……っ!?」


 ──いつもの発作が起きた。

 奴隷として生きている間も、昔の夢を見た夜は決まってこうなる。

 記憶から伸びてくる見えざる手がシアの喉を締め付けてくるのだ。そして嫌でも思い出す。あの輝かしい日々は二度と戻らず、大切な人達全員がシアを見捨てた残酷な現実を。


 全身から嫌な汗が噴き出す。うまく呼吸ができない。瞳孔が定まらない。

 掛け布団を隅へ追いやり、髪を振り乱して芋虫のように悶える。

 痛い。

 苦しい。

 辛い。

 それらの不快感は浸食する毒のように、シアの精神までもぐちゃぐちゃに掻き乱していく。


「はっ……! はっ……! ぅ、ぉあ……、っ」


 込み上げてくる吐き気を必死に堪える。

 痙攣する体を両腕で抱きしめながら、襲い来る惨痛にシアは耐え続けた。


「ぁ……ぐ、ぅ………、」


 果たしてどれくらいの時間そうしていたのか。

 ようやく痛みが治まってきた頃には、枕元が涙と涎でひどく汚れていた。でもそれに意識を回せるほどの余裕もなく、虚ろな瞳で茫然とする。


 部屋は真っ暗だった。

 蝋燭の火も消えており、視界はほとんど見えない。時間もおそらく日付を回っている頃だろう。

 乱れた呼吸を繰り返しながら視線を巡らす。

 リュウショウは──部屋の隅で、壁に背中を預けながら眠っていた。今の醜態はどうやら見られずに済んだらしい。


「…………」


 彼に介抱されていたことで気が緩み始めていたシアに、まるで鞭を打つような記憶が夢を通じて呼び覚まされる。

 最悪の気分だった。

 忘れられるなら忘れたい記憶だった。

 もう……うんざりだった。


(……そうだ。わたしにはもう、何も残ってない)


 ふと自覚する。

 ボロボロに朽ちた体と心。それを今、シアは少しずつ癒してはいるけれど……癒したところで、どうなるというのだ。

 シアにはもう大切なものが一つも残っていない。

 尊敬する父も、大好きな母も、慣れ親しんだ居場所も、夢も未来も──悉く手のひらから零れ落ちた。


 今更生き残ろうとしてなんになる?

 生きて、王都に戻ったとして……それからシアに何ができる?

 何もない。

 シアを迎えるのは虚無だけだ。


(それなのに……生きて、どうするの?)


 心底自分が嫌になる。

 こんなに空虚で無意味な存在が、無様に生き恥を晒した上にリュウショウという親切な老人にまで迷惑をかけている。

 全てが嫌だった。

 過去も未来も、今この瞬間も。自らが辿る全てが……死んでしまいたいほどに。


(……いっそ、死ねれば……ああ、そうだった。もう全部諦めたんだった……)


 リュウショウに命を救われ、久々に人間らしい会話をしたことで忘れていた。

 シアはとうに生きることを諦めていた。

 ずっと死にたいと思っていた。あの崖から突き落とされた時は、それが叶うと思ってようやく安心できたのに。


 思い出してしまった。

 そして、思い出した以上……もうここにはいれない。

 こんな薄汚い奴隷のために、この人に迷惑をかけるわけにはいかない。


「……」


 荒れた呼吸を少しずつ整える。

 悪夢を見たとはいえ、よく眠ったことで体は随分と楽になっていた。薬も効いている。今なら自力で動くぐらいはできそうだ。


 両膝に力を込めつつ思い切って立ち上がる。

 まだ足は小鹿のように震え、壁を支えにしなければちゃんと立っていられないけれど……動ける。久々に自分の足で歩くことができる。


 こうなったのはリュウショウのおかげだった。

 彼の方を再び見て、起こさないように心の中だけで謝罪する。


(……ご迷惑、おかけしました)


