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第04話 心の炎_01

 ──頭が痛い。

 頭蓋骨を突き抜け、脳に直接突き刺さる強烈な痛みによって……シアは目を覚ました。


「ごっ……ぉ、っ……あぁ……っ、」


 ぼやけた視界に映ったのは浅黄色の砂浜。それ以外は判別できない。

 ──生きている。

 偶然にも、どこかの海岸に打ち上げられたのだ。

 海の藻くずとなるか。魚の餌となるか。本来であれば二者択一だったところを、奇跡的にもシアはまだ呼吸を続けていた。


 が、お世辞にも無事とは言えなかった。

 咳込むたびに胃の中に入り込んだ海水が逆流し、その度に喉が焼けるように痛む。手足は動かない。首も動かせない。こうして瞼を持ち上げているだけで残っている全ての体力が削られる。

 寒い。

 とても寒い。

 なのに、凍えて震える体の感覚どころか、うつ伏せで倒れているはずの砂浜の感触すら分からない。


 死に至るまでの時間をじっくり味わっている。今のシアは、そんな瀬戸際にあった。


「はぁ……っ、ぁ……ぁ……」


 生きているだけでも運がいい……とは言い切れなかった。

 こんな状態では最早死んでいるも同然。奴隷商人の男に打たれた薬と冷たい海水に流されたおかげでこうして意識が戻ったが、余計に苦しみを長続きさせているに過ぎない。

 少しでも早く息絶えるか。もしくは、苦しかろうが一秒でも長く生きるのか。

 しかし今のシアにはその答えを思案する余裕もなく、薄れゆく意識に揉まれながら砂の上でピクピクと体を痙攣させるだけであった。


 ──ザリッ。

 砂を踏みしめる静かな足音が響く。


 波打ち際で倒れる少女に、いくつかの歩み寄る影があった。

 シアの視界には、その内の一人──いや、一匹だけが映り込む。

 銀色の体毛。筋肉質な四肢。四足歩行でジワジワとシアとの距離を詰めるその姿は狼に近い。


 しかし、それがただの哺乳動物でないことは明らかだ。

 大きく伸びた黒光りする爪と、口角から飛び出す巨大な牙。何より、赤く充血した紅の瞳はこの狼たちが『魔獣』であることを示す。


 ファングウルフ。

 知識のないシアには獰猛な魔獣としか映らないが、その道の者が見れば一目でその名が思い浮かぶだろう。

 そして魔獣は人間の肉を主に好む。

 計3匹──倒れるシアを囲っているということは、つまりそういうこと。朦朧とした意識の中でも、今まさに自分が『餌』として見られていることぐらいはシアも理解することができた。


「……はっ……はっ……ぁ、……」


 しかしそうと分かっていながらも、シアは絶え絶えな呼吸を繰り返すことしかできない。

 逃げられる体力なんて、残ってはいない。

 シアの体はおよそ1年間に渡ってあらゆる手段で壊された。もう自力で立って歩くことさえ叶わない。魔獣から逃げるなんて以ての外。


 それらが意味するところは……今度こそ、『終わり』が迎えに来たということ。

 シアはもう抗おうという気力さえなかった。生きようという意思さえも彼女の中には欠片も残っていなかった。

 最期は魔物に捕食される。

 きっと、とても痛いけれど……それさえ我慢すれば楽になれる。

 痛いことならもう何度も経験してきた。あと一回ぐらい、耐えられる──。


「…………、」


 意識を保つのもいよいよ限界だった。

 全身のあらゆる箇所から激痛が走り続けるにも関わらず、瞼はとても重い。

 やるなら早くやってくれ。そう訴えるように、シアは虚ろな視線を魔獣たちの赤い瞳へと送る。


 グルグルと喉を鳴らすファングウルフ。その口元からは獲物を前にした涎が滴る。

 奴らの姿勢が僅かに低くなる。

 そして──四本の足が、地面を蹴り上げた。砂を撒き散らしながら、3体の躯体が力なく横たわる少女へと一斉に襲い掛かる。


 大きく開かれる顎は一直線に首を狙う。

 何度も針を刺された痕が残る白く細い少女の首。立ち並ぶ無数の牙が、今まさにその肉を食い千切らんとする瞬間まで、シアはただじっと見つめ続け。

 死を悟った──その瞬間である。


 一筋の閃光が瞬いた。

 視認することさえ叶わない、正しく光の速さ。

 シアの瞳には、ただ一瞬、何かが光を反射したようにしか見えなかった。それから僅かに遅れて、旋風が吹き荒れる。


 突き抜ける一迅の風。

 気が付けば──倒れるシアのすぐ真横に、ファングウルフの()()()()()()()()()


(……ぇ、……?)


