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第05話 心の炎_02

 一体、どれぐらいの時間そうしていただろう。

 布団の中で浅い眠りを何度か繰り返すだけのまったりとした時間。こうして純粋に体を休めることさえできない生活がシアにとっての日常だったこともあり、全身を包む掛け布団はとても魅惑的だった。


 次に目を覚ました時、真っ先に感じたのは鼻を柔らかく抜けるほのかな香り。優しいお出汁の匂いだった。

 僅かに首を動かして匂いの先を辿ると、部屋の中央──四角く切り上げられた床の一部に灰が敷き詰められた一角で微かな炎が揺らめいていた。天井から吊るされた鉤に鍋が吊るされ、その中でコトコトと何かが煮込まれている。

 食事の準備をしていることは明らかだった。リュウショウはその傍らで胡坐を組みつつ、帳面に何かを記しながら木製のお玉でたまに鍋の中をゆっくりと回していた。


 シアが目を覚ましたことにリュウショウはすぐ気づく。

 膝上の帳面を閉じつつ顔だけこちらへ振り向いた。


「シアよ。体は起こせるか」


 シアが寝たり起きたりを繰り返していたため、久々の会話である。

 体を起こせるなら起こせ、ということなのだろう。試しに両腕へ力を込めてみる。


 ──思いのほか苦労せずに上半身を起こすことができた。正直、体力はまだまだ戻っていないと思い込んでいたため少し驚く。

 流石に全身の気だるさは取れていないし、今の動きだけでもひどく消耗して胸が僅かに苦しくなるものの、つい先刻までのシアの状態を思えば驚異的な回復速度である。

 無論、これはシアの体が凄いわけではない。


「仙薬が効いておるな。その調子ならすぐに歩けるようにもなろう」


 満足そうに頷くリュウショウ。

 気を失っている間に彼に飲まされたらしい、『仙薬』とやらの滋養強壮効果があまりにも強力であるようだ。これだけ強力だと逆に何かデメリットがあるのではと心配になってくる。


 呆気に取られながら自身の体を見下ろしているシアの横で、リュウショウは近くに置いてあった陶器の器を手に取り、煮込まれている鍋の中身をそそくさとよそう。

 おもむろにその器をシアへ差し出した。

 それが理解できずに呆然と眺めていると、痺れを切らしたリュウショウは吐き捨てる。


「何を見ておる。食え」


「え……?」


「食えと云うておる。薬だけでは戻る力も戻らん」


「……」


 尚も戸惑いが隠せずにいると、半ば無理矢理手渡されてしまう。器を持つ手のひらから温もりが伝わってくる。

 中によそわれているのは、溶いた卵と白いお米が混ざった……見たことのない料理だった。


「雑炊じゃ」


 その答えをリュウショウはすぐに提示する。


「儂の故郷では病人の食事は決まってコレであった。幼い頃はこの薄味が苦手でな……しかし、歳を重ねるとこんなものばかりが美味く感じる」


「……ぞう、すい……」


「贅沢は言うでないぞ。今のお主の腹にはこの程度が丁度よい」


 名前を聞いてもパッとはしない。もしかすると一部の地域だけに根付いた料理なのかもしれない。

 ゆらゆらと柱を立てる湯気に思わずシアは目を奪われる。

 暖かい料理を前にするのは果たしていつぶりだろうか。もう細かくは思い出せないほどに懐かしさを感じる。これを食べろと言うリュウショウの言葉に、未だ現実味を覚えないほどに。