 ──これで最後だ。人と会うのも、誰かと関わるのも。

 もう十分だった。

 この現実(あくむ)を……早く終わらせたい。


 壁に手を添えながらシアはゆっくりと歩き出す。

 彼女の背中は暗い闇の中へと溶けていく。



   ◇◇◇



 行く当てはなかった。

 でも、一人になれるならどこでもよかった。

 一人で彷徨い、一人で飢えて、一人で死ぬ。あとは魔獣の餌にでもなれば、もう誰にも迷惑をかけない。


 古めかしい小さな家を飛び出し、背の高い木々に包まれた森の中をシアは素足で歩き続ける。

 すでに横腹が痛くなるほど息は苦しくなっていた。視界はフラフラとして定まらないし、木から木へ、支えを変えようとする時に毎回足を挫きそうになる。


 とにかく今は遠くへ行きたかった。

 誰にも見つからない、どこか遠くへ。


「うっ、ぐぅ……!」


 地面を這う木の幹に足の指先が引っかかり、顔面から思い切り転ぶ。もちろん受け身なんて取れるわけがない。

 細かい木枝や枯葉、砂利が転がる地面へ派手に突っ込み、いたるところから激痛が走り抜ける。


「がっ……ぁ、く……」


 痛い。

 痛いけど、どうでもいい。

 露出してる肌に刻まれた細かい擦り傷を無視して、近くの木を頼りにフラフラと立ち上がる。

 体を揺らしながらシアはすぐに歩みを再開する。痛みに悶えようという気さえ今はなかった。


 ──頭の中を巡るのは過去の記憶ばかりだった。

 母と一緒に寝た時の温もり。父と手を繋いだ時の逞しい感触。

 眩いばかりの両親との思い出。

 だけど何を思い出しても、最後には()()()が黒く塗り潰してしまう。

 そしてリムル(あのこ)は嗤うのだ。

 『ざまぁみろ』──彼女から向けられた最後の言葉は、シアの胸をいつまでも抉り続ける。


 こんな思いもうたくさんだ。

 シアはひたすらに進む。記憶さえも押し殺して。




 どれくらい歩き続けただろうか。

 もう足並みがほとんど定まっていない中、シアは開けた場所に出た。


(ここは……)


 海岸沿いの砂浜だった。

 シアはこの場所を覚えている。──おそらくシアが流れ着いた場所だ。

 朧げな記憶しか残ってはいないものの、リュウショウに助けてもらったあの一瞬だけはよく覚えている。

 図らずも戻ってきてしまったらしい。死に直面したあの出来事を再び求めるようにして。


 小さな石ころがところどころに混ざる砂の上に、シアは力なくへたり込む。

 歩くのもそろそろ限界だった。股関節から足の裏まで、下半身は絶え間なく悲鳴を上げている。喉は水分を求めて乾き切り、頭は先ほどからずっとフラフラしている。


 夜の静寂の中、楽器を奏でるようにしてさざ波の音が響いていた。

 顔を上げた先、視界に飛び込むのは一切の遮りがない水平線。

 ここがどこかは分からない。瀕死のシアが無事に流れ着いたぐらいだから実は王都からそこまで離れていないのかもしれない。だがその景色を見ていると、吸い込まれそうな孤独感がじわじわと湧き出てくる。


 空を見上げる。

 生憎、夜空は雲に覆われて月も星もほとんど見えない。

 ──ふと、屋敷の中庭で母と一緒に星空を見上げた日を思い出した。特別な会話をしたわけでもない、何気ない日常を切り取った平凡な一日だったけど……あの日は確か、無数の星々と綺麗な天の川が夜空いっぱいに広がっていた。あれは本当に綺麗だった。

