ドッペルゲンガー・デスマッチ
昔、ぼくがまだ泣き虫の鼻垂れ小僧だった頃、近所に住んでいた女の子から聴いた話がある。
「この世界には自分と同じ顔の人があと二人いるらしいんだ。それでね、もしそれに出逢ってしまったら……」
『始まりましたっ! ドッペルゲンガー・デスマッチ! ルールは簡単。同じ顔の二人のうち、どちらかが倒れるまで終わらない、その名の通りのデスマッチです! 全世界同時中継でお送りしております! さーて、どちらが勝つか! 久々の試合、楽しみですね〜!』
底抜けに陽気な声が、さっきまで通行人で賑わっていた交差点に響き渡る。ビルが建ち並ぶ都市の中心部で、突如としてドッペルゲンガー・デスマッチが始まった。物見高いオーディエンスが交差点の中央に出現したリングの周りに群がり、いつのまにかその場を取り仕切っている警官たちは、如才なく交通誘導にあたっている。
ぼくは、目を丸くして口を馬鹿みたいに開けて、目の前でそっくり同じ顔をしてぼくを見ているぼくの顔をした誰かさんと対峙している。ボクシングの試合を思い起こさせる、数メートル四方のリングの上で。
『3年ぶりのドペデス! スーツは山田さん、パーカーは佐藤さん! この交差点でばったり、運命の出逢いを果たしましたッ! 同じ顔の人間が出逢うと自動的に組み立てられるこのリング、どちらかが倒れるまで出てこられない仕組みとなっております!』
やかましいアナウンスは、ぼくとぼくのドッペルゲンガーとが立ち尽くすリングのすぐ外、アナウンサー二人が座るテレビ中継のセットから、スピーカーを通じて爆音で流れてくる。
『放送をご覧の皆様はお手元のテレビやパソコン、スマートフォンから、どちらが勝つか予想してくださいね! 景品が当たるかも!』
その言葉に、既に手に手にスマホを掲げていたオーディエンス達が、ぼくたちを凝視するのがわかった。人の視線というのは一種の攻撃だ。ぼくは肩をすぼめて体の表面積を小さくした。「佐藤は弱そうだな」という声が耳に突き刺さる。
景品。景品か。ぼくがここで倒れたら、それを予想したこの世界の何人かが、得をする訳だ。
『前置きはここまでにして、そろそろ試合観戦といきましょう! 勝敗予想は決着の5分前まで有効ですよ』
アナウンサーが勝手に全てを進行していく。ぼくは未だに現実を信じられず、クラクラする頭を抱えた。
ドッペルゲンガー・デスマッチに巻き込まれるなんて、最悪だ。
「ドッペルゲンガー・デスマッチ?」
ぼくが首を傾げると、女の子は笑顔で頷く。公園に差し込む夕陽を背に受けた女の子は、なんとなく不気味に思えた。
「テレビとかヨッチューブとかでやってるの見たことない? 同じ顔の二人が、どちらかが死ぬまで戦わなきゃいけないの」
死ぬまで、なんて恐ろしい言葉だ。
「なんでそんなことしなきゃいけないの」
女の子は、ますます笑みを深めた。そういう話が大好きな子だったのだ。
「世界がそうできているからだよ」
世界には、自分と同じ顔の人間があと二人いて、それと出逢ったら死んでしまう。
……どちらかが。
それが、ドッペルゲンガーにまつわる『事実』だ。二人が出逢うと必ずリングが出現して、どちらかが死ぬまで閉じ込めて放さない。
世界はそうできている。
「不運だったな、俺たち」
ぼくと同じ顔をしたスーツの男・山田さんが、ぼくと同じく泣きそうな顔で言う。ぼくは彼の繰り出した右ストレートをどうにか避けて、さっきからしているように、ふらつきながら距離を取る。
「おとなしく殴られてくれよ。どうせあんた、俺に勝てないだろ」
山田さんは、シュッシュと拳で空を切って見せた。キレのある動きだ。
「フィットボクシングで鍛えてるんだ」
ゲームじゃないか、と突っ込む余裕もない。ぼくは続けて繰り出された彼のアッパーに目を剥いた。山田さんは本気だ。
でも、ぼくだってこんなところで死にたくない。たまたま交差点で同じ顔の人間とすれ違ったというだけで命を落とすなんて、あまりにも酷すぎる。