「……あの、これ、本当に……?」


 恐る恐る、囁くような音量で尋ねる。リュウショウは呆れた表情を浮かべた。


「お主……奴隷根性が随分根深く染みついておるな」


「……、」


「いいから食え。何度も言わせるでない」


 適当な調子で言い放ち、彼は自分の分をよそうとさっさと食事を始めてしまった。

 改めて手元の料理──雑炊に視線を落とす。

 これまでの生活で胃袋が極限まで縮み、お腹が空いたという感覚さえ今は思い出せない。でも、目の前の食事にはどこか惹かれる。


 器の端に立て掛けられたレンゲを手に取り、少しだけ掬って口元に寄せる。

 そのひと口を、シアはゆっくりと口の中へ運んだ。


「……」


 とても優しい味付けが口の中に広がる。

 出汁の風味と卵の甘みが枯れた喉にじんわりと染み込む。

 それは決して高級感あるものではないし、驚きの食事体験とも言えない、とても平凡で、シンプルで、普通の味。


 だけど──初めて食べる料理なのに、ひどく懐かしさを覚えた。

 その正体は明確だった。

 残飯以下の掠れた屑パンでもなければ、家畜の餌でもなく、最低限の栄養補給だけを目的とした経口注射でもない。

 誰かが、時間をかけて調理した『普通』の料理なのだ。『普通』にしかない人の温かさが、そこには確かに宿っている。


 母の手料理も確かこうだった。

 使用人が調理することがほとんどだったけれど、たまに母が直接料理を振舞ってくれたのだ。シアはそんな母の料理が大好きだった。

 今や手の届かない輝かしい記憶。

 この懐かしさはシアの中にある確かな思い出なのだ。

 だから──。


「……っ……、」


 ポツポツと、粘りがある雑炊の表面に水滴が落ちる。

 目の奥が熱い。喉が痙攣する。

 溢れ出した涙を、止めることはできなかった。


「ぅ……っ、うぅ……っ!」


 自分でも分からないほどに感情が滅茶苦茶だった。

 涙なんて嫌というほど流してきたのに。胸が焼けるようなこの感覚に、シアは抗う術がなかった。


 声を必死に押し殺しながら嗚咽する彼女の姿を、リュウショウは横目でじっと見つめる。

 その後、満足そうに口角を上げた。


「そうか、そうか。泣くほど美味いか! 手料理を振舞うなど初めてだが、存外悪くない気分だ。好きなだけ食えい!」


 とても気分良さげなリュウショウは、それ以上なにも詮索することなく自身の食事を進めた。

 シアもまた、漏れ出る声を何とか抑えながら一口一口ゆっくりと咀嚼する。

 涙のせいで少ししょっぱかったけれど。

 何よりも心に沁みる一番の贅沢品だった。



   ◇◇◇



 好きなだけ食え、とは言われたが結局シアは最初の一杯しか食べられなかった。

 胃袋の許容量がすぐに限界を迎えてしまった。痩せ細った体の弊害は食欲にまで弊害を与えている。


 とはいえ、久々の食事らしい食事は長らく感じていなかった食後の満足感を胃袋に(もたら)していた。

 ふわふわした感覚と泣き疲れた疲労に身を委ねながら横目にリュウショウの姿を確認する。彼は鍋と食器を片付けた後、白いお猪口を豪快に煽っていた。


「……っかー! やはり飯のあとは心水に限る」


 一口でお酒を飲み切り、徳利から次を注ぐ。さきほどからその手は一度も止まらない。よっぽど好きなのだろう。

 シアの視線に気づいてか、彼はニヤリと笑ってみせた。


「気になるか? 注いでやりたいところだが、お主にはあと10年は早い。それまで我慢することだ」


 別にそういう訳ではないのだが、ふとリュウショウの傍らに置かれていた例の瓢箪……『仙薬』が目に留まる。

 確かさっき、常備薬とか言っていた気がする。リュウショウこそアレを飲まなくていいのだろうかと疑問を覚えてしまう。


「言いたいことは分かる。だが、無駄に長生きするための薬なんぞより今を楽しむための酒じゃ。儂にはもう必要のないものよ」


 まるでシアの心を読むように彼は淡々と語る。ついでとばかり瓢箪を手に取り、ひょいとシアの膝元へ投げてきた。


「今、それが必要なのはお主だ。一口だけ飲め。食後は吸収がいい」


「……」


 ここで渋っても、食事の時と同じように何度も言われてしまいそうなので素直に従うことにするシア。

 先端の栓を抜く。口は細いため中身は窺えないが、匂いは特になかった。

 若干躊躇いつつもゆっくりと口を付ける。傾けて、中に入っている常温の液体を口に含んだ。


 が、その瞬間。

 膨大な情報量がシアの舌と鼻に襲い掛かった。


「んんっ……!?」