 最後に一度くらいあの頃の景色を拝めても……なんて思ったけど、それさえもシアには贅沢なのかもしれない。


 ───グルルル……。


 そんな時。黄昏れるように空を見上げていたシアの耳に何者かの唸り声が届いた。

 シアはゆっくりと視線を回して声の主を確かめる。

 少し離れた位置に、夜の暗闇に浮き上がる赤い輝きが灯っていた。それが魔獣の双眸だとシアはすぐに理解する。


 闇夜のカーテンを掻き分けるようにして姿を現したのは──銀色の体毛と巨大な牙が特徴的な魔獣、『ファングウルフ』。

 シアがここに流れ着いた時に現れたのも同じ種だった。もしかすると近くに奴らの棲み処があるのかもしれない。

 ファングウルフの獰猛な視線は紛れもなくシアを捉えている。

 奴の目的は考えるまでもなかった。


「……」


 シアは逃げる素振りも見せない。

 厳密には逃げられる余裕すらないのだが、仮にあったとしても立ち上がろうとはしなかっただろう。


 これでいい。

 今度こそ迎えがきたのだ。

 魔獣の赤い眼光をじっと見つめ返す。シアの空虚な視線にただ一つ宿るのは、たった一つの望みだけ。

 全身から力を抜いた。

 介抱して生き永らえさせてくれたあの老人には少し悪いけれど、最初からこうなる予定だったのだ。


「……ごめん、ね。わたしこんなんだから、お肉全然なくて……」


 絞り出した声で語りかける。

 人の言葉なんて通じるわけがないけれど、最後の話し相手が魔獣だなんて自分にはぴったりだと思った。


「お薬も、いっぱい注射されて……きっと、おいしくないから……ごめんね」


 彼女の声に呼応するように、ファングウルフは僅かに背を低くしながらにじり寄る。

 せめてひと思いに食べてほしい。骨の髄まで、欠片も残さず。

 それが誰かのためにできるせめてもの行いだった。その相手が知性を持たない魔獣だなんて、おかしな話だけれど。


 ファングウルフの前足が砂の地面に食い込んだ。

 来る。そう思った瞬間には、砂煙を上げ、筋肉質な魔獣の肉体が地面を蹴り上げていた。

 シアの首元目掛けて飛び込んでくる大きな体。

 奴の狙いはシアという餌ただ一つ。


 やっと終わる。今度こそ。

 覚悟はずっと前からできていた。

 暗闇の中で妖しく光る魔獣の瞳を、頸を喰い切られるその瞬間までシアはじっと見つめ続けて───。



『魔法が人の強さではない。シアはもう、それを持っている。だからお前は立派な大人になりなさい』


『シア。私の愛しい娘。誰がなんと言ったって、私たちにとってはあなたが世界で一番美しい宝石なのよ』



 ───。

 ───脳裏によぎるのは両親の言葉。

 だけど。

 それなら、なんで見捨てた? あの言葉は全部嘘だったのか?

 シアにとってはそれだけが支えだった。父と母から与えられる陰りない愛情だけが……なのに、それも全部嘘だったのか?