 両目を見開き、開かれた口からはだらしなく舌を伸ばして完全に静止する魔獣の姿。

 つい先ほどまでシアを捕食しようとしていた3匹の魔獣は、ものの一瞬で躯に成り変わり、少しずつ広がる血だまりの中心に沈む。

 すでに意識を保つのが限界であったシアでさえ、その光景を前に呆気に取られた。


「……打ち上げられた魚に子犬共が群がっておると思えば、よもや女子(おなご)とはな」


 声が届いた。

 それと同時、魔獣たちのとは打って変わって隠そうともしない人の足音が何度か響き、シアの頭上で止まる。

 首を動かしてその姿を確認しようとするが、ぼやけた視界に映ったのは骨が浮き出る細い足と砂浜を踏みしめる草履だけ。それより上を確認するには体が限界だった。


「その姿、捨てられた奴隷か。長生きしておると妙なことに出くわすものよ」


 一つ分かることは、皺の寄った肌質と頭上から届く渋い声から、声の主が老人の男性であるということ。

 それ以上は分からない。体は動かないし、意識もいよいよ限界だった。


「して、どうするか……」


 耳に届く老人の声が急激に遠ざかる。

 物理的に離れたのではない。もう、目を開けていることさえ無理だった。

 全身から何かが抜けるような感覚と共に、視界が暗転する。

 シアの意識は再び闇の中へと沈んでいった。



   ◇◇◇



 ──いつの間にか、冷たい床で寝ることに慣れてしまった。

 そんなことを自覚したのは奴隷になって半年ほど経過してからだ。


 かつては毎日のようにフカフカのベッドで寝て、暖かい掛け布団に包まれながら起床することが当たり前だった。

 お風呂やトイレなどの水回りも使用人が欠かさず清掃していたため、清潔であることは当然のこと。その生活がいかに恵まれていたかなんて、これっぽっちも考えたことはなかった。


 毎朝、睡眠と呼べるかも怪しい気絶から目が覚めて、一日一食の質素なパンだけを与えられる生活。

 ボサボサの髪。荒れた肌。排泄は刺激臭の漂うバケツの上。

 唯一、その時々の『ご主人様』の部屋に呼ばれる時だけは体を綺麗に洗う事を許される。夜には結局、ゴミのような醜態になっているけれど。


 気付けばそれが当たり前になっていた。

 なんならこれはマシな例だ。もっと酷い生活を繰り返していた時期だってある。

 体と心を着々と壊し続ける日々がシアの日常なのだ。


 だから暖かい布団の感触なんて、シアはとっくの昔に忘れてしまっていた。




「…………」


 だから次に目を覚ました時……首から下を覆う柔らかい感触が何なのか、しばらく理解することができなかった。

 ──暖かい。

 とても、優しい温もり。

 久しく感じるその感覚に、シアの頭の中は真っ白になってしまった。


(……生き、てる……)