何か、何かあるはずだ。助かる術が……。
そのとき、頬に衝撃が、ついで痛みが襲ってきた。山田さんのパンチが綺麗に入ったのだ。
『おーっと! これはいいパンチだぁー! 佐藤さん、いよいよ追い詰められたかぁー!?』
頭がぐわんぐわんして、耳が一時的に不能になる。涙が溢れてきて、世界が歪む。
こんなの何発もくらったら、顔が変形してしまう。
そう思ったとき、記憶が蘇った。あの女の子の言葉を。
「じゃあ、ぼくも同じ顔の人と出逢ったら戦わなきゃいけないの」
あの夕陽の公園で、ぼくは悲しい気持ちでそう言った。まさかあの時すでにこうなることを予感していた訳ではない筈だが、どちらかが死ぬまで戦わなくてはいけないなんて、考えただけで悲しくなったのだと思う。
そんなぼくに、女の子は明るく言った。
「大丈夫。他のすべての物事と同じように、ドッペルゲンガー・デスマッチにも抜け道があるから」
「抜け道……?」
「そう。まあ、死ぬほど痛いとは思うけどね」
相変わらずのいい笑顔で女の子は言うが、死なずに済むなら、死ぬほど痛くても我慢する方がいい。ぼくがそう言うと、女の子は「そうだよね」と言った。
「それで、その方法は?」
ぼくはふらつく足をどうにか叱咤して、山田さんを見据えた。涙は流れ続けているし、口の中は血の味がする。正直、全然気は進まない。
でも、死ぬよりはマシだ。
『おっと!? 佐藤さん、とうとうやる気を出したのかーッ?』
アナウンサーの絶叫に、ぼくに賭けていたのだろうオーディエンスの何人かが叫び声を上げる。でも、ぼくは決して、戦おうと決意した訳ではない。
「や、山田さん」
山田さんは初めてぼくに声をかけられて、ビクッとした。
「な、何」
ぼくは、彼にだけ聞こえる声量で、指示を出す。
ああ、ぼくが心底驚いたら、こんな顔なんだな。
そんなことを思いながら、ぼくは目を閉じた。死ぬほどの痛みを食らう覚悟はできた。
次に目を開いた時、ぼくは病院にいた。身体中が今すぐバラバラになりそうなくらい痛むが、何より痛いのは顔……特に顎だった。何が起きたのだったか何も思い出せないが、なぜだか鮮明に、昔よく遊んだ女の子の笑顔が頭に浮かんだ。
「あなたね、元の顔がわからないくらいボコボコに殴られて、顎まで外れた状態で発見されたんですよ」
心配そうな看護師の言葉にも、思い当たる節がない。幸い命に関わるような怪我ではないそうで、数週間で退院できる見込みらしい。ぼくはとりあえず職場や家族に連絡をして、ゆっくり体を休めることにした。
それにしても、鏡を見ると、あまりの顔の変わりように驚いてしまう。目元は腫れ、鼻は曲がり、唇はあちこち切れて、歯は欠けてしまった。外れた顎は寝ている間に嵌めてもらえたらしく、そればかりは不幸中の幸いだと言えよう。
おとなしくベッドに横になっているうちに、また眠ってしまったらしい。ぼくはあの、夕陽の公園にいた。
「私のアドバイスが役に立ってよかった」
いつも一緒に遊んでいた女の子が笑う。やっぱり夕陽を背にしていて、表情の細かなところは影になって見えない。
アドバイス、とは何だったろうか。ぼくは思い出せずに首を捻る。
「世界は理不尽にできているけど、同時にみんなのことを愛してもいるんだよ。こうしてコミュニケーションがとれる、君のような相手のことは、特にね」
女の子の言う意味が何ひとつわからない。そもそも、この子とはどういう経緯で知り合ったのだったか。近所に住んでいて、いつもこの公園で遊んで……それくらいしか、記憶にない。
けれども、なぜだろう。
この子は絶対にぼくの味方だ。そんな気がする。
「そうだよ。私はさっきも言ったように、君のことを愛しているからね。これからも理不尽に見舞われるかもしれないけれど、君は大丈夫。きっとその度に、私のアドバイスを思い出せるよ」
嘘みたいに明るい夕陽が、ますます光を強めていく。女の子の輪郭が光に溶けて、風景と共にぼやけていく。
ああ、ぼくは世界に助けられたのか。
夢から覚める直前、そう思った。