 答えは分からない。

 けれど──シアは自らの中でずっと眠っていた一つの感情を自覚する。

 だがそれを知るにはあまりにも遅すぎた。すでにシアの命を刈り取ろうとする凶刃は眼前まで迫っている。

 逃げられない。避けることもできない。


 シアはきつく目を閉じる。

 今更だった。

 覚悟はできていたのだから。もう変えようはない。

 やがて魔獣の牙は、少女の細い首を容赦なく喰い潰す───。


 ──そうなるはずだった。

 刹那。


 闇の中で銀光が閃く。

 音もなく、影もなく、一瞬の煌めきが空を裂く。

 今まさにシアの肌へ魔獣の牙の先端が届こうとしていた時──真横から割って入ったその輝きが、逆に魔獣の頸を捉えた。


「……?」


 シアは……いつまでも痛みがやってこないことに疑問を感じた。

 恐る恐る瞼を開ける。

 そして目の前に映っていたのは──僅かな鮮血を滴らせる白銀の刃。

 正確には、その刀を手に佇む老人の背中。


「怖気るぐらいならやめておけ。お主に身を投げ打つ覚悟はない」


 リュウショウ。

 先刻と同じように、同じ場所で、彼は立っていた。

 シアもまた、同じように助けられてしまったのだ。この男に。


 唖然としながら僅かに視線を動かすと、波打ち際に魔獣『だったもの』が転がっていた。

 胴体と切り離された魔獣の頭部。滝のように切り口から流れる血は、さざ波によって消されては流れ、消されては流れを繰り返す。

 リュウショウがこれをやったのは一目瞭然であった。


「なんで、ここに……」


 無意識の内に疑問の声がもれてしまう。

 振り向いたリュウショウの顔は、怒るでも呆れるでもなく、先ほどまでと変わらない普通の表情だった。


「お主の足音など寝てても聞き分けられる」


 つまらなそうに言いつつ、リュウショウは刀をその場で軽く一振り。

 刃に付着していた魔獣の血液が、唾液でも吐き出すかのように砂浜の上へと飛び散った。


「儂は他人の生き方に口を出す輩がこの世で最もいけ好かん。故に、お主を無理に止めるつもりもなかったが……与えた食事が無駄になるのは見過ごせん」


 その言葉がどこまで本心なのかは分からなかったが、シアを助けに来てくれたことに違いはないようだった。

 こんな……こんなどうしようもない奴隷なんかを、また。


「さあ戻るぞ。この辺りは魔獣が多い。儂のような爺が隠居するには最適だが、小娘が一人で出歩くにはいささか物騒だ」


 空いた手を差し出される。しかしシアはその手を素直に取ることができなかった。


 彼は言っていた。相手が奴隷であれ、哀れな子供を助けるのに理由は必要ないと。

 本人にその気がなくても、きっとこの老人は凄く……『いい人』なのだ。でなきゃ今の世の中でそんな考えを持てるわけがない。

 であれば猶のこと。

 夢もない。生きる希望もない。穢れに穢れ切ったシアなんかのために、この人の手を煩わせるわけにはいかない。

 これ以上、迷惑はかけられないのだ。


 シアは首を振った。

 俯き、差し出されたリュウショウの手を拒絶する。


「……もう、いいんです。放っておいて、ください……」


「そうはいかん。よもやまた理由を問うつもりか? 儂は奴隷だなんだと、そんなものには……」


「いいから放っておいて!」


 一体いつぶりだろう。こんな大声を張り上げるのは。喉と肺が驚き、今の一声だけでも胸がズキズキと痛む。

 しかし止められない。


「わたしは……っ、わたしはもういいんです……! 助けてなんて言ってない! わたしは、もう誰にも関わりたくない……!」


 一度は命を救われた相手にひどい物言いだと自覚はあった。

 けど、明確に拒絶しなければこの人はきっとまた同じようにシアを助けてしまう。そんな予感がする。


「どうせ生き残ったって……何も残ってない……街に戻っても、帰る場所なんてない……パパも、ママも……誰も……こんな汚れた体で、どうやって生きていけっていうの……?」