 少し遅れてようやくそこに思い至る。

 体は相変わらず重い。手足を動かそうと思ってもやはり思うようにはいかず、思考も定まらない。だが、生きている。

 なぜかは分からない。

 魔獣に襲われて、誰かに助けられた……というところまではぼんやりと覚えているが、どの道あの状態では衰弱死していたはず。

 今こうして意識があり、確かに呼吸していられる理由が思い浮かばなかった。


「目が覚めたか」


「……?」


 近くから誰かの声が響いた。シアは首を僅かに傾けて声のした方向を視界に収める。

 ──男の老人だった。

 背が高く、細身の肉体。どこか風情のあるゆったりとした白い服はどこか別の国の衣装だろうか。

 老人は座布団の上に腰を下ろし、手元で何か作業をしていた。後頭部でひとまとめにされた白髪交じりの髪の毛がゆらゆらと揺れている。


「まさか丸一日気が付かんとはな。仙薬を飲んでもここまで快復が遅いとは……お主、賽の河原で石積みでもしておったか?」


 クックック、と含むように男は笑う。

 見覚えのない人だった。

 ……と、考えかけたが記憶が呼び起される。シアはこの老人の声を意識を失う直前に聞いていたことを思い出す。

 魔獣に囲われていたシアを助けてくれたのは……おそらくこの老人だ。どうやったのかは知らないが、あの瞬間、シアに襲い掛かってきた魔獣たちは一瞬で死体に変わり果てた。その直後に聞こえてきた声と、目の前の老人の声は確かに一致する。


 シアはぼんやりとした視線だけで周囲を確認する。

 小さな室内だった。随分古めかしい雰囲気だが、ただ古いだけとも違う。老人の衣服同様なんだか風情を感じる木造建築。シアはそんな部屋の一角で、敷布団の上に寝ている。


(この人が、わたしを……?)


 状況からして、目の前の老人がシアをこの部屋まで運び介抱してくれたということになる。

 だから生きている。

 答えは出るが、実感は湧かない。そんな状態でぼんやりと視線を彷徨わせるシアを、老人は横目に窺った。


「なにを黙っておる。よほど酷かったと見えるが、もう喋る程度はできるであろう。意識もはっきりしているはずだ」


 そう指摘され、ふと気づく。

 確かに……妙に思考が透き通っていた。

 もうずっと、シアは自分が起きているのか気絶しているのかも分からない状態だった。数えきれないほどの()()を投与され、幾度となく体を壊され、まともな精神状態ではなかったはず。

 なのに今は、現状がどうなっているかを整理できるぐらいには意識が明瞭になっている。


「な……んで……?」


 ぎこちないが疑問を口にすることもできた。それは決して絞り出したような呻き声ではない。

 正常な──人としての生命活動が、確かに働いている。こんな状態は果たしていつぶりだろうか。


「言ったであろう。お主が寝ている間に『仙薬』を飲ませた」


 シアの微かな声に対し、老人は傍らに置かれていた瓢箪を掲げてみせる。


「儂の常備薬だが、先の短い老いぼれよりも未来ある若者に飲ませる方が健全であろう。万病とはいかんが大抵の病はこいつで治る。味は最悪だがな」


「……」


「なんだ、信じておらんか? だがお主、へそ下にあった呪術は消えてるであろう。それも仙薬の力あってこそ、であるぞ」


 一瞬、何を言っているのか分からなかったシアだが、『へそ下の呪術』と聞いて思い浮かぶのはたった一つだ。

 シアが奴隷にされた日に、メイジであった奴隷商人によって植え付けられた赤色の痣──『淫紋』。

 服が肌に触れる感触だけで気が狂いそうになるほど体が反応し、あらゆる『痛み』が『快楽』へと変換される呪いの魔法である。ハートを象ったアレが下腹部に刻まれてから、シアの体は明確におかしくなった。


 あの時からずっと『淫紋』には苛まれ続けてきた。

 しかし、老人の言葉を受けて気づく。忌まわしきあの熱が……今は感じられない。

 下半身の奥から常に感じていたチリチリとした感覚が綺麗さっぱりなくなっている。


 体はまだうまく動かせないが、見なくても分かる。

 下腹部(そこ)にあるはずの呪いは確かに消えていると実感できた。


 茫然とするシアをよそに、老人は再び瓢箪を床に置く。

 手元の作業に戻る男の目の前には……芸術品とも見紛う白銀の刃があった。

 波紋が浮かび上がる曲線美は、そう──『刀』である。異国から伝わった剣の一種であり、その手のものに詳しくないシアでも存在を知っているぐらいには有名だ。昔、ヴァレンス家にあった本の内容で見たことがある。