 噴き出す、とまではいかないまでも暴力的な刺激と香ばしさが口の中いっぱいに広がりむせかえりそうになる。

 ──なんておぞましい味だ。

 さっきまで口にしていた雑炊が薄味だっただけに、その圧倒的風味との温度差があまりにも強烈だった。

 口を押えて苦しそうにするシアを前に、リュウショウはさぞ愉快げに笑った。


「カッカッカ! 良薬口に苦し。吐き出してはならんぞ」


「っ……んん、ぅ……」


 呻きながらも何とか一口分を飲み込む。そういえば最初、味は最悪と言っていたことを今更思い出す。

 リュウショウは変わらず酒を煽り、そんなシアを見て楽しそうにしている。……なぜか不思議と悪い気はしなかった。


「くくっ、安心せい。お主の体調を見るに仙薬を飲むのはこれが最後でよいだろう。あとはよく食べ、よく寝ることだ」


 最後は言い聞かせるような語感でリュウショウは告げる。彼の言葉はどことなく優しい声色だった。

 少しずつ薬の後味が引いてきたシアは──内心、首を傾げる。

 やはりこの疑問は自然と拭えそうにはなかった。リュウショウの態度を見れば見るほどそれは大きく膨れ上がっていく。

 瓢箪を脇に置く。

 シアはおずおずと口を開いた。


「……あの」


 お猪口に次の一杯を注ぎ、リュウショウは視線だけをシアの方向へ向けてくる。

 途切れ途切れで気弱な声ながらもシアは思わずその疑問を口にした。


「どうして……わたし、奴隷なのに……なんでこんな、親切に……」


 俯いたままぽつぽつと紡がれる言葉を聞いて、リュウショウは僅かに手を止める。


 ──不思議だった。今でもまだ、なにか大きな見返りをあとで要求されるのではないかとシアは心のどこかで感じてしまっている。

 魔獣から助け、看病し、寝床まで与えて、食事を振舞い……こんなこと今まであり得なかったから。

 『飼い主』に外へ連れ出されることがあっても、道行く人たちは誰もシアを助けようとはしてくれなかった。見て見ぬ振りをするか、奴隷だと嘲笑するかの二択。手を差し伸べられたことは一度もない。

 もうわたしはそういう存在なんだと、必死に自分へ言い聞かせるしかなかった。


 なのにこの人は、シアが奴隷だと分かりながらも態度を一切変えない。

 分からなかった。本気で理解できなかった。


「……」


 しばしの沈黙の末、リュウショウは皺の寄った唇を重々しく動かした。


「言うたであろう。儂は奴隷なんぞに興味はない。……いや、正確には階級社会というやつに興味がない」


「……?」


「くくっ……分かりやすく言うとだな。平民、貴族、奴隷などというつまらん枠組みは、同じようにつまらん奴らが取り決めたことに過ぎん。故に儂は、どうでもいい。一国の主であれ、地を這う奴隷であれ、儂にしてみれば同じ立場の人間ということよ」


 リュウショウは語る。それは貴族としての教えを与えられてきたシアにとって、まったく想像もしない考え方であった。


「儂にしてみればお主は、ただの飢え死に寸前であった哀れな子供。それ以上でも以下でもない。死にかけの子供を助けるのに理由は必要なかろう?」


「……」


「理解できない、という顔をしておるな。だがそれでいい。植え付けられた価値観はそう易々と覆ったりはしない。お主はただ身を休めて回復に努めるだけでよい」


 言われたように、説明を受けても理解は難しかった。

 貴族は大衆の上に立って導く存在だと両親に教えられたし、奴隷は家畜以下の道具だと……身を以て経験してきた。リュウショウのような考えを持つ人がいることも、そんな考えを持ち続けられることもいまいち納得できない。

 だがリュウショウはそれ以上答えるつもりはないようだった。すでに口をつぐみ、満足そうに酒を嗜んでいる。


 疑問の答えは得られたようで得られなかった。なんとも言えないモヤモヤを抱えたままシアは視線を逸らす。

 格子戸の窓からふと空を見る。

 夕暮れ時。橙色の暖かな日光が部屋の中に差し込んでいる。


 こんな当たり前の空でさえ、ついこの間まではまともに眺めることさえ叶わなかった。それが今や、死の淵を彷徨った末に目の前に広がっている。

 シアはその景色をただ呆然と眺める。

 この現実は、未だ夢心地だった。




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(序盤の暗い展開が続く内は毎日更新していきます)

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