 口から漏れ出たその問いに対する答えを、シアはすでに持っている。

 頼れる人もおらず、行く当てもなく、食べるものない。そんな子供にできることは、結局また奴隷になるか、スラムで身を売るだけ。──つまり何も変わらない。

 またあの地獄の日々を繰り返すだけ。こんなこと考えるまでもない。


「だから……もう、一人でいいんです……あなたにも、誰にも迷惑をかけず……一人で死ねれば、それで……」


 その言葉は自分自身への言い聞かせでもあった。

 喰い殺されそうになった瞬間、シアは確かに恐怖した。リュウショウが言うように覚悟が足りない……最後の最後に二の足を踏んでしまった。

 そんな自分への洗脳。こんな事さえできない情けない感情を、必死に殺す。


「……」


 リュウショウは口を挟まず、最後までシアの言葉を聞いていた。

 鋭い視線がずっと後頭部に注がれているのは分かった。でも顔を上げて彼の表情を確認する勇気はない。逃げるように、視線を逸らし続ける。

 やがて閉ざされていたリュウショウの口が動く。

 彼は静かに、淡々と告げた。


「──隠せておらぬぞ」


 ビクッと、肩が震える。

 リュウショウの言葉の意味は分からなかった。分からなかったが、確実に何かを見透かされていると本能で察する。


「表を上げい」


 その一言が聞こえた瞬間──視界の外から、刀の切っ先が眼前に飛び込んできた。

 急なことで反応はできるはずもない。刀はシアの顎下に滑り込み、刃の無い峰側でシアの顎を小さく持ち上げる。


 否応なしにリュウショウと視線が噛み合う。彼は変わらず無表情だった。

 刀の先でシアの頭を支えながら、リュウショウは言う。


「お主が真に死ぬ気であれば、そのまま頭を前に突き出せ。我が一文字(いちもんじ)は、小娘の柔い肌など容易に貫く」


 彼の言葉に嘘はない。あまりにも一瞬で首を落とされた魔獣の亡骸がそれを証明している。

 ごくりと喉を鳴らす。

 体が震える。頭が真っ白になり、顎から伝わる鋼の冷たさだけに意識が向く。

 シアは……指先一つ、動かすことができなかった。そんな彼女を前にリュウショウは小さく口角を上げた。


「……できぬであろう。口ではなんと言いつつも、お主は死を恐れている。無論、恥ずべきことではないがな」


 刃が下ろされてもシアはピクリとも動くことができなかった。

 まるで金縛りにあったように、リュウショウの真っ直ぐな視線を見つめ返す。シアの本質から過去までも、彼の瞳は見通してくるようだった。


「儂には見えておるぞ。お主の奥で(くすぶ)り続ける『炎』がな」


「ぇ……?」


 その答えをリュウショウは語る。

 燃え残った灰にでさえ、火を灯すように。


「理性によって塞き止められているお主の本心……消したくても消せない心の炎が、今尚チリチリと火の粉を振り撒いておる。他でもないお主自身によって焚きつけられる瞬間を、今か今かと待ち望んでな」


「……」


「故にお主は、死ぬことに恐怖している。不味い薬を飲んでたまらず呻き、美味い飯を食って涙する。あるのであろう? 『未練』が。それがお主を、未だ人として生かしている」