 老人はそんな刀の刀身に白い布で何かを塗っていた。よく分からないが、刃が艶やかになっているため油か何かだろう。


「して、お主。なぜあのような場所に倒れていた?」


 粛々と手を動かしながら彼は聞いてくる。


「……それ、は……」


「答え辛ければよい。大方予想はできる」


「……」


「しかし悪運の強い奴よ。儂があの場に現れなければとうに獣どもの胃袋の中であったぞ。子供の新鮮な肉は奴らにとってもご馳走であろう」


 確かにその通りだ。男の言うように、この土壇場にきてシアは運が良かった。

 ……が、それは別に望んだ幸運という訳でもない。

 あの場で死んだって……いや、なんならシアは死ぬことを望んでいたのだから。


「……別に、それでよかった……」


 天井を眺めながら細々と呟く。

 それを聞いた老人は何も言わない。深く詮索するつもりはないのか、それとも単純に興味がないだけか、彼はただ黙々と刀の手入れを続ける。


 しばしの沈黙。

 少しして、老人は傍らに横たわっていた刀の鞘を持ち上げ、刃をその中へゆっくりと納刀した。キン、という鈴のような音色が響く。

 それを合図にして彼の口が再び動いた。


「お主、名はなんという?」


「え……?」


「お主の名だ。それとも奴隷は名前すら与えられんか?」


 人から名前を聞かれるのも随分久しぶりだったせいで僅かに戸惑ってしまう。『もの扱い』が当たり前の奴隷に、名前なんて本来不要なのだから。


「……、シア……です」


 フルネームで答えるべきか迷ったが、喉を通ったのは自身の名前だけだった。ヴァレンスの名を口にすることは心のどこかで(はばか)られてしまう。


「シアか。やはりこちらの国の名は口触りが慣れんな」


 老人は難しそうな表情を浮かべる。やはりというか、妙な風貌といい異国の武器といい、彼は『ブレイザブリク王国』の人間ではなさそうだ。

 そんな予想を肯定するように老人は続ける。


「儂は……そうだな、リュウショウと呼ぶがいい。奇遇だが、お主と同じで儂も家名を名乗れん理由がある。子細は聞くでない」


「……」


「くくっ、隠せておるつもりか? だが、儂も聞かん。奴隷の身の上など興味ないのでな」


 ──リュウショウ。そう名乗った彼は面白そうに小さく笑う。70か、80か……かなりの歳を重ねてそうだが、その表情だけはどこか愛嬌を感じさせた。

 彼は鞘に納めた刀を再び横たえると、改めてシアへ真っ直ぐに向き直る。

 鋭くも、しかし険しい雰囲気は感じさせない瞳がシアを正面から見据えた。


「シアよ。体調が戻るまではここで休んでいくといい。飢え死にでもされたら目覚めが悪い。その後は儂が王都まで送り届けよう」


「……」


「安心せい。奴隷そのものにも儂は興味がない。お主はまず、目の下の隈を消すことに精進せい」


 相変わらず厳格な雰囲気を漂わせる声色ではあるが、今の言葉からどことなく柔らかい印象を感じたのは気のせいではないだろう。

 リュウショウは言い切ると、刀を持って立ち上がり、家の外へとそそくさ歩いていってしまう。

 後ろ手に引き戸を閉める彼の背中を、シアは茫然と見送った。


(……なんで、わたしなんかを……)


 ……実を言うと、ほんの少し『ひどいこと』をされる覚悟はしていた。

 そんなのが当たり前だったから。別にそうなったとして、拒絶するつもりも、できる力もなかった。

 だが今のシアは、首輪もなければ手錠もない。重しの鉄球も繋がっていない。ただ純粋に、柔らかい敷布団の上で寝かされているだけ。


 リュウショウの言葉にも嘘は感じなかった。

 彼はシアが奴隷であることを分かっているようだった。なのに手を出そうとはしない。それどころか介抱まで。


 ──いや、それこそ本来は当たり前のことなのだ。当たり前なのに、疑問を持つようになってしまった。

 おかしいのは、シアの方だった。


(……あたたかい)


 今は考えるのをやめる。

 何かを考えるだけでも頭が疲れる。

 今はただ、久しく感じていなかった温もりに身を任せていたかった。




感想・評価などいただけますと今後の励みになります。

(序盤の暗い展開が続く内は毎日更新していきます)

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