あなたに言われる筋合いはありません!
金糸を織り込んだ深紅の絨毯。その先に立つのは、王太子アデル殿下――つい先日まで婚約関係にあった相手である。
「レアナ゠ヴァンデール嬢。今ここに、君との婚約を正式に解消する」
重々しい声音と共に放たれた宣言に、広間はざわめいた。列席していた貴族たちのあいだに、驚きと好奇の入り混じった空気が広がり、その視線が一斉に、一人の令嬢へと注がれる。
その中心に立つレアナは、ただ静かに王太子を見つめていた。礼を取ることも、顔色を変えることもない。冷静なその眼差しには、すでにすべてを受け入れたような静けさがあった。
だが、王太子の隣に立つ女――義母マルセラが口を開いた瞬間、空気の温度は目に見えて変わる。
「殿下。どうかご理解くださいませ。この子は幼い頃から礼儀作法も学ばず、家の名に泥を塗るようなことばかり……」
白いハンカチで目元を押さえるその仕草は、さながら悲劇の母を演じる女優のようだった。マルセラは、レアナの実母が亡くなった後に公爵家へと迎え入れられた後妻であり、世間的には穏やかで品位ある貴婦人と見なされている。しかし、その仮面の奥に潜む毒を、娘は誰よりも知っていた。
「社交界でも何度も恥をかかされました。ダンスの所作は崩れ、貴婦人の集いでは周囲を困惑させるような発言を……」
「なるほど、それで君の評価は散々だったのだな」
アデルがつまらなそうに呟き、目を逸らす。隣に立つ義母の言葉を信じ切っているようだった。その浅はかな様子に、レアナはもはや憐れみすら感じていた。
なおも続く中傷は、使用人への横柄な態度、腹違いの妹への嫉妬心――見え透いた誹謗ばかりだった。
その“妹”とは、義母のマルセラが産んだ娘であり、レアナとは血のつながりを持たない。いつからか公爵家では、彼女の方が正嫡のように扱われていた。
用意周到に築かれた罠。王太子の耳へと巧妙に注ぎ込まれた虚偽。すべては今日のために――だが、それで満足したつもりなら、読みが甘い。
ついに、沈黙が破られる。
「――そのようなお話を、どこまで事実として受け取られるのかは、お任せいたします」
響いたのは、抑制の利いた静かな声音。だが、そのひと言は雷鳴のように場の空気を切り裂いた。
アデルが小さく眉を動かす。
「……どういう意味だ?」
レアナは一歩、壇の中央へと進み出る。背筋を真っ直ぐに伸ばし、その場にいる誰の視線からも逃げなかった。
「まず、社交界での“粗相”とされました一件について。該当の集いは、確かに開始時刻に遅れて到着いたしました。しかし、手元に届いた招待状には、他の参加者とは異なる時間が記されていたのです」
周囲がざわついた。王宮で行われる正規の催しにおいて、招待状に不備があるなど本来ありえないことだった。
「一度ならず、三度も続いたその“手違い”を、偶然とは判断いたしかねます。届けに来た使用人は、いずれも我が家の者ではなく、義母様の手配によるものでした」
マルセラの肩がわずかに揺れた。その動揺を悟られまいと、なおも表情を保とうとするが、頬に浮かんだ不自然な笑みは、もはや仮面として機能していなかった。
「……証拠はあるのか?」
王太子の問いかけは、もはや不信の色を帯びていた。
「ございます。届けられた封筒の筆跡は、義母様が普段お使いになるものと一致しております。侍女がそれを確認しており、王宮の文書管理官にも照会済みです」
レアナの言葉は感情を抑えた、まっすぐなものだった。ただ事実を述べる。否定も誇張もなく。
マルセラはなおも反論しようとするが、声にならない。空気が変わったのは、その時だった。
「また、“妹への嫉妬”とされました件についても、補足がございます」
観衆が息を呑む。レアナは続けた。
「殿下に贈り物として用意していた宝石箱の中から、“母の形見である指輪”が忽然と消えたのです。そして後日、それを妹が無断で使用していたことを確認いたしました」
「それは……勘違いでは?」
「いえ。妹本人が“部屋に落ちていたから借りただけ”と申しております。それを咎めた際のやり取りが、義母様によって“嫉妬”と翻訳されたようですが――いかがでしょう?」
レアナの視線がマルセラに注がれる。先ほどまで余裕に満ちていた女の顔から、色が引いていた。
「殿下。誤解があるようです。私はただ――」
「――殿下」
その声を、レアナがさえぎった。
「もう一つ、お渡ししたいものがございます」
レースの袋から取り出したのは、一枚の文書。金の印章が封を施し、王宮の承認印が捺されている。
アデルはそれを受け取り、目を走らせた。眉がピクリと動いたのがわかった。
「これは……?」
「二週間前に、私より王宮宛に提出した“婚約解消の申し出”でございます。殿下からのご返答がないため、こうして改めてご提示申し上げました」
周囲が再びざわついた。婚約破棄を告げられるどころか、すでにその申し出は出されていた――しかも、本人から。
「どういうことだ……?」
「殿下が義母様の言葉に傾き、真実を確かめることなく私を退けようとしていたこと、すでに察しておりました。ですので、先に身を引く用意を整えたまでです」