 ──思考が止まる。

 彼の言う通りだった。

 父と母。家族との輝かしい思い出を反芻して、ついさっきその感情の正体を自覚したばかりだ。

 でもこれは気づかなかっただけで、ずっとシアの心の奥で燃え続けていたのだ。どこか無意識の内に、もう無駄なことだと目を逸らし続けていた。


「言うてみよ。減るものではない。お主が人足り得る証左を儂が確かめよう」


 押し殺し、蓋をして……。

 口に出すことも憚られる見っとも無い感情。それは『未練』という形でずっとそこにあったのだ。


 感情が──決壊する。


「……っ、わたし……大好きだった……」


 脳裏に思い浮かぶのはやはり、両親の笑顔とあの幸せだった毎日。

 それを想えば想うほど……もう戻らないと自覚し、胸が張り裂けそうになる。


「パパも、ママも……二人と一緒に暮らしてたあの時間が……本当に……っ、」


 地面を濡らす水滴は、気づけば汗ではなく大粒の涙になっていた。

 溢れる感情が止まらない。涙と共に、地に底に堕ちた少女の本心が零れる。


「だから……あんな簡単に、わたしを捨てたことが……っ、わたしから全部を奪ったあの子が……パパとママが、私は……!」


 『未練』はたった一つ。

 どれだけ心が壊れても、きっと、ずっと、最初から……この『炎』は身を焦がし続けていた。



「許せない……!!」



 それはただの憎悪だった。

 憎んで、恨んで。他には何も生まない人の醜い感情。

 だからきっと、気づかないでいたのだ。エゴの塊でしかないこの思いは、貴族の教えに……それどころか人としてあまりにも反する、真っ黒な炎だから。


 気づけば握り締めていた両拳。指の間に巻き込んでいた砂利が肌に食い込んで血が流れる。

 痛いけど、痛みならもう何度も味わってきた。

 溢れ出した感情の波を止めることはできない。


「……くくくっ、そうか。己を虐げる者への反骨心こそがお主の本音か」


 シアの告白を前にリュウショウは含むように笑う。

 とても意外そうに。それでいて、期待以上の何かを感じて心底楽しそうに、男は笑う。

 カッ、とその両目が見開かれた。


「気に入った!!」


 周囲の木々を揺らすような気迫と大声が響き渡った。衝撃で肩が震える。

 唖然とするシア。彼女を前に、リュウショウは今までで最も豪快な笑みを浮かべる。


「シアよ。お主は今、自らを抑圧する者に対し反逆の意思を掲げた。醜い憎悪をな。しかしそれは、お主が生きている証だ」


 満足気に語るリュウショウの言葉を、シアはどうしてか聞き入ってしまった。

 彼の言う事には、心を惹きつける『何か』があった。


「お主の過去に何があったか、儂は知らん。知るつもりもない。だが、お主の『今』に儂は興味が出た」


「わたし、に……?」


「応とも! 死の瀬戸際で最後に絞り出したものが、生への渇望でもなければ救いの懇願でもないとは。その炎、黄泉の水で消すにはまこと惜しい」


 リュウショウは堂々と言い切ってみせる。こんなにも醜くて汚れているシアを目の前にして、それでも手を差し伸べると。

 不思議な人だった。言ってることは滅茶苦茶なのに、なぜか拒絶しようという気が起きない。

 次に何を言ってくれるのか。それが気になって仕方がない。


 ──その時、轟音が響いた。

 シアとリュウショウから少し離れた位置──木々の隙間から、激しい地響きを鳴らして何かが飛び出してきた。

 リュウショウの姿越しにその正体を視界に収め、シアは思わず両目を見開く。


 大きい。あまりにも。

 大の大人5人分のサイズはあろう四足歩行の巨大な躯体。

 銀の体毛と赤い瞳。膨張した巨大な牙からそれが先ほどの魔獣──『ファングウルフ』と同種であることは確かだが、あまりにも大きな壁としてその場に君臨する。


 突然の来訪者にシアは固まるも、眼前の老人は極めて冷静であった。

 振り返ることもなく彼は呟く。


「血の匂いに釣られて来たか。子犬共のヌシであろうが……丁度いい」


 リュウショウはまるで品定めでもするような口調だった。

 言い切ると同時、冷静さを崩すことなく彼は身を翻す。魔獣のそれさえも超えるほどの鋭い眼光がファングウルフのヌシを正面から射抜く。

 グルグルと激しく喉を鳴らす獰猛な獣を前に、その老人はまるでシアを守るかのように立ち塞がる。

 一歩前へ。草履が砂を踏みしめた。


「シア。よく見ておれ」


 だらんと下げられていた細長い腕が僅かに動く。その先で、五本指が握り締めるのは一振りの刀。

 波紋が浮かび上がる片刃の刃は、幾度となく洗練され鍛え抜かれたであろう極限の美しさを放ち、シアの視線を奪う。


「お主が滾らせる炎に、儂が薪をくべる手伝いをしてやろう。今から見せるのはその一途(いっと)……儂が生涯かけて戦い抜いた数多の斬り合いの中、研鑽し、磨き続け、極限まで研ぎ澄ませた剣技。名を──『天真流(てんまりゅう)』」


 刀の柄をリュウショウは両手で握りしめ、あまりにも大胆に頭上へと構える。その上段の構えは一見隙だらけのようだが、彼が放つ威圧感は常人のそれではない。

 ファングウルフもまた姿勢を低くした。今にもその巨体で飛び掛かってくる。だがリュウショウは一歩たりとも退かない。


「強さだけを追い求め斬り続ける。死地も、逆境も、苦難も、己が強さのためだけに……無心で斬るのだ」


 直後──ファングルウルフが地面を蹴った。蹴り上げた砂の地面が激しく舞い上がる。

 その巨体からは想像もできないほど俊敏な突撃。二本の牙を携えた顎が大きく開かれる。人間など、丸のみにさせできてしまいそうなほどに。

 避けなければシアもリュウショウもまとめて喰らいつかれる。だが動けない。魔物に恐れ戦いているから───()()()()

 刀を掲げるリュウショウの姿に、魅入り、視線を釘付けにされてしまったから。

 接敵は一瞬。

 高く飛び掛かってくる魔獣の主に対し、リュウショウはそれを真正面から迎え撃ち、


「───喝ッ!!」



 ──踏み込んだ瞬間、大地が揺れたようにさえ錯覚した。

 それと同時。無骨に、真っ直ぐに、掲げられた刃を振り下ろす──リュウショウがしたのは、ただそれだけ。

 故にこそ、その一撃はあまりにも重たく。

 音が消え、世界が瞬き。

 やがて……視界が晴れる。

 その一振りでシアの目の前を覆っていた霧が、吹き飛ばされた。

 なにをすべきなのか分からなかった。生きることも、死ぬことも怖かった。何もかもが嫌だった。そんなモヤモヤが、全部。

 たった一振りの刃で掻き消される。



 ふと、シアは空を見上げた。

 そこには星が瞬いていた。脳裏に焼き付いたあの景色のように、無数の星々がシアを見下ろす。


 夜空の雲が──()()()()()


 比喩でも何でもなく、二人が立つ場所を中心に左右へ真っ二つに。

 上空を覆っていた雲は消え去り、星の輝きに混じって見事なまでの満月が光を差す。少女の進むべき道を指し示すように、月の光は地上を明るく照らす。


 肉塊が地面に落ちる音が響いた。

 飛び掛かってきていたファングウルフの巨体は、頭頂部から尻尾の先端まで寸分違わず両断され、噴水のように大量の鮮血を撒き散らしながら地面に転がる。だが不思議と血の飛沫はシアに振りかからず、これさえも意図した一振りなのだと予感する。

 血糊の一滴も付着していない刃を静かに収め、リュウショウは振り返った。


「これが『天真流』だ」


 シアは何も答えられない。

 唖然としながらその言葉に耳を貸す。


「抗う術がないのなら、力を得て斬り伏せればよい」


 突き抜けた暴風に木々が揺れる。


「気に食わぬものがあるのなら、気が晴れるまで斬り裂けばよい」


 たった一度だけ生み出された荒波が海辺に押し寄せ、地面にへたり込むシアの足を濡らす。


「斬って斬って斬り続ける。それに専心することの、なんと幸福なことか」


 ただの一撃でこの異様な状況を作り出した老男は、しかし当然のようにその場に立つ。

 今まさに天を割いてみせた老いた手が、シアの目の前に差し出された。


「覆せ。虐げる全てに刃を向けろ。お主にその気があるのなら、儂が生涯の全てを投じたこの『天真流』をお主に伝授しよう」


 向けられた手に視線を落とす。

 彼が言っていることはあまりにも出鱈目だった。

 ようは父も母も、リムルも、それにまつわる気に食わないことすべてを力で捻じ伏せてしまえと、そう言っているのだ。


 なんて滅茶苦茶な言い分だ。

 シアのどこを気に入って、そんな提案ができたのか甚だ理解できない。


 だけど──憧憬を抱いた。

 今見せた力だけではない。強さだけを求めることで形作られた、リュウショウという一人の人間。その大きな存在に、今まで一度だって感じたことがない他者への果てしない憧れが生まれる。

 自分でも驚くほどに、シアは迷わなかった。

 今の一振りで、燻っていた心の炎は盛大に燃え上がった。


「……」


 それが例え如何なる悪感情であっても。

 黒く、醜い、ただの憎悪であっても。

 この人は言ってくれた。それが生きているという事だと。


 ──もう一度ぐらい、頑張ってみたっていい。

 どうせ失うものはなにもない。あとは、上がるだけなんだから。

 眼前の大きな手を、気づけばシアはたどたどしく握り返していた。




 奴隷に堕ちた少女の再起が始まる。

 奈落を知り、悔恨に突き動かされる彼女の情熱は──やがて、世界を照らす事となる。




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(次回から不定期更新となります)

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