王太子が何か言おうとした瞬間、マルセラが叫ぶ。
「そんな勝手なことを……っ! あなたには、そんな立場など――!」
その瞬間だった。
レアナはゆっくりと顔を上げ、毅然とした声で言い放つ。
「あなたに言われる筋合いはありません!」
その一言が放たれた瞬間、すべてが終わった。誰が正しく、誰が虚偽にまみれていたか、その場にいた全員が理解した。
レアナの視線が、ゆっくりと王太子アデルへと移る。だが、そこに感情はなかった。もはや失望すら通り過ぎた後の、透明なまなざしだった。
この婚約は、亡き母が定めたものだった。王家と公爵家の絆を結ぶために、母が命を懸けて守ろうとした約束。その想いを継ぐことが、レアナにとっての誇りであり、責務であった。
だが――
それを顧みることなく、欲望にまみれた義母が己が娘を押し上げようとしたは愚、真偽も確かめず、耳に心地よい言葉ばかりを信じた王太子の怠慢。
どちらも、母の意志を踏みにじるに値する行為だった。
次の瞬間、レアナの姿がふわりと揺れた。
踏み出した一歩は、先ほどまでの冷静さを打ち破るほど、鮮やかで強い。絨毯を滑るように進み出た彼女は、何のためらいもなく、王太子のもとへと歩み寄る。
アデルがなにかを言おうと口を開いた、その瞬間――
パァン
乾いた音が、広間に響き渡った。
右頬をはたかれた王太子の身体が、ぐらりと揺れる。何が起こったのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
レアナの瞳には、怒りではなく、決意が宿っていた。
静かに言葉が落ちる。
「信じたくて、ずっと待っていたのです。たとえ誰かの言葉に惑わされても、最後にはご自分の目で見極めてくださると。けれど――それは、私の独りよがりでした」
アデルはなにも言えなかった。彼の手の中には、婚約解消の文書が残されたままだ。
レアナは続いて、義母マルセラのもとへと向き直る。目を見開いたまま後ずさるマルセラだったが、その足が止まるより早く、レアナの手が振り抜かれた。
――もう一度、鮮やかな音が響く。
今度は、左の頬。レースの手袋越しに与えられた一撃は、レアナのこれまでの沈黙のすべてを込めたものだった。
マルセラは声にならないうめきを洩らし、崩れ落ちるように膝をつく。
「娘を押し上げたいなら、他を貶めずになさい。人を貶めて得た立場に、何の価値がありますか」
その言葉には、真っ直ぐな怒りと、誇り高さが宿っていた。
レアナは一度だけ深く息を吸い、静かに振り返る。
王太子も、義母も、声をかけられずにいた。威厳も立場も、その場から綺麗に剥がれ落ちていた。
広間は静まり返っていた。
だが、咎める声はどこにもなかった。
むしろ、王太子の頬を打ったあの一撃を「されて当然」とでも言うように、誰もが黙して受け入れていた。
――当然だろう、と。
誰の目にも、彼が信じるべきものを見誤り、守るべき者を蔑ろにした姿はあまりに浅ましく映っていた。
列席していた貴族のひとりがわずかに目を伏せた。その隣に立っていた老侯爵が、低くため息を吐いた。
「王家も……落ちたものだ」
その呟きは誰に聞かせるでもなく、ただ虚空に溶けていったが、その場の空気には確かに響いた。
婚約破棄を宣言したのは王太子であったはずなのに、気づけば、完全に追い詰められたのは彼と義母の方だった。
レアナの態度、立ち居振る舞い、そして最後のひと打ち――何よりも、その場から立ち去る彼女の背中が、すべてを語っていた。
誰もが理解していた。
あれこそが、本物の“誇り高き令嬢”の姿だと。
それは、名家の血筋でも、婚約者という肩書きでもなく、彼女自身の信念と品格が作り上げた尊厳だった。
◇
それから、月日が流れた。
王宮の広間での一件は、瞬く間に貴族社会へと広がっていった。真相を知った者たちは、表向きには沈黙を保ちながらも、陰では王太子と義母マルセラの軽率さと愚かしさを語るようになった。
王太子アデルは、しばらくして別の貴族令嬢との縁談を進めようとしたが、どれもまとまらなかった。政略の価値を見出す家ほど、あの一件で露呈した彼の判断力の欠如を重く見たのだ。
ついには、国王陛下までもが苦言を呈したと伝えられている。
一方のマルセラは、王妃候補に据えようとしていた娘とともに、社交界から姿を消した。何かを弁明しようにも、あの日の“平手打ち”の印象があまりに強く、誰も彼女の言葉に耳を貸さなかった。
かつては貴婦人たちの輪の中心にいた女が、今では名を口にする者すら稀である。
そして――
レアナ゠ヴァンデールは、遠国の招聘を受け、特使としてその地へ渡った。外交儀礼と対話能力に優れた才媛として知られ、現地の王太子から信任を得るに至ったと噂されている。
どこまでも真っ直ぐに、静かに、自分の足で歩み続けるその姿に、多くの人々が心を打たれた。
名誉も立場も、一時はすべてを失ったかに見えた少女は、誰よりも強く、しなやかに、そして誇り高く未来を掴み取ろうとしていたのだった。